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元号は、江戸時代では幕府が、災害や戦乱・吉事などにより随意に変えていました。
つまり、天皇陛下の代替わりもありましたが、その時の自然の驚異に、政治的なもの、戦乱など世相的なもので気分一新ということらしいのです。確かに、上皇が退位されて、現天皇が即位されましたが、昭和から平成の時代変遷に比して大きく違っています。

新天皇が即位されたのは、過去には光格天皇の例がありました。
光格天皇と言えば、安永(1772-1781)・天明(1781-1789>)・寛政(1789-1801)・享和(1801-1804)・文化(1804-1818)の元号の時代に天皇としての執務を遂げられた方でした。 
光格天皇の在位期間は、安永9年(1780)1月1日より文化14年(1817)5月7日ですので、37年と5ヶ月間ということでしょうか?
その間の元号は5つも代わっていました。

徳川幕府では、徳川家治・家斉の時代、大老・老中には、田沼意次、松平定信ほか19名もいました。また家治の義理の甥にあたる光格天皇であったことから、幕府との関係も悪くはなかったのではないかと考えられます。

さらに光格天皇は、中世以来絶えていた朝廷祭式の再興、と朝廷の権威復権に熱心だったことから、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されて、尊皇思想の下地を作って、明治維新への入り口を作った天皇であるとも考えてよさそうです。

また学問詩歌音楽に秀でていたこともあり、公卿の大学寮再建を構想されましたが、次の仁孝天皇に託して学習所として竣工しました。これが後の学習院の前身となりました。光格天皇は仁孝天皇に譲位し、翌々日5月>日に上皇(太上天皇)なりました。

平成から令和と代わる道筋がこの光格天皇から出ていることがわかります。

話は変わって、日本史瓦版に、『京都に天明の大火が起こったのは天明8年(1788)1月のことだが、焼け出された光格天皇は聖護院に仮住まいとなり、公卿たちもそれぞれ町屋で仮住まいすることになった。

ところが、堅苦しい屋敷住まいから解放された公卿たちの中には、羽目を外して非行に走るものもいて、寛政元年(1789)の秋に老中松平定信は関白・鷹司輔平と相談の上、それら公卿18人を処罰した。消失した御所は寛政2年に再建されたが多くの公卿たちは、まだ町屋仮住まいを余儀なくされていた。そして前年の処罰にも懲りず、またぞろ不行跡をつづけていた。寛政3年に、これら悪質な公卿たちは、一斉に隠居逼塞を命じられた。』と書かれていました。天明の飢饉で、伏見義民の事件があったときの天皇だったのです。

昔の京都の地域ニュースですが、光格天皇も苦労されたのですね。ちなみに光格天皇が住んだ皇居は、土御門東洞院殿で、後の京都御所の原形となった場所でした。

明治になってからです、元号一代の時代になったことは。今さら何をと思うのですが、明治以前の元号制度も昭和の大戦による元号制度も、一代限りの元号制です。ただ違うのは、昭和憲法により、国民統合としての象徴像は昭和天皇が初めてだったことです。
平成という元号は、「内平外成(内平らかに天成る)」史記、「地平天成(地平らかに天成る)」書経から典拠したものでした。元号からいって天は天皇と結びつきますが、庶民としては、内や地は人間一人一人の心として、天は日本とか世界に当てはめてみれば、自己と外との関係になります。

それから、令和の令は、万葉集「令(よ)い月」と風和(なご)やか」から取ったことが報道されています。令は、命という漢字から口を除いた年令の令です。言葉は意味を表し、言うよりは聞くことから、神様の神意を聞くということとなり、さらに自然/世界の声を聞くこと>、困った人の声を聞く>ことが、良いことの意味になります。

和とは、もともと単体の漢字ではなく、和平や和順など、戦争をしていたものを講和によって平和をもたらすことが和の語源でした。戦争や争いを治める熟語となるのですが、その熟語から、和を独立させたのが聖徳太子です。

万葉集には、このような中国から渡来した漢文を、大和言葉にした使い方が示されています。和は、和(やわ)らぐ、和(なご)む、安らいだ響きがあります。和(なご)む和(やわ)らぐことは令(よ)いこと、と単純に解釈してよいのではないかと思います。

