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見る、見ないと、漢文では、見と不見ですので、見るには見えないも含んで、見えないには見るを含んでいます。

一番私たちにとって身近な見えないは、自分・自己でしょうか?

自分自身ほど確かな存在はないと確信していても、他者によって成り立っていることを自覚してみれば、日々の出来事の変化に対応して変わり続けているのですから当たり前のことです。

見るものが本当に見えているのか、見えないものから見せられているのか、そうしたものから自己の成り立っているとしたら、不確かなもの。それは自分であると言い切ってもよいはずです。

それは何故かいえば、見るには見えない、見ないも含まれているからです。

日本の言葉はとても難しいと思います。この言語を使う日本人は優れていると思うのです。

この見るに関してだけでも、漢字の多さに見は、いろいろなものを見るという漢字があります。

少しですが、見、視、看、覧、覚、覰、覩、瞻、観……から下記に少し説明を付けてみました。

見は、「目を種とした人の形」という。ひざまずいて視る形であり、ひざまずいて視るには、その形からして下から目線を以って儀礼的な視る形となります。

見上げる対象は何か儀礼的なものを視る形で、対象は神さまであったり、宗教の真髄、高貴な方など、そこから「まみえる」という意味が生じたのでしょう。

目の前に広がっている物にまみえる、目の働きのことです。

視も、見るです。旧字は視で、示偏は祭壇ですので、臨(のぞ)み視るです。示すに従う行為として視るとなります。

視線を向ける先は「何かな?何だろう?」と意識を持って対象を見つめることです。

見と視の違いは問題意識の差なのでしょうから、ただ見ている、じっと視る、視ていないから見えない、視ようとしても見えないなど、いたわる、世話をする、養うなど、ただ視るだけではないのです。

看も、見るです。これは手と目に従うです。

手の下に目があることから、手を目の上に置いて、よく見るです。新型コロナウィルスの影響で、ウィルスの作用を罹患した患者の様子を看て探るでしょうか。

熟語を見ると、看護、看病、看経、看守、看過、看破、看板などがあり、イメージが湧きます。

手をかざして看るのですから、遠いもの、陽がまぶしくて見えないときなどもあります。見ようとして見る、看板は、「よく見てね」でしょうか、看板を設置した人の意志や意味を見て下さいです。

覧も、見るです。覧の旧字は、灠です。監獄の監という字の下に見です。

監と見に従うという意味があるのですが、監は水たらいの皿に自分の姿を映す形で、その映る面を見るです。

さらに俯(ふ)して望み見ることを覧というのですから、天上より下界を見る意味があります。

一覧、展覧、観覧など熟語がありますが、見渡すなどの例でしょうか。

また覧古と言う熟語から、昔を思うや古跡を偲ぶなどの使い方があります。

覚も、見るです。覚の旧字は覺で、見の上に乗っている肅は、學という旧字にも見えます。学の従うところに見をつけた漢字です。

目覚めを意味して、夢から目覚めるので、目を覚ます、迷いから目を覚ます。現実の実相や真理を見るなども見ることになります。

しかも覚ることによって、現れるが含まれているのでしょう。

覰も、見るです。つとは、覰の字の見に付す、癈は漾と沸で狙に通じ、狙撃の狙ですので、こっそり見る、うかがうです。これも見るです。

瞻も、見るです。「セン」と読みます。音符の詹は、ひさしで、ひさしのように目の上に手をかざして仰ぎ見るです。

目にふれるもの、自然の生命力にあふれるものを見ることが、人間の生命力を盛んにするというのです。

覩も、見るです。隅は音読みで「ト」で、視線を集める意味があり、睹(と)という字の古字です。

一点に集めるから、現れる、物事が見えるなどと使われます。

観は、つまびらかに見る。見る対象を支配すると字統に書かれています。

見えている物の有り様を観るといえば、論理や法則、整合性や仕組み成り立ち、さらに目には見えていないのだが何かがあると観る。

例えば右足を一歩動かすことは、動かさずに支えている左足によって、歩くことが出来るとか、サイコロの目に1が出て、裏は6だから足すと7になるなどと観る。

だからこの観るは、視たものの背景や法則論理など観たものの背後に隠れているものを観るのですから、実際には目を閉じた方が、見たのが見えないことで、よく見えるようです。

