《 平成23年3月11日金曜日、午後2時46分に起きた千年ぶりといわれた巨大地震と、福島の原発の暴挙にも、いまだに希望が見えません。
人は誕生したとき、誰でも、気づかないけれど、自分の荷という歴史を背負っているものです。
まして、3・11以降には、その荷の重さはそれぞれ異なるものですが、未来に生まれるものにとっても、共通な重さを科してしまったことを、
日本人は、決して忘れてはいけないと思っています。
この困難な時代に、思いも掛けず亡くなってしまった多くの方々に代わって、自分が生きているという事実を見つめたい。
考えて見ると、頂いた命も、ほんの少しの間、しばし留まるだけの命に感謝し、
生きている間、他の頂いた命を持つ人たちと、あたたかい心を、ほんの少しの間だけれども分かち合わねばならない。
次々と訪れる、心配や苦しみは、むしろ人生の道しるべとしたいし、生きる糧としたい。
逃げてはならないことだし、見つめることは、引き受けることに通じる。
いったいどんな意味があるのか。なぜこんなことになったのかと考えることは、そのまま、背負って立つことになる。
すると、自分への励ましとなることで、新たな想像力として、意思の力となってみなぎり、自分自身を、養えるはずだ 》と。
この地震以降も、災害が絶えることはなく、今も続いています。
平成25年4月13日淡路島近海地震M6.3
平成25年9月16日台風16号による被害は、京都と滋賀の町を水害に遭遇し、囲んだ山々の倒木被害が多数発生しました。
平成26年8月20日広島線状降水帯豪雨による土砂災害
平成26年9月27日午前11時52分御岳山噴火
平成27年9月10日台風18号は、鬼怒川の氾濫で多くの被害が発生しました。
平成28年4月14日午後21時26分に起きた、熊本県熊本市を襲ったM6.5地震
平成29年7月九州北部豪雨災害
平成30年9月6日午前3時7分北海道胆振東部地震
平成30年6月18日午前7時58分に大阪北部地震M6.1
令和元年10月12日台風19号による関東から以北の太平洋沿岸地域の風水害
令和2年7月3日から8日にかけて梅雨前線による被害洪水が九州熊本に発生。
これは、日本で起こった災害の、ほんの一部です。
一昨年の12月に中国武漢で発生したコロナ禍、昨年の3月4月5月のうねりが小さく見えて、まさかここまで脅威としてしまったことは残念です。
感染症という人類に襲いかかるものが、地域という世界への課題に対して、何でこう各国において、
個人も、年代も、バラバラのようになってしまった感があります。
まるで時間から見るとうねりのように、現在進行中のコロナ自身も姿を変えながら、人類に挑むかのような挑戦です。
世界は共に生きていたと思っていたら、コロナの猛威は人類に対する挑戦のように、世界にリーダーシップをとる国もありません。
人は内向きになれば外を見ないように、自分のことで精一杯なのでしょうが、せめて、トモに、共に、協(とも)にを忘れないで欲しいのです。
これがなくては、バラバラとなって、他者を思いやる心さえ忘れてしまいます。
世界も日本も、共存・共感・共生・共同・共和・共学・共通・共演の共と、ともにあることが理想です。
日本の地域も、「とも」にがあるから、独自の歩みがあってもよいのですが、共にがなければ、バラバラとなります。
そしてどんなときでも、この世の中に明るさを求めて歩み続けたいし、他者を限りなく愛さねばならない。
さらに動物や植物、地球や宇宙までも、命として交信したい。
共に歩き、共に探し、共に笑い、共に誓い、共に感じ、共に選び、共に泣き、共に背負い、共に抱き、共に迷い、共に築き、共に願い、
そんな日々を描きながら・・いつもの日も、どんなときも、共に歩めと。
命とは本来、世界と繋がったひとつものですが、私たちは大きなひとつの命の世界に生きていることに気がつけば、
そこには、俺が・私がと隔てるものは、何もありません。
それさえ気づけば、人の命を、そしてすべての生きとし生ける命を、今生きている、過去に生きた、未来に生きる命を、敬うことができます。
敬うこととは、手を合わせることですが、一つという命を表現するものです。また合掌は、あなたを尊しとするものと思うのです。
私たちの手は、自殺するために、あるのではないし、人を傷つけるために、あるのでもありません。
また人のものを奪うためにあるのでもなく、人を悲しませるためにあるものでもありません。
その手は、手を合わせるためにあり、支え合うためのものです。
「世の中の、苦しきことを、人が問うならば。
人をへだてる心と答えよ」とお釈迦さまは言いました、人をへだてる心。
これによって、一番苦しい思いをするのは、自分自身であることを忘れてはならないと思うのです。
そのために……、お釈迦さまは、慈悲を語ります。
いかなる生き物も、それは、動物であろうと、植物であろうとあますところなく、細長いものも、巨大なものも、中くらいのものも、小さなものも、
眼に見える大きさのものも、眼に見えないものも、今ここにいるものも、あるいはいないものも、遠くに、あるいは近くに住んでいるものも、
過去に存在したものも、あるいは未来に存在しようとするものも、あらゆる生きとし生けるものが、心から安楽であるように、穏やかなように、平安であるように!と。
人々よ!怒りを克服するためには、慈しみを学びなさい。
慈しみは、いっさい見返りを求めることなく、人々に幸せをもたらします。
残酷さを克服するには、あわれみを学びなさい。
あわれみは、他人と自分の心の境目をなくすことで、人々の苦しみを取り除きます。
憎しみを克服するためには、共に喜ぶ心を学びなさい。
共に喜ぶ心は、人々の幸せを喜び、人々の成功を望むときに生まれるものです。
偏見を克服するためには、とらわれのない心を、学びなさい。
とらわれのない心は、現実の有り様として、異なることばかり、違いのあるものばかりです。
すべてを、ひらかれた心そのままに見ることができれば、平等に見る力となるでしょう。
人々よ、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心、これら四つの学びは、美しく深い心の現れです。
人々が他の人たちのために、みずみずしい活力と幸せの源になれるようにと。
そんな自己であることが、共に輝くことを信じ、犀の角のようにただ独り、共に、歩めと。
コロナに打ち勝つ年でありますように!