上皇、現天皇も含めて行啓は、地球の十五周半と文筆家の加藤直樹さんは計算しました。その足跡を分類すれば、慰霊とゆるし、慰問と同調に励まし、聴くことに徹して、うなづきと微笑み、祈りと願いを含んでの生涯の大半を旅に尽くしたようです。それを新聞やテレビのニュースでは意見し、痛々しく見えるときがあります。

日本国民統合の象徴というと、具体的な姿が描けないからです。象徴とは、陛下のいう身の丈は、目線か。徹底して膝を折り、何度もうなづいて聞き入れる、「お身体をお大事に!」「元気にお過ごしてください」と聴くと、際限のないやさしとなって、………行為やたたずみの中に、200年かかって現れるものかもしれません。
そういえば、上皇は靖国に行かなかったなと、これも、上皇の強い思いなのはだろう。それに、賢所の祭祀も、日本の先祖という、また別の供養なのかと、ふと思う。
2019.05.01 Wed l うつつ l コメント (0) l top
今年の4月から青少年対策富岡地区委員会という地元組織に参加して、とにかく1年は委員として奉仕しようと決めました。
7ヶ月経って、小中学校などの現況に触れるほど、この変わりゆく姿に危機感を覚えます。

平成30年10月25日、全国国公私立小中高等学校の「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校生徒指導上の諸課題に関する調査結果」を文科省が公開したことを知りました。

 この調査は、暴力行為、いじめ、出席停止、長期欠席、自殺教育相談、中途退学などを全国の小中学校と高等学校に対しておこなったものです。調査の結果を拾ってみました。

1)小・中・高等学校における,暴力行為の発生件数は63,325 件(前年度59,444 件)であり,児童生徒1,000 人当たりの発生件数は4.8 件(前年度4.4 件)である。

2) 小・中・高等学校及び特別支援学校におけるいじめの認知件数は 414,378 件(前年度 323,143件)と前年度より91,235 件増加しており,児童生徒1,000 人当たりの認知件数は30.9 件(前年度23.8 件)である。
なお,前年度調査における児童生徒1,000 人当たりの認知件数の都道府県の差が,最大で19.4倍となっていたところ,今回の調査結果では12.9 倍となっている。都道府県の差がなくなっている。そして、いじめ防止対策推進法第 28 条第 1 項に規定する重大事態の発生件数は474 件(前年度 396 件)である。
いじめ防止対策推進法に関する「地方いじめ防止基本方針」等の策定又は設置状況は,次のとおりである。

3) 小・中学校における,長期欠席者数は,217,040 人(前年度206,293 人)である。
このうち,不登校児童生徒数は144,031 人(前年度133,683 人)であり,不登校児童生徒の割合は全体の1.5%(前年度1.3%)である。

4) 高等学校における,長期欠席者数は,80,313 人(前年度79,391 人)である。このうち,不登校生徒数は49,643 人(前年度48,56

5 人)であり,不登校生徒の割合は全体の1.5%(前年度1.5%)である。
5) 高等学校における,中途退学者数は46,802 人(前年度47,249 人)であり,中途退学者の割合は全体の1.3%(前年度1.4%)である。

6) 小・中・高等学校から報告のあった自殺した児童生徒数は250 人(前年度245 人)である。小・中・高等学校及び特別支援学校における,いじめの認知件数は414,378 件であり,
  この認知件数は,小学校317,121 件(前年度237,256 件),中学校80,424 件(前年度71,309件),高等学校14,789 件(前年度12,874 件),特別支援学校2,044 件(前年度1,704 件)。全体では,414,378 件(前年度323,143 件)。

 さて、全国小学校児童数、6,463,416名中、不登校は例年更新して35,032名です。中学校では、3,357,435名中、108,999名でした。

 記載されていた平成3年度の小中学校児童生徒合計が、14,345,743名で、不登校児童生徒数は66,817名なのです。
平成29年度小中学校児童生徒数の合計は、9,820,851名で、不登校児童生徒数は、144,031名です。
子ども達が減少したにもかかわらず、不登校児童生徒数は3倍近く増えています。