見えるものの背景や仕組み成り立ち、あるいは自分自身の失敗に成功とその繰り返しなども含めて、思考なども含めて観る。よく見えれば、そこに慈眼を持つことができます。

この意味から、無心な聞く耳をもつこと、無心な見る目を持つこと、無心に感じる感性を持つこと、無心な身体をもつこと、無心な意識という沈黙を得ること、そこに大悲があるのだろう。

また、耳なく聞くこと、目なく観ること、感覚なく感じること、身体をなくして接すること、意識なく沈黙を得ることですが、大悲とは、沈黙した自己にかかわる感覚器官の内面の空間のようなものだ。

見ることも聞くことも、触れることも、触発されることも、すべて、自己の外のものを媒介にして、自己の内面に沈黙しているものを呼びさますことだし、そこに創造するということが生まれる。

自己の存在を知るとはこのことをいうのではないか。

ちなみに親という字ですが、ここにも見がついています。辛と木と見に従うと字統に書かれています。辛(しん) は針ですので、針を打って木を選び 斧で切り出した木を新という。

その木で新しく位牌・神位を作り、それを拝することを親という。

これは新しく作る位牌は父母のものが多いことから、親は父母の意味となると推察します。

親族は、親の廟中でその儀礼を行ったところから生まれた字だったのです。

目偏、見偏のごく一部から、見える・見ないの重要さがわかります。

漢字一文字で表現する文化を持つ国は、今は、台湾に中国、そして日本のみとなってしまいました。

古来の漢字のPC盤、「今昔文字鏡」単漢字16万字版を使用しています。

一つ一つの漢字に発生からの意味があり、それは4000年の歴史となります。

日本では巧みにカタカナを屈指して、新型コロナウィルスを書きますが、中国では「新的冠状病毒」となるそうです。

見るには、瞥(べつ)と書いて、ちらりと見る、チラチラ見る。霞む、視線の均衡がぶれて集中できないと、つまり意識なのですね。

人間の心って面白いです。
2020.06.01 Mon l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
11月26日(日)午後2時より、ご祈祷法要
          午後3時より、六代目三遊亭円楽 落語
          陽岳寺 護寺会主催ですので、ご参加下さい。
ご祈祷は、“無事や平常であること”をテーマと考えます。
何があっても無事を祈ることです。
無事の基本は、変わり続けることの中に、何事にも変化しない自身の心の姿の自覚です。
人の一生は、みずから朽ち、消滅して、かたちなき限りなきものとなることへの旅路ですというなら、生まれる前から、生まれても、そして旅立った後も、変わらない自分とはなにかと考えることです。

そのために、このご祈祷最初のお努めは、先ずは、何事も受け入れられる心構えとして、無心となることが強いられます。
これは、ひとえにじぶん自身に偽りのないようにと、素直さをいつまでも持てるようにとの意味です。
これを懺悔と言います。
懺悔について、斎藤緑雨は、『眼前口頭』の中で、「懺悔の味わいは、人生の味わいである。」と記しています。

しかし、その懺悔も、人生において、苦渋や自責、許されることのない罪、知らずに傷を付けていた事実の認識、叱責や出生において、苦悩や後悔がなければ懺悔も成り立たないことでもあります。

原罪を持たぬ我々は、生活の中の、忙しさの中に、過ぎ去ることで、忘却という世界の中に生きているかのようです。

さて、祈祷とは、人の祈りを昇華させるものであると思うのですが、祈りがなければ、祈祷は成り立たないものです。
その祈りの中身が、悩みや感謝とするなら、ヘルマン・ヘッセが、『放浪』のなかで、しるす言葉が光ります。

「祈りは歌のように神聖で、救いとなる。祈りは信頼であり、確認である。ほんとうに祈るものは、願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さい子どもが歌うように、悩みと感謝を口ずさむのである」と。

また、祈りを昇華させるためには、祈る人と、その祈りを可能な現実なものにする超越する人格がなければなりません。

超越する人格は、神や仏、亡き人や、聖者と考えられるものです。

そしてその二つの間を取り持つ役割を担うものは、神官や僧侶です。

なぜなら、祈りについての、その祈りの内容を、また、祈りのあとの現実を、具体的に示すことも必要なことだからです。
もっとも何を祈るか見当もつかなく、ただ目前の欲望のみに囚われて、心を虚しくすることもあります。
欲望を祈りに取り違えることは、現実をゆがめます。

