夢を見るのは誰ですか?
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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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鎌倉の円覚寺に弓の道場を開いた、須原耕雲和尚は、「どうすれば心に響く弓を射ることができるだろうか」と問い続けた人です。

心に響く弓を射ることの答は、弓引き力のみなもと、丹田を知ること。その丹田の実態は、謙虚さであり、すなおな真心であり、力のいれ所とか、ツボの急所は枝葉(えだは)のことであると記されておりました。

 その和尚は、それ以来、眉間にある上と丹田に、謙虚な、すなおな真心をはめ込んで、稽古をしたと言います。

 「なんの的でも、その的に、願いを込め、祈りを込めて成りきったときに、響きが生まれ、響き合うのです。これを残る心と書いて、残心と言うそうです。祈りを込めてザルで水を汲むという努力を、平気でやれる時が訪れたとき、歳月が重なって丸くなり、おもしろくて、ありがたく、もったいなく、自分が的になってしまいますと言いました。」

 弓道の向こうにあるものは、自己の心の鍛錬であり、平時においての、謙虚さや、素直さという心の、自己実現だったのでしょうか。

道と言うものは、どんな道でも、人の帰するところとなり、安らぎなのでしょうか。揺らぐことのない落ち着きでしょうか。



希望

 普通の、そして平々凡々の毎日がいかに幸せなことか、そして、今日から、たとえ親しい者がいなくなったとしても、それこそ、普通の、平々凡々の毎日が続くことになります。

昨日まではそれでもまだ親しかった愛するものの亡骸が、何かを話してくれた。

「私を独りにしてしまった」と電話口で話された人の言葉が、耳に残っています。

寂しいでしょう、いたたまれないでしょう。

 いつも人の死は突然のことです。

 平々凡々の毎日のなかの、人の行為は、必ずといってよいほど、明日への希望です。朝起きるのも、食事をいただくのも、眠ることも、買い物に出かけることも、それこそ、インフルエンザのワクチンを打つことも、すべての人の行為は、明日生きるための希望といってよいでしょう。

普段の私たちの毎日は、このように成り立っていますが、当たり前のことが、希望だったとはと、気がつくのは、いつも、後でです。

だからこそ、毎日の平々凡々のなかに、大切で、大事な一挙手一投足があることを、忘れないでくださいと思うのです。

 



虐待する心

子供の虐待、お年寄りへの虐待、夫婦間の虐待、恋人同士の虐待、いじめ等々。

すべてはコントロールして自分の思い通りにしようとする心です。

その思い通りにしようとする心が、一番苦手にしているもの、それは自分自身の心のコントロールです。

夢を見るのは誰ですか?俺は俺ですか?その俺を造るのは誰ですか?

虐待しなければ成り立たない人は誰ですか?どこにいるのですか?いついるのですか?

居ないときもあるのですか?本当にいるのですか?

自分を無くしてみませんか?虐待する心なんてありませんから。



イージス艦

しばらく地方にいって、昔、修行道場で遊山した仲間と、一緒でした。

行っている間に、この事件です。漁師が二人奈落の底に苦しんでいます。はやく助けてあげて欲しいと思います。

ところで、このイージス艦は五百億円ぐらいの買い物ではなかったかしら。漁船のGPS装置は、何十万円のもではないかと思うのだけど、それ以下のGPS装置をイージス艦は装備しているのかと疑う。

ハワイに行ってミサイルを打ち落とす仕事をしていたわけだが、実際には、それ以外はなんの役にも立たない船なのか。母港に帰ってしまったのは、人も救えない船ということか。

もしですよ、このイージス艦のそばに、特殊潜行艇や、悪意ある舟が爆弾をかかえて攻撃しようとしていたとしたら、これでは、簡単に攻撃されてしまうではないですか?

イージス艦という最高の性能を持っている船の能力が、漁船以下とは、結局、お金でなくて、すべては、人なんだなと知ることができる。

そういえば、しらねという旗艦の火災も、持ち込み不可の中国製の温冷庫が原因だったわけですが、誰が持ち込んだものか、どう使っていたのか、不明らしい。調べるも人、使っていたのも人です。

何百億円かかる船が、一瞬で粗大ゴミになるか、それでも修理しようとすれば、50億円以上かかるらしい。ちょっとお金の桁が違いすぎるが、漁船のイージス艦も船は船です。

同じ国の海の男の、友情は、助け合いは、お互いを想う心はないのか。



劫外の春

禅語に、「劫外霊枝不帯春」(劫外の霊枝、春帯びず)と云う言葉があります。

劫外とは、天地がいまだ、天と地に分かれるる以前のことです。

東洋では、別名“混沌(カオス=こんとん)”ともいうところです。そんな、いまだ分かれない頃のことには、当然木も草も水もなく、太陽も月もない、陰陽不到の処という意味で、当然、枝や花もないという世界のことなのです。

禅は、そんな世界を、私という、一身上の世界に当てはめます。つまりは、善悪、美醜、上下と分別しない世界、つまり自己を認識しない世界が、劫外というわけですから、私もない世界の私が、霊枝と言えます。つまりは私たちは、私という自己が生じなければ、霊枝そのものであり、それが本来の私の姿だと言うのです。

その本来の私が迎えた、まっただ中の春にいて、春を知らず、冬を知らず、四季を知らずと、そのまま、春に、四季に成りきって行くのが禅の姿と言えます。人が、充実した時をもつとき、時の経つのを忘れますが、このことは、同時に自己そのものも忘れているからこそ、自己が活発に動くといえます。それは時の表現をしない世界といえるでしょう。