病気や経済的理由による欠席は、不登校として扱われていません。少しでもいじめの傾向があれば児童や生徒の命を守るために警察や児童相談所に通報されるようになったことも増員の影響結果となったようです。
この結果、長期欠席者の合計は206,293名で、そのうち何らかの病気による長期欠席者は45,362名ですので、経済的理由や不登校などの欠席者は、160、931名にもなっています。

また10月30日、文科省が、「教員勤務実態調査平成28年度分、分析結果および確定値公表」と発表しました。

その内容は、毎日新聞の夕刊速報によると、『1日の平均実勤務時間は11時間17分。職種別で見ると、最も長いのは「副校長、教頭」で12時間33分。1日8時間労働とすると、連日4時間半の残業をしていることになる。月20日間の勤務と考えると、「過労死ライン」の80時間を大きく上回る計算になる。過重勤務の防止に向け必要な対策を尋ねると、教職員の78.5%が「教員の増員」と圧倒的。次いで多かったのは「学校行事の見直し」(54.4%)、「教員同士のコミュニケーション円滑化」(43.1%)。「校内会議時間の短縮」も38・8%を占めた』と、記事でした。

今年、小中学校校長先生、副校長、教員の先生方の表情を見たりしたものの、その穏やかだった様子が変わってくるような、そして、この数字に上乗せされた数字が出ることは確実のような気がします。

全国の小中学校高等学校の悩みは、地域の悩み、家族の悩み、ご両親の悩みと共有することが何よりも、他人事ではなく、必要なことだと思うのです。

 世界は違いによって成り立っていますから、その違いをそれぞれの人が等しく観察し受容したとき、平等な世界が実現します。
また、私たちは、他人の違いはよく見えますが、よく観察できますが、自分の違いはなかなか見えないものなのです。

 このことは、私とは他人と比較できることが難しいことからではないでしょうか。自分自身の変わりゆく姿と意識の持ち方は可能性を秘めています。変わりゆく私という違いは、変わり続けることで成り立っているからです。それは、どう私が生きるか、生きる私と、常に今、問われているからです。
2018.10.31 Wed l うつつ l コメント (0) トラックバック (0) l top
平成二十二年六月の末のことでした。
所用で、町内のKさんの家にお邪魔したときのことでした。昭和六十一年四月十八日生まれのH君は不在でしたが、久しぶりにお母さんとお話しをすることができました。
 H君は、身体障害者であり、精神的にも発達障害をもっています。さらに、テンカンを持つことから、現在二十四歳であっても、一人では散歩もできない子です。
 小学生の時からずっと、毎朝、お母さんが電車でH君と通学する姿に、朝の挨拶をして、見守っていました。母と子、あるいは父と子の連れだって歩む姿は、今も同じです。
 遠くから、その姿を見ているだけで心が痛みます。
 今、週に三日ほど、障害者の福祉園に通っていることをお聞きいたしました。行かない日はヘルパーさんが来て散歩をする日々です。そのヘルパーさんとは、相性があり、H君のコンディションもありと、思うようにはいかないようです。その日は、福祉園に行っているとお聞きしました。そろそろ親離れの練習でもしているような気がしたのです。

 お話を聞き、思い出したことは、障がい福祉部会で、昨年十一月二十日、亀戸福祉園を見学したことでした。七ヶ月も経っていましたが、あらためてよく知るH君が、今、通っていると、その様子が浮かび上がるから不思議です。
 見学したときは、素通りするように見学した施設も、見知っている子が通っていると知るだけで、あらためて、とても有り難く思えるのことに、人の気持ちの身勝手さを思いました。
 そして、思ったことは、やはり、この親と子の未来の姿です。
 障害を持って生きる家族にとって、私が想像するよりは、はるかに多くの葛藤を背負って生きていることを思います。
 それでも、未来を考えることは必要だと思うのですが、その考えられる未来を悲観的に心配するよりも、今を、たくましく生きる姿を見たいと願うからです。
 こんな詩に出会ったからです。子と母の詩です。

 ごめんなさいね おかあさん
 ごめんなさいね おかあさん
 ぼくが生まれて ごめんなさい
 ぼくを背負う かあさんの
 細いうなじに ぼくはいう
 ぼくさえ 生まれなかったら
 かあさんの しらがもなかったろうね
 大きくなった このぼくを
 背負って歩く 悲しさも
 「かたわな子だね」とふりかえる
 つめたい視線に 泣くことも
 ぼくさえ 生まれなかったら