カフカは、『カフカとの対話』の中で、“祈りを行為”に、“人を揺籃”に、そして、“やがて贈る側に転身を希う” と書いていました。

「祈りと芸術は、熱情的な意志の行為です。普通に見られる意志の可能性の領域を踏み越え、高めようとするものです。芸術も祈りも、それはともに暗闇に向かって差し出された手であり、その手は何ほどかの恩寵を掴み取り、やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。

祈りとは、消滅と生成に間に渡された光の弧の変容の手に我が身を投ずることであり、その途方もない光を、自己の存在のあるかなきかの、はかない揺籃(ようらん)に定着させるために、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることなのです。」
(これらの文章の引用は、筑摩書房の筑摩哲学の森、別巻定義集からです。)

 “光の弧”とは、プラスとマイナスの電極の間の、稲妻です。

それは、消滅と誕生の間の揺籃する命でもあるのでしょう。

芸術家にまかせることは置いておき、人が祈る行為により、揺籃する心から転身する。全てはこのことが尊いのでしょう。

このことの中に、感謝が芽生え、知らず贈る側に居る自分を知ることがあるのでしょうか。

祈る行為は、その中に、転身を希うことが含まれていることになります。
じぶん自身の計らいの中の、気づきは、人を変えるものです。この変えられた自分を希うことを、このご祈祷の本意と、考えました。

そして、過ぎゆく年の、来る年の、そして今日ただ今の無事や、平常であることを願い、祈りとしたいのです。

無事とは、禅語の『無事これ貴人なり』と、また、平常とは、これまた禅語の『平常心これ道』の、無事や平常の意味から引用いたしました。

平常とは、平等常住の略意で、涅槃・菩提・迷いのない世界・悟りの世界・名利を越えた世界・無心であるのですが、ここから一切の働き、一切の行為があらわれます。

この行為や働きは、一切の善悪・順逆を離れているのです。

善悪・順逆は我々心の分別です。

このこと故に、私たちが世界に住んでいる限り、無事でないことは、まぬがれないことです。

平常に生きることは、とても困難なことでもあります。 無事や平常は、逆に、この世間の事の中に住むからこそ、この日常ゆえに、対するものとして考えられます。

日常を否定するのではなく、日常の生活のなかで、平常が現れなくてはならないのです。

カフカは、「やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。」と言うのですが、転身することです。

積極的に世間に事や日常にかかわることのなかに、転身することです。

徹底して、日常と平常は同じ道であるかと説くか、異なった道であると説くか、臨済が云う「歩々これ道場」は、行為は同じでも、無心か我が身では、雲泥の差が生じます。

蓮如上人が、「婆さんや、糸をつむぎつむぎ念仏するのも結構じゃが、念仏しいしい糸をつむぎなされや」と、さとしたと言いますが、同じ行為でも、念仏するという無心の働き、それは、臨済が云う、「随所に主となる」行為です。

身びいきの我が身に気づくことは、それは、じぶん自身の否定的転生です。

絶対なるものとは、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることで現れます。

転身への祈り、それは、徹底できぬ自身への、素直さえの回帰という意味でもあります。
2017.11.06 Mon l ゆめ l top
学校の先生から、「地元のお年寄りを呼んで、小学三年生の子供たちと、ふれあい給食会」をしたいと言われたことがありました。

もう18年も前のことでした。

その年によってお呼びするお年寄りの人数が違います。学年主任の先生もそのつど違います。

今では、ふれあい給食に関しては、お年寄りの募集に関しては、向井さんに頼むと、申し送りになっています。

ですが、なかなか言われたように集まらない時が来るのではないかと、集めながら少しずつ、近い将来、訪れる予感がします。

その予感とは、現在、70歳後半から、80歳代、90歳代のお年寄りで元気な方々が、社会参加するパワーが減ってきた予感と同時に現実です。

本来は、その下の世代のお年寄りが、引き継いでくれればよいのですが、70歳後半前のお年寄りを望んでも、声がないのです。

さて、ふれいあい給食を手がけたきっかけは、「お年寄りをお招きするのに、学校の先生方の時間を煩わしてはいけない」ということでした。

お年寄りたちが子供だった頃の懐かしいことを、給食を食べながら、子供たちに話す。それが地域の昔と、ふれ合うということでした。

これは、子供たちの二世代・三世代という家庭が減少して、地域の昔と接する機会が減っていったからでしたし、教育が、世代間の交流事業とし同時にて、社会科や道徳の教育とならなければの危機に気付いたからでしょう。

