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クレヨン

2016/12/14 16:49
幼かったころ、広告紙や包み紙の裏側にクレヨンで絵を描いたものです。

12本が基本のクレヨン、少ないと思ったこともなかった。

大きくなるにつれて20本、36本、調べてみたら世界では500色というのもあるそうです。

どんな絵が画けるのか、おどろきです。

箱の中には、小さくなったクレヨン、いまだに使われないクレヨンと、さまざまだ。

一本一本同じ色はないが、ケンカもせず、非難もしない。

12色、20色、36色、500色とクレヨンの世界は、色が違っていても一つの箱(世界)に治まっている。

人間だけが、箱に治まっているのは同じだが、どこかの行こうと、反目している。
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鼻で飯を食う

2016/09/05 12:34
お年寄りが言った言葉が気になって、調べてみたのですが……わからない。

「鼻で飯を食うとお金持ちになれる」という俗諺があるそうだ。

まさか話しの真偽を確かめたくて、食べ物を、飲み物を、本当に鼻の孔の中を通して、食べるではなく、吸い込むなど、してはいけません。

これは、鼻をつまんで、食事を食べると、食感がなくなり、食の感覚が鈍るのでしょうか。

美味なもを追いかけず、素の者を食べることでお金持ちになれるという故事なのでしょう。

家族葬

2016/01/29 15:05
家族葬という形の葬儀が増えてきました。

家族だけならば、遠方からでもご遺体を陽岳寺に搬送することができます。

本堂内の正面、本尊様の前に棺を安置して、親しく水入らずで本堂から送ってあげることもできます。
日頃からお参りしているお寺の本堂です。

知らない場所より住まいの延長である場所として、使用することをお寺にご相談下さい。

リンクしてみました。

2016/01/20 09:45
安心亭http://homepage2.nifty.com/anjintei/
[リンクしてみました。]の続きを読む

命の中の争いは幾度となく繰り返す。

2015/10/14 17:20
逆に言えば、もともと無相にして無住・無念という心を持っているために、私たちが誰かを殺そうと思えば殺せるし、正義のために悪を滅ぼすこともできると悟ったのは釈尊でした。

この壊れやすい身体と意識は、何かの衝撃により襲われれば、身心はもろく、殺されることとなる。

だけれども、これを霊魂といってよいのかわからないが、命と命の集まりである世界という生命の集まりであるものを霊魂と呼べば、どんなことをしても、その霊魂は殺すことはできない。

殺害され抹殺された一つ一つの命は、強さや弱さ、運があったり無かったり、力や非力だったがゆえにその体を失うともいえる。

しかし大きな霊魂という命は、怒りやねたみ、恨みを晴らさずにおくものかと輪廻の鎖となって互いに復讐を繰り返えす。

これが命のそして、すべての生命の原理なのか?

私たちが、怨みや人をだまそうと抱きながら生きると、私たちの歩みも怨みや醜い生活となる。

汚染された生活習慣、空気、食べ物、水、言語、思い、思想は、さらに汚染された生活習慣、空気、食べ物、水、言語、思い、思想を作る。

すべては、いかなる現象さえも、私たちが創造して起こしたものである。

無相にして無住・無念という心の造りだしたものにとらわれるからだ。

本来無相にして無住・無念という何にも汚されない心を持っているのにです。

無と有の対話

2015/09/26 21:33
ずっと以前に有から、親族のことで、いざこざがあると、聞いたことがあった。

ある日のことだった。また有と会った。

有に、「その後、落ちつきましたか?」と聞くと、手で胸からお腹を指し「あちこち手術をして」と言った。

「良性ですか?」と聞くと、「悪性でした」とつぶやいた。

すこし沈黙のあと、顔色を見ながら「薬は?」と聞くと、「少しですが飲んでいます」と言う。

でも笑顔がただよっているので、「ガンは人間を生きていることを考えさせるでしょう?」と言う。

「そうですね。何だか世界が変わったような」。

「今まですべて時間に追われ何かに追われながら、振り返ることもなかった、見つめることもなかったものが、見えてきましたか?」

「感情が豊かになったような……」

「今まで考えもしなかった命の近さ、何気ない自然や人の人間の行為が見つめられる機会を与えてくれるますか」と言うと、

「そうですね」と笑顔で話す。

「そしてまぶしさや輝きが新鮮に自分を覆いませんか」と。

肯く有。

「ガンからそんなものが与えられるとは思わなかったです……」と。

「ここまで来るためには、辛かったことが多かったですね」と。

有は「有り難うございました」と帰って行った。


無は、「私は、自分の心を識らない」と、有に言った。

有は、「私は、自分の心ばかりが見えるのです」と、無に言った。

無は、「私も、以前は、あなたと同じようにあなたと同じでした」と告げた。

戦後70年

2015/08/01 14:13
[戦後70年]の続きを読む

ホームページビルダーがおかしいの?