 ありがとう おかあさん
 ありがとう おかあさん
 おかあさんが いるかぎり
 ぼくは生きていくのです
 脳性マヒを 生きていく
 やさしさこそが 大切で
 悲しさこそが 美しい
 そんな 人の生き方を
 教えてくれた おかあさん
 おかあさん
 あなたがそこに いるかぎり
 
 この詩に対して、母が詠います。

 私の息子よ ゆるしてね
 わたしのむすこよ ゆるしてね
 このかあさんを ゆるしておくれ
 お前が 脳性マヒと知ったとき
 ああごめんなさいと 泣きました
 いっぱいいっぱい 泣きました
 いつまでたっても 歩けない
 お前を背負って歩くとき
 肩にくいこむ重さより
 「歩きたかろうね」と 母心
 ”重くはない”と聞いている
 あなたの心が せつなくて
 わたしの息子よ ありがとう
 ありがとう 息子よ
 あなたのすがたを見守って
 お母さんは 生きていく
 悲しいまでの がんばりと
 人をいたわるほほえみの
 その笑顔で 生きている
 脳性マヒの わが息子
 そこに あなたがいるかぎり

 奈良県の桜井市に、昭和三十五年に生まれた山田康文君という子がいました。この子は、生後十二日目から黄疸が出て高熱の症状がありました。お母さんは奈良県立医科大学にて診察してもらいました。検査の結果は、脳性麻痺だったそうです。お母さんは、普通のお母さんが心配するように、多くの病院を訪ねたそうです。そして、治療や訓練を施したとも語っています。それこそ、子供を道ずれにして、死ぬことも考えたそうです。
 この詩は山田康文君の心の中から、養護学校の向野幾代先生が掘り出したものです。
 「ごめんなさいね おかあさん」だけで一ヶ月という時間がかかったそうですが、完成するまでの時間に、どれほどの苦労があったか、想像を絶します。
 そして、息子の詩に、お母さんが答えて、詩を創りました。そして、なんと、康文君の作品が完成して、二ヶ月後に彼は亡くなりました。
 「ごめんなさい」と康文君の全存在に、深い悲しみがあります。その悲しみに対して、お母さんは、「悲しさこそが美しい」と教えます。背負うわが子の「重くはない」の優しさに、「あなたの心が切なくて」と、お母さんは生きる力を受け取ります。
 息子が亡くなったあとの、母、京子さんの言葉です。「今までは、息子の幸せしか考えられない母親でしたが、今はすべての子供の幸せを願う母親になりました」と。
 本来、人は誰でも持っているはずの、慈しみと悲しみの花が咲く姿に、人間の素晴らしさを、教えられました。
2018.09.14 Fri l うつつ l コメント (0) トラックバック (0) l top
平成30年西日本豪雨災害で亡くなられた方々には、お悔やみ申し上げますとともに、被害に遭われた総ての皆様に心よりお見舞い申し上げます。

今後は一刻も早く復興されることを祈念申し上げます。

また、西日本豪雨災害後、日本は未曾有の熱波におおわれています。

今まで普通に過ごしていた日常の行為が死に至ることもあると、注意して過ごされることを祈念いたします。
2018.07.23 Mon l うつつ トラックバック (0) l top
「こんにちは、赤ちゃん」という歌が誕生したのは、昭和38年、1963年永六輔さんが作詞を、中村八大さんが作曲をしました。