今、お年寄りの語る言葉は、かろうじて戦前戦後の生きた時代の様子でしたが、お年寄りの世代交代が続けば、やがては、バブルなどの時代になるかも知れません。

将来、子供たちが聞かされる言葉が、バブルや経済成長の時代内容だったらなどと考えてしまった。
2016.09.15 Thu l ゆめ l コメント (0) l top
つい最近のことでした。

90歳を超えたご婦人からの電話でした。

「和尚様では恐れ多いのですが……私、ご相談がありまして……

副住職の都合のよい時間にうかがいますので少し聞いて欲しいことがあるのです」と、

日時を約束して電話を切ったのでした。

この夫人は、数年前にご主人を亡くされたあと、一人暮らしでは先行きに不安を抱き、自宅の近くの有料老人ホームへと引っ越していました。

お墓には、娘さんとご主人が眠っています。

そして数日が過ぎて、彼女が杖もつかずに、ゆっくりとゆっくりと笑顔で訪ねてきました。

副住職が応対して、どんな内容だったのか、今も聞いていません。

ただ面談中に一度、副住職は私のところに来て、「生前葬をしていいですか」とうかがいを立てました。

私は、「二人して相談して決めたことだからいいよ」とだけ答えたのです。

そしてまた二人だけで話し込んでいました。

時間が経って、昼近くになっていました。

面談が終わったらしく、副住職は「今から、食事に行ってきていいでしょうか」と私に告げました。

「いいよ、行ってらっしゃい」と、笑顔で食事に行く二人を見送りました。

90歳を過ぎたご婦人が、孫か曾孫のような副住職と連れだって食事に行く風景……

小さかった子どもの頃から知っているとはいえ、ここまで信頼されて、終の相談を受ける姿に嬉しくなる自分がいます。
2015.03.04 Wed l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top

 人々の死を迎える環境が大きく変化して病院などで死を迎えることが多くなりました。以前は、自宅や家族に看取られ、心安らかに往生することができた時代があった。

二世代三世代家族同居という家庭は、都会ではほとんどなくなって、夫婦2人が子供育てその子ども達が独立すると家を出て行き、老夫婦2人となって最後を迎える。

 家が、家族が世代を継いで住むという意味はなくなり、一世代にとっての家であり、その使命が終われば、売買の対象となるか、あるいは取り壊し、売却となり、誰か他の世代が住む家となることが多い。とくに行政の集合住宅やマンションなどだ。

 世代をつないでいた家にとっては、つなぐ過程に死の臨床が知らず具わっていたともいえるのではないか?

 今、かすかに残されているのは、病院や施設での家族の看取りである。施設や病院で危篤となり、病院から家族に近況の知らせが届いても、見取れた家族は、以外と少ない。

 「間に合わなかった」という言葉を幾度となく聞いて、「年齢を重ねて、動けなくなった高齢者への見舞いは、病院から帰るたびに、「一期一会、いつもこれが最後かもしれないという時間を過ごしているのでしょうね」と、言えるだけです。

 しかも、死者となった子供や親族にとって、「見取れなかった」その意味を考えることさえない遺族もいるのです。

 自分に死がいくらかでも見えるような、そんな年代になったなら、死を学ぶ意味で、この人生相談の意味は大きいと思うのですが……

 平成二十六年五月二十一日の毎日新聞の朝刊に掲載された、人生相談です。

《 夫はカメラなど自分の楽しみを見つけ、パソコンに向かってばかり。旅行に付き合う気持ちはないようです。両親をみとりました。愛情を注いだ娘や孫たちは、今、忙しそう。好きだった読書も目が疲れます。寂しくてつまらなくて、どうしようもありませんと、70代・女性の相談でした。

 この相談に、作家の白川道(とおる)氏が語っていました。

『老いてからの寂しさやつまらなさ。貴女(あなた)の抱える悩みは、貴女に特有のものではなく、貴女と同世代の大多数の方たちが抱える悩みでもあるでしょう。特に昭和の時代で育った人たちに多いのではないでしょうか。

