知らず、ノートブックに書きためてものの多さに驚く。
こうして、ここに、書き留めていたものもあるが、ほとんどはノートの中の閉じられたページにある。
話をすることと、聞くことも、対の反するものとして、ノートにしまわれていく。
会話は、話をしながら、話者と聞者が互いに交代しながら、時間が進む。
食事にしても、会話が楽しければ食事がおいしいし、会話が話にならなければまずい、苦い。
コーヒーやお茶にも、互いに会話が進めば、この関係は成り立っている。
楽しい、暖かい話だけではなく、辛い思いや失敗もある。
そんなときは、うなずきながら食べる。コーヒーを味わう。
話すことの意味も、聞くことの意味も、交互に交差して、食事やコーヒーは身体の中に飲み込まれていくようだ。
面白いなあ!
従兄弟とは、話した記憶があまりなく、足が弱くなって、外出が思うように出来なくなっていることは承知していました。
葬儀は、親戚鑿で行い、49日忌に納骨があり、ホテルで会食をしました。
そこで、従兄弟の妹さんと隣り合わせになって、ヒョンなことから、戦争の話題が持ち上がりました。
昭和20年3月10日、東京下町が空襲にあい焦土と化した、あの日のことです。
「あの日は、空襲警報がけたたましく鳴り、疎開している兄たちを除いて、祖父に祖母、兄夫婦と従姉妹は、防空壕に避難しました。
ところが、大勢駆け込んできていて、蒸し暑さがひどくて、立ちこめた空気も暑っ苦しくなったの。
そしたらね!祖母のミヤさんが、『あたしは、こんな暑っ苦しいところはごめんだね!どうせ死ぬなら、お寺に戻るからね。』とサッサと防空壕を出て行ってしまうのね。
そこで、お婆さんを一人に出来ないと、家族みんなでお寺へ戻ったの」と話してくれました。
陽岳寺は、関東大震災で焼け、大正2年の3月7日の深川の大火で焼失、そして関東大震災で新築された本堂も焼けてしまいました。
祖父が、二度の類焼する火災で燃えないようにと、昭和6年に当時では珍しく鉄骨鉄筋コンクリート造りの本堂を建立しました。
庫裡は木造でしたが、本堂への扉は鉄板で作っていました。類焼を防ぐため窓は小さく火災に備えた造りでした。
そこで、「それでどうなったの防空壕とお寺は?」と聞くと、従姉妹は、「庫裏は空襲で燃えてしまったのだけど、本堂は、防火用水からバケツで、水をかけて丸焼けにならなかったのね!
それに、深川のお寺が全部、空襲で消失してしまったので、陽岳寺の本堂で合同法要をしたのよ。1年ぐらいは続いたみたい。大変だったのよ!
今も、障子や本堂内の天井や梁が黒くなっている跡があるわよね」と。
そこで、私が、「一カ所の障子の桟の窓側全体がお焦げのように黒くなって、障子紙の張り替えの時、注意して張って、今も残しています。そうそうそれで、防空壕はどうなったのですか?」と従姉妹に聞くと。
「防空壕の中に避難した人たちは、ダメだったの!」と。
何か、そんなことがあったと、ただ事実だけを胸にしまって、散会したのでした。
町会でも、多分5年前ぐらいに、東京大空襲の様子を記録として残しておかないと、総務が、古老にインタビューしたものが残っています。が、この人達が生きている間は、表に出さないと決めています。
防空壕が、何処にあったのか?聞いていなかったのを思い出したのですが、詳細はほとんどわかっていないのです。
東京どころか、日本中で空襲の被害が、地域によって被害の違いが伝わってきます。
同じように日本軍も、朝鮮半島から中国、台湾、東南アジア、インド洋、オーストラリア周辺まで進軍したことから、どれだけの犠牲者がいるのか、その人達の尊い命も、いたまねばなりません。
深川の下町の家々も、当時を知るお年寄りも少なくなっています。
何か年末をの忙しさを想像できる言葉です。
ところが、別の角度からいえば、これぞ日常三昧という意味にとれるから不思議です。
コロナ禍で、私達の日常は、ガラッと変わりました。
見えないモノの存在に用心しながら暮らす生活には、日常三昧は遠く及ばないことです。
日常三昧は、見えないモノにとっても、恐ろしい暮らし方になるでしょう。
この三昧に入れば、日常は格別な意味を持ちます。