梓みちよさんが、赤ちゃん誕生に対して、喜びを語りかけるように歌った歌でした。

「あなたの笑顔、あなたの鳴き声、小さな手、つぶらな瞳と。あなたの命、あなたの未来、この幸せがパパの望み」と。

昭和38年の歌でしたので、私が中学生の頃だったのではないか、梓みちよさんの声は耳の記憶に懐かしいのですが、この歌詞全文を読んで、今、始めて内容が分かったのです。

改めて、この作詞が、赤ちゃん誕生と同時に、夫婦から子育てに移るばかりでなく、夫婦の関係にとっても喜びを歌ったものだと知ったのでした。

永六輔のさんの、温かい気持ちがそっと添えられて、赤ちゃん・パパ・ママへ祝福していました。

「えっ知らなかった」のと、聞かれれば、思い出すこともなかったからです。

ところで、日本では、昭和38年と言えば、「もう戦後ではない」といわれて、次の時代の幕開けのような時期でした。

それまでは、テレビではディズニーアニメが上映されていましたが、国産アニメの「鉄腕アトム」放映されました。

世界ではキューバ危機からジョン・F・ケネディーが暗殺され、衛星中継されたのもこの時です。

バナナが自由化されて、坂本九が「見上げてごらん夜の星を」を歌い、NHKの紅白歌合戦が、パーセントの視聴率を上げていたのでした。

そういえば翌年の昭和39年10月10日には、第18回オリンピック・パラリンピックが東京で開催されていました。

振り返るというのですが、55年前ですので、ほとんど記憶はなく、過去を検索して思い出すのがやっとです。

でも世の中の雰囲気は、明るく、前を向いてみんなが歩んでいたという時代でしょうか。

それこそ皆が夫婦共稼ぎという時代ではなかったし、家庭から笑い声や夢が語られていた時代だったと言えそうな気がします。

とくに、その頃の流行った歌の歌詞を読んでみると、出会いとか、明るく、この後、何十年後かの未来も明るかった。

幼子が生まれた時に、「こんにちは赤ちゃん!」に対し、生まれたての赤ちゃんは、泣いたり笑ったり、むずんだり、眠ったりして、お母さんに「こんにちは、お母さん、お父さん!」なんて言うはずはなかったし、現実は、「始めに言葉ありき」ではなかった。

赤ちゃんにとっては、意識も、意味も、言葉もなかった。これは世界の誕生であり、同時に置かれた場所で咲く赤ちゃんの誕生だった。

同時に、パパとママの誕生でもあったのですが、これも居場所です。夫や妻の居場所もあると、「こんにちは赤ちゃんに!」は「赤ちゃんお願いがあるの、ときどきはパパと、ホラふたりだけの静かな夜を、つくって欲しいの、おやすみなさい、おねがい赤ちゃん」と「お休み赤ちゃん、わたしがママよ」と歌うのです。
人が生きれば居場所が増え続け、居場所から居場所に移ることが生きるということ、場所と時間の誕生でもあったはずです。そして居場所とは、意味の概念ですが、依って立つという意味で、依る人と依らせるもの・人との関係のあり方です。

お釈迦さまは、意味は言語によってよりハッキリと表せられるものだと知り、しかも意味は、居場所と時によって変化するものと気づいたのでしょう。

インドの一小国の王子として産まれて、生老病死という4つの門から見て聞いた有り様は、自分自身の生老病死を一生をかけて、瞑想と思索、旅によって語られたものでした。

その語られた膨大な記録の始めには、必ず、「如是我聞(ニョーゼーガーモン)」と記されています。「私は、このようにお釈迦さまの言葉を聞いた」と、「聞く」という受動的な行為をまず中心にすえます。

その言葉を、聞きながらも聞いた内容は、何故か良心の声、自然の声、声なき声、答えのないものを聞く、あるいは真理という具体的事実として世界を聞くとなって、聞く者の私というフィルターを通さないで、見聞きすることが語られているのが経典です。

ところが聞く、読む私たちには、今までに経験した自我の声にまみれています。

そしてお釈迦さまの内容を聞くには、ただ素直に聞く見るだけではなく、応えない相手から訊きだす姿勢、耳を忘れて全身で聴くという姿勢が含まれているのだと考えています。

昨年の2月か3月のことでした。副住職が、「WAになって語ろう」というゲームを作りました。

この題名は、NHKの朝イチという番組で、ゲームの題名を全国から募って命名されたものです。この報道後、問い合わせの電話が多くなったのですが、おぼえているのは出雲の社会福祉関係の事業所の方でした。「お年寄りの言葉を、聞きだそう。掘り起こそう」と、認知症予防に購入したいとの電話でした。

そこで気づいたのは、「WAになって語ろう」は、「WAになって聞き合おう」だったことです。

このゲームの内容は、参加する人によって、自分たちの世界を作り上げていくと同時に、次々と変化してゆき、つまり、その世界は形がない!しかも、子供達やお年寄りの希望や夢も包もうと企てていたから、箱入りではなくて、風呂敷で包むというのが好きです。

大風呂敷とは、ホラのようでもありますが、基本的に風呂敷は形を持っていないことが特徴とするなら、形にとらわれていないということが良いと思っています!

