お施餓鬼の法要では、お寺の最大のお位牌を、棚の上にのせて安置します。
まつられるお位牌は、三界萬霊十方至聖等の位牌、十方檀那六親眷属の位牌、盡祠堂内各々霊位の位牌を、真ん中に安置し、読経いたします。
それぞれの檀信徒の家族の亡くなられた家族だけではなく、様々な亡くなられた方々です。
その方々に、お経を挙げるのですが、亡くなった人たちですから、身体がない。眼に見えない、言葉としても聞こえません。触れることもできません。
しかも、コロナ禍による感染を控えてのオンラインであり、こちらからは、オンラインの向こうは見えません。
先日のことです。ご主人が亡くなられて、お寺で新しいお位牌を作られたご婦人が墓参に来られました。
そのとき婦人は、「新しいお位牌を仏壇に安置しましたが、何だか、この新しいお位牌に主人が居るような、気分におおわれます」と話していました。
お施餓鬼は、多くの亡くなられた多くの方々を、見えない依り代として、この三つのお位牌をかかげて、お経をお読みいたします。
お位牌は、依り代です。施餓鬼棚も依り代、12枚の旗も依り代です。幕も依り代です。
依り代とは、融合という、現実の姿形をした時間の記憶が、依り代である位牌に、氷が融けるように融合していくと考えられます。
お釈迦さまは、「依りて起こること」、と伝ています。
また、「縁にして起こる」とも言われています。
縁にして起きるは、意識と無意識との関係のように、意識を縁として無意識が現れる。
もっとも現れてみれば、無意識は意識になってしまうのですが、無意識を縁として、意識が現れる。
どちらにしろ現れるのですが、「依り代」とは、こういう不思議なものです。
この依り代に対して、ちょっと不思議な言葉を作ってみました。
神が神の中で、神を探すかい。これは神が、神を縁として、神を探すかい。
神は絶対とするならば、神を探せば限定されるわけですから、絶対でなくなることになりますよね。
仏が仏の中で、仏を探すかい。
私が私の中で、私を探すかい。
これは、私という自己が、自己の中で、自己を探すかいと。
では、空が空の中で、空を探すかい。
空を私としたら、宇宙を私とした。山を私としたら、海を私とした。
一本の大きな木を私としたら、大地を私とした。
雲が雲の中で、雲を探すかい。
世界は物語ばかりだ。
というのは、私が、地域が、国が、国の中で、物語を探している。
学校が学校の中で、学校を探している。
家庭が家庭の中で、家庭を探している。
日本が日本の中で、日本を探している。
地域が地域の中で、地域を探している。
私とは、世界とは、国とは、学校とは、地域とは、物語を作ることで除かれて、削られ、塗られて疎外されたモノがあるはずなのです。
器の中は、もともと、在るがままです。
私から私へと、貴方から貴方へ、その器も、もしかして私にとって、貴方にとって、依り代なのかもしれない。
その器に浮かぶ意識は、限定するもの、疎外するもの、排除するもの、好ましいもの、そしてそれぞれ相対する、相反するモノです。
考えてみれば、物語は理想をかかげる志向が強いが為に、排除するモノによって支えられているという矛盾によって成り立っているともいえます。
考えてみれば、世界が開かれれば開かれるほどに、矛盾が増して、その矛盾に的確に答えが生まれなくなっています。
器だし、器の中の私という次々と生まれてくる私の意識は、一体いつの私なのかと問いを出しながら、生まれてくる私だ。
私の身体全体は、依り代とも言えるものです。
人も年齢を加えてくると、依り代の衰えに、嘆くこともあるのですが、依り代の衰えと共に、私は考えながら歩んでいます。
お施餓鬼のお経の冒頭は、「若し人、三世一切の、仏を知らんと欲せなば、まさに、世界の一切は、おのれ自身の心が造ると、観ずべし」です。
「若し私が、過去・現在・未来の仏を知ろうと望むならば、世界の一切は、私自身の心が造ると、観察すべし」と言っています。
三界萬霊十方至聖等の位牌、十方檀那六親眷属の位牌、盡祠堂内各々霊位の位牌は、さまざまな器を入れられる位牌です。
だからこそ、こうして一年に一度、その器の中の世界の意識を、日本の意識を、地域の意識を、家族の意識を、故人の意識に、お経を唱えるのです。