 あの時代は、誰もが生きることに必死で、そうした自分を慰めてくれる家族形態というものがありました。

しかし豊かになるにつれて、個人の主張や幸せが優先されるようになり、核家族化現象が加速されてしまった。

今、老いた人たちが味わう寂しさは、いわば必然の結果と言えるのかもしれません。

 ご多分に洩(も)れず小生もそのクチなのですが、幸いにも、小説を書くという仕事をしているせいで、その寂しさは小説を書き、その小説のなかの登場人物と会話することによって、解消していると言えます。

 この歳(とし)になって分かったことがあります。それは、人間というのは老境に入って、やがて死を迎えるのではなく、その前に無境という境があるのではないか、ということです。

 虚無という無ではなく、欲得や執着から解放される境のことです。すると、それまで思い悩んでいたことがうそのように消えて、周囲を静かな目で見られるようになり、他人を許せるばかりではなく、自分も許せるようになる。

そしてそのご褒美に、過ぎ去りし日々の楽しかった出来事の数々の記憶がもう一度蘇(よみがえ)るようになるのですね。

大丈夫ですよ。寂しさやつまらなさなどは、いっときのこと。貴女にもいずれ無境のときが訪れますから』と。

哀しみ、孤独、寂しさ、つまらなさ、無感動、ひとりぼっち、不安、疎外感。

原因は、つながりや関係、絆に、結びつきです。仏教はその結びつきを、関係そのものを心といいました。そんな心を、心のままに解放することで、自分というとらわれをなくすこともできる存在であることを、釈尊ブッダは伝えたかったのです。

結びつきによって、今の私の寂しさやつまらなさという原因があるなら、逆にいえば、自分はそれだけ、寂しさやつまらなさで、自分以外と結びついている結果のはずです。壁は自分自身の中にあります。

欲望や執着とは、その繋(つながり)が咲かせる泡のようなものです。

白隠禅師は、「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。いわんや自ら廻向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論を離れたり」と歌っています。

華厳五教章という仏教書に、「心に寂しさやつまらなさが生じたとき、必ず、心が無性であることで、寂しさや空しさが生ずるのです。欲得や執着は、本来無性という海の表面の波のようなものです」と。自性即ち無性なることを悟れば、すでに戯論を離れていると。

無性に怒りがこみ上げてきたり、無性に可笑しかったり、無性に苦しかったりと、無性に楽しかったりと、心は、無性ゆえに作用されるものだからです。

その怒りや苦しさ、楽しみや可笑しさを、持ち続けないで、一時一時受け流していくことこそ、老いたものの人生経験という宝物です。

それは、悲しみは悲しみのまま、楽しさは楽しさのまま、一刻一刻生きることこそ、欲得や執着を否定するのではなく、欲得や執着こそ、どんな時にも、人は自己以外と繋がっている絆の確信であり、生きる力そのものだったのです。感謝とは、その繋がりの表現だったのです。「有り難う」と。

2014.05.24 Sat l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
本年は、東京大空襲に殉死した10万人にとって、70回忌の年となります。

しかし、目を海外に、近隣の国に向ければ、太平洋戦争で亡くなられた死者の数に驚きます。

日本310万人、朝鮮27万人、台湾21万人、中国1,000万人、インド350万人、ベトナム200万人、インドネシア400万人、フィリピン111万人、アメリカ41万人、ロシア2,000万人……

これほどの死者を出した戦争から、非戦を続けて70年に向かって歩むことの重みに気づきます。

亡くなられた多くの人々と家族のためにも、この歩みを止めず、更なる平和が続くことを祈念して…… 

 合掌
2014.01.01 Wed l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
今上天皇の弥栄を希う牌

陽岳寺は、臨済宗妙心寺派末の寺であり、その妙心寺派、花園法皇様により建立されました。

仏壇正面、本尊十一面観世音菩薩座像下にこの今上天皇の聖寿を希う牌がかかげられているのは日本において、仏教教団の内でどれほどあるのか知らないが、陽岳寺には、祀ってあったし、専門道場にも、同じようにかかげられていました。

平成25年8月15日、天皇陛下の「おことば」です。

《本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来既に68年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。》