仏教では、「如是我聞」は、聞き合おうという姿勢が生じます。

でも聞き合うためには、先ずは私の中の声を聞くことが大切です。

そこで私の中の声を聞いてみると、聞こえない声に満ちているというのか、空っぽな静けさを観察して、自分自身がそのカラッポとならなければ、本当に聞き合うことはできないでしょう。

ここから、一方的に聞き合おうというのではなく、自然に話合おうが含まれているのではないかと考えています。

それは、聞き合うことで、観察すること、見ること、もしかして思うことも含まれて、縁起というつながりを明らかにすることだからです。
2018.07.01 Sun l うつつ トラックバック (0) l top
今年も、新年を迎えられたこと、何よりもお喜び申し上げます。

誰でも心の中に、大事に抱えているものがあります。

それは、自分を支えていると同時に、ときに取り返しがつかないことを起こし、自分を傷つけることもあります。

より所とはこういうものです。

そのより所を意識するとき、禅には「放尽すれば心空なり」という言葉があることに気づいて欲しい。

もともと自由自在の心空という自分だったことに気づけば、悩む必要もなかったからです。

そして心空だからこそ、抱えるものも創ることができるといえるからです。

今年1年の、ご清勝を祈念申し上げます。

      平成30年正月
2018.01.01 Mon l うつつ l top
本年、一年もあと何時間かで、新しい年を迎えることになります。

一年間、感謝です。有り難うございました。

松尾芭蕉は、北町会の向かい側、現在の深川一丁目海辺橋際より欧州に向かって旅立ちました。

その旅で会得した一つに、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」があります。

原文は「去來曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。是を二 ツに分つて教へ給へども。
其基は一ツ也、不易を知らざれば基立がたく、流行を辨へざれば風あらたならず。
不易は古によろしく、後に叶ふ句なれば、千歳不易といふ。
流行は一時一時の變にして、昨日の風今日よろしからず、今日の風明日に用ひがたきゆへ、一時流行とは云はやる事をいふなり」記されています。

日本俳句協会のホームページでは、

《「不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。
 不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います」と書かれています。
 また、「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり」》

と書かれていました。

では誠?とはと、問われると説明できるものではなく、それでは「素の私を見て下さい」と言ったとしても、「その素の私は、いつどこでの私かい?」と聞かれれば、答えも尽きないし、答えられないことも尽きないものです。 

構造から云えば、千歳不易と一時流行は、共に相手に根拠を持っているということです。

温故知新も同じ意味として、故も新も、その根拠は相手にあることです。

変わるものと変わらないもの、動くものと動かないもの、右と左の対立軸など、ともに支えられていることと言ってもよいでしょう。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
静けさとは何だろうか、静けさのみという芭蕉の心化というのか、動と静を一体にして、キャンバスに貼り付けた。
2017.12.31 Sun l うつつ l top
何てこった! 昨日、8枚つづりの遺言のような手紙が舞い込んだ。

8日付の消印に、7日投函したことがわかる。

祟ってやるとの文面に、元宮司としては、何を神官として祈っていたのか?

諏訪神社に御柱を見て考えたことは、数年に一回あの御柱を神社に突き刺す祭礼により、荒ぶる祭神は、鎮守の森から外に出ることはないから、世は平安に保たれることです。

宮に祀られるお祭神は祀られることで神々となるが、神社のプログラムは、お祭りをすることで鎮まる。

氏子が祭礼に参加することは、そのプログラムを実行することだと。

町会の多くの行事も、氏子にとってはお祭りと一貫となっている。

和やかに過ごすことが、お祭神にとっては、鎮まりの起因と考えれば、祭神が怒りとなるためには、氏子がバラバラで荒ぶることは、神々が怒ることだからだ。

神社に祀られる神々の多くは、軍神もすさぶる神々ですが、でも氏子が無事に過ごすことが何よりも安らぎのはずです。

世が平和なれば、神々も喜びということです。

ついでに地獄に落ちるとは、神様の世界では地獄はないですよね!黄泉の国はあるけれどね!