この無心の私が、活発に動き出した姿を、禅では、用とか働きと言いますが、次の禅語が参考になります。

「枯木花開劫外春」(枯木花開いて、劫外の春)です。

枯れきった枯木とは、私のないことが枯れたという意味でしょうか、本来の姿の私が枯木です。無心の私です。その私が花開くとは、私という意識が芽生えたという意味ではなく、無心な私そのままに働きに出て行くということです。

季節は、寒さ真っ盛りですが、木々の枝には、蕾がこの時期大きく膨らんでいる、そのことが春。そして、梅に枯れた枝に花が咲く、そのことが春という。

劫外の春とは、痛いときは、痛いそのままに謳歌する。その働きこそ知らないで、注視しないで、充実していることを知らないで、活発に貴方の心は働いているではないかと、禅は言います。

それ以外は全て分別です。人間がこしらえたものであり、創造したモノであり、時間であり、記憶であり、そこから飛ばないで、刻一刻と、行じて行く姿が大事なんだと教えてくれます。



人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?

次の質問は、しょうごろうという36歳人。

『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』

谷川俊太郎さんは答えました。

『こういう質問には、科学的な答えってのがあると思うんだけど、答を知るとまたその先を、「なんで?どうして?」って訊きたくなるのが、人間なんだよね。

 でも問い続けて最後の究極の答は、多分科学には出せない。

 で、ぼくの答。

 いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。

 だけどそれを解放すると、この世界の秩序があやうくなるから、人間はときどき鏡を見て、あるいはステレオを聴いて、あるいは3D映像を見て、目も耳も二つずつある左右対称を楽しみ、確認して安心するのです。』(谷川俊太郎質問箱 ほぼ日刊イトイ新聞刊行)

 左右対称とは、バランスがとれているという意味でしょうか。それは地球の引力に対してもそうでしょうけれど、目は三角法の測量により長さを測ることにより、耳は、音源の移動に、相対的3D位置を知る働きがあるからでしょうか。楽しみ、確認して安心するのですは、谷川俊太郎氏であって、私にはなかなか……。

 この左右対称は、対象を捕まえる、追いかける、ものを投げる、水の中に泳ぐ、愛し合うためには不可欠なものであるけれど、それを意識したとたんに、左右はばらばらの動きに、自己はコントロ-ルを失うものです。だって、われわれの手や足は、右や左と意識したら、思うように手や足を動かせないからでもあります。

 それよりも、「右足を出し、左足を出してと歩むことはスムーズではありませんから。左右の間にいるものは何ですか?」と問いかけてみたいものです。

 これは、左右対称のあり方は、左右対称を意識しないことに成り立っているからです。

 そして、心は、上と下、右と左、さらには、好きと嫌い、損や得、順や逆が、西と東、始めと終わり、3Dどころか4Dを含んで、相対的4D位置をはっきりと知る働きがあります。

 順や逆、始めや終わりは、左右や、損も得も、相対的な関係は、我々の位置をはかるものです。そして相対的な関係のものには、必ず、真ん中があることが不思議なことです。仏教が中道を指向する理由も、この辺にあるのかもしれません。

 

 右や左、上司や部下、世話になった人ならない人、親や子供、姉や弟と、相対的な関係のなかに生きる人は、損しても減らないもの、得をしても増えないものは求めないものです。もっとも、「そんなの関係ない!」は、すべての繋がりを切るものですが、切ったと思っているのは自分だけで、考えてみれば、かえってその繋がりを浮き上がらせているものだとも思います。

 でも本当に価値あるものは、こんな中にあるのではないかと思います。これは、混沌というものこそ、人間を人間たらしめるものではないかと考えさせられます。

 谷川俊太郎氏は、「いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。」と言います。

 損しても減らないものとは、優しさとか思いやりです。いくら働かせても、働かせても減らないものです。もっともっと山ほどあります。しかし、これを知るには、自分中心という発想では思い浮かばないことでもあります。

 また、得をしても増えないものとは、気づきです。それは、人はもともと自己に欠けているものとして、さらには、思っても見なかった自分に備わっているものに気づくことではないでしょうか。慈愛や慈悲、敬いや、いたわりこそ、誰もが持っている宝物ではないでしょうか。ただただ気づくことです。

 そしてさらに、社会にあることわりや、自分にとって見えない道が見えたとき、これが大事ではないでしょうか。ここからは、恵みとか喜びというもので表現できるものです。あるいは、感謝もよいでしょう。私は、よく混沌の悲しみと言います。それは、もともと持っていたものを相対的世界に生きるために失うことです。失う必要性はなどあるわけはありません。

 こう考えてみると、順や逆、損や得、好きや嫌いという相対的なもののなかに、それを超えるものがたくさんたくさん潜んでいるように思います。見つけられるとよいですね。

 禅宗の祖師は、「境縁にはよしあしはない。よしあしは心から起こる。心がもし無理に分別しなければ、妄情はどこから起ころうか。暇な時は誰が暇なのか、多忙なときは誰が多忙なのかを考えてごらんなさい。そうすれば、多忙の時にかえって暇な時の道理があり、暇なときにかえって多忙の時の道理があることをきっと信じるでしょう。」と言っています。

 そして、そこから導き出したものは、

 右にも左にも左右されないもの、まして、真ん中にも左右されないもの、

 また、そこに在ることも、無いこともないものが、在るためにです。