2015/05/17 13:11
 かなり前から、困ったことが続いているのです。困った!《この夢を見るのは誰ですか?》のブログは、ホームページビルダー15によって書いていました。ところが、バージョンアップでビルダー18になってより以降、このツールではブログ作成ができなくなってしまいました。昨年より、管理画面を使って書き込みしているのですが、プルグラムアンインストールで入れ替えてもダメです。買い換えなければ良かったと思うものの、では15に戻すかというと、勿体ないし……

集団的自我

2015/04/05 15:48
 最近、つくづく思うことがあります。

 世界のいがみ合うことのニュースがあり、宗教や主義として原因があり、それが正しい、いや違うと戦火をまみえテロとなってにぎわうように思えるのです。

 世界という点から見たならば、人々のやすらぎを、死者の安寧を願い祈るものならば、世界の宗教も、もともと一つのものではないかと見えるのです。

 仏教からいえば、今残されている仏教の宗派を興した祖師たちも仏教である限りは、お釈迦樣が悟った法、あるいは語り得ないものから、それぞれが選ばれて語られて特色とされたものです。
 それは過去の時代からいうと、信者からいえば利点といえた時代だったような、遠慮しがちに、そんな気がするのです。

 宗教は世界の一人一人の苦しみを見つめますが、国や地域、民族、国、主義、正義、あるいは宗教自身も、集団的自我をもっと見つめなければならない時代にはいっているのではないでしょうか。

 そして集団内の一人一人の生を見つめ、相対する思念を解きほごしての幸せを求めることが必要なのではないでしょうか。

35年ぐらい経ったかな

2015/04/05 13:51
 振り返って見れば、住職になって35年ぐらいたつのではないか……

 副住職が3年半の雲水修行から帰ってきて、ようやく陽岳寺慣れたと思っていたら、今や、副住職の自覚のエンジンが、より回転した様子に、嬉しくもあり、あぶなっかしくもあり、たのもしくなってきた感もするのです。
 
 昨夜も、浅草のどこかに行き、座禅会用の座布を40ヶぐらいか持って出かけ、夜10時過ぎても帰ってこないのです。
 会場は、喫茶店だったり、神社だったり、会社だったり、請われればどこでも……というのか、どうも地域起こしのようなことまで。

 あるいは、本堂に若い人を中心に、ボランティア60人から70人集めて、5月増上寺の仏教フェステイバル「向源」のイベント説明会をするというし。

 私には考えられないのですが、お茶会、ヨガ、親子との対話集会、パソコンやテレビゲームではなく仏教をテーマにしたカードゲーム制作などなど。

 宗派や宗教を越えてのつながりというか、そういう時代に入っているということなのでしょうし、それに気がついたのでしょう。 

 宗派的に言えば、副住職は「転じられた自己が、転じるようになって」、最近は陽岳寺という枠の中のことより、外に出て活き活きとしていることが多いのです。あるいは、「随処に主となる」とも言えるかも知れない。

  実際には、随所に主となりは、副となり使い走りになり徒労となり友となり聞き役となり話してになりで、感情から言えば、意気が上がったり下がったり、自分を叱ったり、人の寂しさや苦しみに同化したりです。

 でも考えてみれば、自分を活かせる」時間を持てたことは、子供もいてお年寄りもいて、困った人もその困った人に自分の時間やお金を与えることができる人もいて、差別に喘いでいる人や様々な場所に、様々な基盤がある都会に自分を活かせられているともいえます。

 そんな彼を見ながら、何故か私は、ますます忙しくなって、もうメチャクチャ、一つの身体で、一つの頭で、幾通りの役回りとなっているのです。

 私が、住職となってしばらくだったと思います。親しいお婆さんから法事を依頼されたときです。
 そのお婆さんの放った言葉は、今でも私の心に突き刺さっています。

 「和尚さん、お経はサワリだけにしてくださいね!」と、「何分ぐらいですか?」と、「短ければ短いほどがよい」と。

 確かに、今の読経では、伝わらないし、心に響かない。
 せめて大勢で大きな声で、あるいは音楽のようにかなでるものなら印象が違うかも知れない。

 そんな何坪もない末寺の私に、答えてくれるところなどあるわけがない。

 そう知って、何とかしなければと35年がたち、どうにか、日本語ですべての法要ができるようになってきました。やすらぎや喜びを感じられ、シクシクと涙を流し、人に人生の受用と活きる力を法要で伝えられるようになったということです。場所も道具も、その時その場で、施主に合った法要をです……

 ただ言葉というのはお経と違って、語り手の心というのか、見方というのか、思いというのか、考え方というのか、意志が反映されます。これは言語の持つ特色だから仕方がないのですが、怖さもあります。
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