地獄を語る人は、自分の心が地獄に落ちていることを語っていることではないでしょうか。

だから地獄でない世界を我々は生きなければならないのです!
2017.12.10 Sun l うつつ l top
怒りやねたみに執らわれると、怒りやねたみに縛られる。

憎しみさげすみに執らわれると、憎しみやさげすみに執らわれる。

好き嫌いに執らわれると、好き嫌いに執らわれる。

人をだましたり、蹴落とすことに執らわれると、人をだましたり蹴落とすことに縛られる。

心に思うことや感情に支配されると、心に思うことや感情に縛られる。

名誉や地位に執らわれると、名誉や地位に縛られる。

強さや弱さに執らわれる、強さや弱さに縛られる。

>悪や正義に執らわれると、悪や正義に縛られる。

癪にさわる、頭にくると言うけれど、そのよい機会に癪の中味を、頭の中を、心の中を顧みるしかないのないのです。

もし癪にさわる、頭にくるモノを一日中執らわれに満ちあふれさせて、ひと月、一年、十年、もし一生持ち続けたとしたら、自分自身の一生は、とらわれの関係のまま終わっていることに気づかない一生となっているでしょう。

>いつまでたっても何のために私は生まれてきたのかも分からず終わってしまうのです。

よく言う会社に半生を捧げて、定年で家庭に戻ってみれば、半生を捧げた会社に執らわれて、会社から定年で必要としない人間となってみると、今の自分の意味が見いだせないかのようです。人生にとって、仕事、それ以上の執らわれは、働くことが目的とすれば、働かなくなってみると、それ以上のより所は見つからないのかも知れない。

執らわれる、縛られるというのは、本来一瞬に生滅しているものを、言葉と記憶により持ち続けないと保てない私という意味です。

時間的にも場所的にも、一瞬一瞬の今ここに繰り返されて起こっていることです。だから私にも分からない。

その私がいなければ、私たちは、同じ船に、同じ国に、同じ地球に乗り合わせている旅人同士なのです。

2017.09.19 Tue l うつつ l top
お寺では、春と秋の中日には、ごご2時から彼岸法要を、誰でも参加できるようにと、お布施と関係なく営んでいます。

彼岸は、春秋、昼の時間と夜の時間が等分になる、それを春分の日、秋分の日と呼びます。そして、秋分の日、春分の日の前後3日が、お彼岸と呼んでいます。これを名づけて季節の行事週間としているのは日本だけです。

この期間、さまざまな人たちがお墓参りへと、お寺に寄っていきます。そこではさまざまなお話しが交差します。孫の姿を見せる人。子供たちと来る人、お年寄りが家々の亡くなった人たちへ忍ぶ対象に対して、しるしを置いていくというのか、お線香にシキミ、お花を添えて墓地は、花畑です。

陽岳寺では、昨年、合同のお墓を造りました。それは一人という人たちが増えて、あるいは継承するお墓はいらないと考える人たちのために、新規に造ったものです。不思議なことに、ここにも、子供たち孫たちが、お線香をあげ、花を捧げて墓参します。生きている人が、このお墓に眠っているように墓参するのです。そして家族や親族、知人は、この眠っている人に語りかけ、言葉を引き出しています。

今朝も、お年寄りの男性が一人墓参しました。「よくお参り下さいまして、有り難うございます」と添えます。するとお年よりは、「妻の名前で、お塔婆をお願いします」と依頼されました。

この方は、今年納骨された親戚のお墓にお参りしている方です。お正月やお彼岸に家族と墓参していました。今日は、一人でしたので、「今日は、お一人なのですね」と語ると、「今年は私もガンで入院し、妻も、転んで足を折り、私も歩みがおぼつかないのです」と、絞り出すように話しました。

「葬儀にも参列できなくて、情けない」と語った姿に、元気な老いの姿は、時に、一気に老いのページを進めて、お年寄りの寂しさが伝わっきます。「あんなに勢いがあった老いだったのに」と、これを落差というのでしょうか。

でも、奥さんの名前で塔婆をあげるという行為も妻の気持ちを汲んで、優しさが、お年寄りの目に輝き、線香の煙も助けて「情けなくて、涙がでてしまう」と、言葉を残して墓参に行きました。
2017.09.19 Tue l うつつ l top