そして同じ壇上においての安倍首相の式辞です。

《天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。

いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。

御霊を悼んで平安を祈り、感謝を捧げるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、しばし瞑目(めいもく)し、静かに頭(こうべ)を垂れたいと思います。

戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進(まいしん)してまいりました。

今日よりも明日、世界をより良い場に変えるため、戦後間もない頃から、各国・各地域に、支援の手を差し伸べてまいりました。

内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、幾たびか、互いに助け合い、乗り越えて、今日に至りました。

私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。

世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。

終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご健勝をお祈りし、式辞といたします。》

敗戦直後のこと、奥日光に疎開する皇太子に宛てた、昭和天皇と香淳皇后の手紙の内容が、岩波新書『百年の手紙』(梯久美子著平成25年1月23日刊行)に記載してあります。

その出所は、橋下明氏が昭和61年『新潮45』5月号に公表した記事よると記載されています。

昭和天皇(当時44才)から皇太子への手紙

「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心して下さい。今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど、先生とあまりにちがったことをいふことになるので、ひかへて居つたことを、ゆるしてくれ。

敗因について一言いはしてくれ。我が国人が、あまりに皇国を信じすぎて、英米をあなどったことである。

我が軍人は、精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。

明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時は、あたかも第一次世界大戦の独国の如く、軍人がバッコして大局を考へず、進むを知って、退くことを知らなかったからです。

戦争をつづければ、三種神器を守ることも出来ず、国民を殺さなければならなくなったので、涙をのんで、国民の種をのこすべくつとめたのである。昭和20年9月9日 父より」

香淳皇后から皇太子への手紙
「ごきげんやう。日々、きびしい暑さですが、おさはりもなく、お元気におすごしのこと、おめでたく、およろこびします。

長い間、おたづねしませんでした。

この度は天皇陛下のおみ声をおうかがひになったことと思いますが、皆、国民一同、涙をながして伺ひ、恐れ入ったこととおもひます。

おもうさま(お父うえ)、日々、大そうご心配遊ばしましたが、残念なことでしたが、これで、日本は永遠に救われたのです。

二重橋には毎日、大勢の人が、お礼やら、おわびやら、涙を流しながしては、大きな声で申し上げています。

こちらは毎日、B29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて、朝から晩まで飛びまはっています。

B29は残念ながらりっぱです。

お文庫の机で、この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで、何台、大きいのがとほったかわかりません。しっきりなしです。

ではくれぐれもお大事に、さようなら。昭和20年8月30日」

手紙の内容について語ることはひかえたい。

天皇・皇后陛下の率直な気持ちが、表現されていると思うのです。

昭和天皇の語る「先生」がどんな方だったのか知りませんが、陛下のお気持ちは違ったようです。

そんな陛下の気持ちを香淳皇后はじっと見守っていたのだと思います。

それが、皇后の「日本は永遠に救われたのです」の言葉となっているのは、悲惨と不安に覆われた多くの国民の心を代弁するものだと思えてならないのです。

それは、世界から見て、たとえ日本が解放のための戦争であると言ったとしても、侵略戦争になってしまった過去の事実は消えることはできないのです。

重い荷物を背負うがゆえにある、救われた日本を、直視することで、救われた日本を、永遠に保たなければならない義務を我々は負ったともいえないでしょうか?

平成25年8月14日、毎日新聞朝刊に掲載された、戦後第一級の資料が発見されたことが報道されました。

日中戦争「抗日ゲリラ掃討」と表して、写真21枚に、作戦を記録した兵士の言葉が記されていました。

発見した写真は46枚と書かれています。

この写真と記録は、昭和13年から昭和14年頃の、上海近郊の村・銭家草で記録され、日付も記され、連続写真なども含まれていたそうです。

現在の中国松江区新浜鎮には、昭和13年3月3日起きた虐殺の記念碑もあり、語り継がれているという。

こうした記録は、多くが廃棄されているようであり、戦後68年経っての新たな発見は、現在の日本人にとって、忘れてはならない加害者としての、罪を再確認させるものでもあります。

毎日新聞のデジタル版には、個人が特定されると言うことなのでしょうが、掲載されていませんでした。

真実を知りたい。

何故なら、過去の真実に、我々は、どう向き合えばよいのか、わからないからです?