まつられるお位牌は、三界萬霊十方至聖等の位牌、十方檀那六親眷属の位牌、盡祠堂内各々霊位の位牌を、真ん中に安置し、読経いたします。
それぞれの檀信徒の家族の亡くなられた家族だけではなく、様々な亡くなられた方々です。
その方々に、お経を挙げるのですが、亡くなった人たちですから、身体がない。眼に見えない、言葉としても聞こえません。触れることもできません。
しかも、コロナ禍による感染を控えてのオンラインであり、こちらからは、オンラインの向こうは見えません。
先日のことです。ご主人が亡くなられて、お寺で新しいお位牌を作られたご婦人が墓参に来られました。
そのとき婦人は、「新しいお位牌を仏壇に安置しましたが、何だか、この新しいお位牌に主人が居るような、気分におおわれます」と話していました。
お施餓鬼は、多くの亡くなられた多くの方々を、見えない依り代として、この三つのお位牌をかかげて、お経をお読みいたします。
お位牌は、依り代です。施餓鬼棚も依り代、12枚の旗も依り代です。幕も依り代です。
依り代とは、融合という、現実の姿形をした時間の記憶が、依り代である位牌に、氷が融けるように融合していくと考えられます。
お釈迦さまは、「依りて起こること」、と伝ています。
また、「縁にして起こる」とも言われています。
縁にして起きるは、意識と無意識との関係のように、意識を縁として無意識が現れる。
もっとも現れてみれば、無意識は意識になってしまうのですが、無意識を縁として、意識が現れる。
どちらにしろ現れるのですが、「依り代」とは、こういう不思議なものです。
この依り代に対して、ちょっと不思議な言葉を作ってみました。
神が神の中で、神を探すかい。これは神が、神を縁として、神を探すかい。
神は絶対とするならば、神を探せば限定されるわけですから、絶対でなくなることになりますよね。
仏が仏の中で、仏を探すかい。
私が私の中で、私を探すかい。
これは、私という自己が、自己の中で、自己を探すかいと。
では、空が空の中で、空を探すかい。
空を私としたら、宇宙を私とした。山を私としたら、海を私とした。
一本の大きな木を私としたら、大地を私とした。
雲が雲の中で、雲を探すかい。
世界は物語ばかりだ。
というのは、私が、地域が、国が、国の中で、物語を探している。
学校が学校の中で、学校を探している。
家庭が家庭の中で、家庭を探している。
日本が日本の中で、日本を探している。
地域が地域の中で、地域を探している。
私とは、世界とは、国とは、学校とは、地域とは、物語を作ることで除かれて、削られ、塗られて疎外されたモノがあるはずなのです。
器の中は、もともと、在るがままです。
私から私へと、貴方から貴方へ、その器も、もしかして私にとって、貴方にとって、依り代なのかもしれない。
その器に浮かぶ意識は、限定するもの、疎外するもの、排除するもの、好ましいもの、そしてそれぞれ相対する、相反するモノです。
考えてみれば、物語は理想をかかげる志向が強いが為に、排除するモノによって支えられているという矛盾によって成り立っているともいえます。
考えてみれば、世界が開かれれば開かれるほどに、矛盾が増して、その矛盾に的確に答えが生まれなくなっています。
器だし、器の中の私という次々と生まれてくる私の意識は、一体いつの私なのかと問いを出しながら、生まれてくる私だ。
私の身体全体は、依り代とも言えるものです。
人も年齢を加えてくると、依り代の衰えに、嘆くこともあるのですが、依り代の衰えと共に、私は考えながら歩んでいます。
お施餓鬼のお経の冒頭は、「若し人、三世一切の、仏を知らんと欲せなば、まさに、世界の一切は、おのれ自身の心が造ると、観ずべし」です。
「若し私が、過去・現在・未来の仏を知ろうと望むならば、世界の一切は、私自身の心が造ると、観察すべし」と言っています。
三界萬霊十方至聖等の位牌、十方檀那六親眷属の位牌、盡祠堂内各々霊位の位牌は、さまざまな器を入れられる位牌です。
だからこそ、こうして一年に一度、その器の中の世界の意識を、日本の意識を、地域の意識を、家族の意識を、故人の意識に、お経を唱えるのです。