香淳皇后の「日本は永遠に救われたのです」のお言葉は、重い言葉です。
2013.08.16 Fri l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
ミヒャエルエンデの44の問いの中の、19番目の問いです。

「恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩歌で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか?」

「ワーグナーのワルキューレの騎行」は、美しい曲とは言えないけれど、人々の心をつかみ何処かに高揚とさせる曲としてあるのだろう。

ワーグナーの200年生誕によるイベントが世界中でにぎやかに行われている。

特にナチス版の歌劇では物議をかもし、殺害シーンやガス室など生々しく講演が中止となってもいる。

それでも音楽に関しては、一つの時代を造った偉大な人だった。

もう何年も前のことだ。コッポラ監督の地獄の黙示録の戦闘ヘリコプターが、密林にひそむゲリラに襲いかかる場面、今でも私の中には、ワルキューレ騎行とセットになっている。

今朝のBSニュースで、ナチスドイツのロシア討伐と、日本軍による真珠湾攻撃の共に戦争を仕掛ける国内用ニュースに、この曲が使われていたという。

地獄の黙示録は映画だったが、密林を焼き、ゲリラ(アメリカに言わせると)に襲いかかる場面は、音楽と一体になって、何のための戦争か、その先に何があるのか?、と考えることを停止させる。
2013.05.23 Thu l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
この話は、昨日、お聞きしたことです。

先日、それこそ、お酒のみの訃報に接し、親戚の人がお寺にたずねてきての話です。

その年寄りにとっては、とあるというか、いつものなのでしょうが、それは、お酒の席だったのでしょう。

親戚の人が「俺は車を買ったのだ」と、欲しかった車だったのでしょうか、一瞬うらやましい雰囲気がただよったところなのでしょうか?

「俺はお墓を買った」と、叫んだそうです。

一瞬、場がしらけたというのか、大笑いしたというのか、これは16年前のことです。

でも、16年という年月は、車より遙かに長持ちする、これは、乗り物か。

それこそ、誰でもというわけではないけれど、とても。善い買い物だったのではないかと、今言えます。

第一、子ども達や孫たちがお参りしてくれると思うと、もしかしたら、一緒に乗れることも考える。

その時の話が、お酒の席だったかもしれないが、そして、一時の買い物に違いないも知れない。

でも、時の長いものを買ったことで、そして、訃報を聞いて、それこそ安らぎだったと、今、彼は思っているはずです。

しかも、こうして、お寺のブログにも、乗せられて……

2013.05.05 Sun l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top
とある家庭のご主人の訃報を頂いて、すでに夜もふけていたけれど、奥さんとお話をしました。

故郷の話、家のこと、知り合ったときのこと、お付き合いして、結婚したこと。子ども達を授かったこと。

仕事のこと。故郷を出て家を建てたとこと。子供の結婚。孫を授かったこと。兄弟を亡くしたこと。

ガンを患ったこと、抗がん剤を止めたこと。自宅にて看護を受けたこと、そして、亡くなるときのことと……

不思議だった。奥さんの中には、タンスの引き出しから懐かしいものを引き出すように出された。

主人が生まれて74年、知り合って51年、付き合って50年、結婚して47年、子供を授かって46年、先祖の墓地を改葬して自宅を建てて40年。

孫を授かって21年、お兄さんたちを失って20年ぐらい、仕事やめて13年、ガンを患って3年、抗がん剤をやめて2ヶ月。

自宅で看取ろうとして1週間、そして亡くなった日の一刻一刻。

すべてはあっという間の時間だったことになるのだが、消えた過去が今に、~~年となって復活する。

過去はあっという間に消えて、今という時間に誕生するか?

同様に、未来は次々と、今という時間になることから、未来は消えることを定めとしている。

時は現在から現在へと進むと、仏教は説きます。

説いても、説かなくても、それが現実です。

葬儀が終わって、別れ際、奥さんのうるんだ目をみて、声が出なかった。

でも何か声を掛けなければと、「やはり、時間が経つことで、少しは楽になることもあるのでしょうね」と。

でも実際は「時間がいくら経っても、寂しさだけは、どうしようもない」

否定も肯定もできない。

それが今という瞬間(とき)なのだろう。
2013.04.13 Sat l ゆめ l コメント (0) トラックバック (0) l top