定年

2008/03/31 15:16

 春の彼岸に、団塊世代の定年が間近に迫ってというより、もうすでに、真っ盛りという思いを新たにしました。定年して何しているのですに、「読書と酒です」という人がいた。晴耕雨読は知っているが、酒かと!

 また、「もうじき定年でしょう?」と言うと、「来年です」と答が返ってくる。「どうするの?」と聞くと、「遊びます。もう嫌で嫌で」という。

 そういえば、私もこの4月で59歳になりますから、来年は定年の世代です。そんなことを考えると、身体が疲れて、午後になると眠くなってしまうから、不思議だ。自信がなくなってしまう。それでも何とか頑張らないといけない。

 お寺に住んでみると、どこの和尚も定年はなく、人生の終末の長さと同じだと気がつく。世に言われる自由業というカテゴリーに入っている人たちも定年はない。ものには寿命というものがあるが、その寿命と授かった役割が等しいのだ。考えてみると、誰が定年などという制度を作ってしまったのか、もったいない。

世に、リサイクルという言葉があるが、それは使命が終わったということではなく、再生して、次の使命として使おうということだ。人間自身の身体はリサイクルできないが、人生に定年がないように、知識や経験、生き方は、リサイクルできるはずだ。

今思うのだが、どうも制度として、定年制度があること自体が不自然な気がする。例の官僚の天下り制度(?)にしてもである。有能の仕事をする人は、それなりの報酬を得ればよいことだけのことではないか。それなりの報酬が個人の有能さと無縁に保たれていることが不自然な制度なのだ。ここにも制度破綻が起きているのだろうか?

作努着

2008/03/30 21:35
作努着

作努着(さむぎ)の生地を写真にとってみました。いいものですね。やっと携帯で送る方法がわかったもので掲載しています。

波瀾の花

2008/03/29 20:51

波瀾の花
波瀾の花をはじめみました。ずっと以前から、咲いていたのだ。ただ気がつかなかっただけなのです。この写真はズームで撮りましたが、葉が茂っていればわからない。葉をだいぶ刈って、日が当たったためだろうか。おもしろい花だ、地面から少し顔を出しただけのように見える。

餃子事件後報

2008/03/28 15:22

餃子事件に落ち込んでいたレトルト食品の回復ぶりが、80パーセントに戻ってきたという。

先日のことである。知り合いの農家出身の奥さんが、「今、母を呼び寄せてすんでいるのです」という。 「そりゃすごい!ところで、農業はどうした?」と聞くと、「もうしてません、だれもする人はいないし」という。 こうして、農業の後継者不在の政策は、やがて、この国の農業の崩壊にと今歩んでいるみたいだ。農業就労年齢の平均が70歳を超えている現状。 あと10年たったら、これが80歳を超してどうなるのだろうと危機感を持つ、今手を打たなければそれこそ破綻になると思うが?

餃子事件で日本の農業政策の不在が明るみに出た。日本の農業に野菜を求めても、増産できる体質はすでに無くなっていたからです。 これを過度期とするには、あまりにも、お粗末です。もうだいぶ以前のことですが、近郊の農地をみて、どうして農地の中に、新しい分譲住宅がポツポツと建つのだろうと思ったことがありました。 農地と住宅が混在するなんて想像できなかったからです。住宅パワーは、いずれ農地を宅地に変えてしまうだろうと思ったものでした。このとき土地政策の不可解さを垣間見たものでした。

これは、都市における小さな企業にも当てはまるものと思います。印刷業どころか、小さな工場の出す音や臭いや、昔からあった工場がどんどん姿を消して、マンションに占有されてゆく景色にです。取り残された工場はやって行けなくなり、地方に移転するか廃業です。

レトルト食品の反乱ぶりは、日本人の食生活と家庭の変容を垣間見せたものでした。町の小売店がなくなり、あっても、フランチャイズばかりの現状です。

商調協という言葉がありましたが、大型店の出店で、この商調協という言葉が新聞に出てきたのは30年ぐらい前からです。 大型店の出店と町のお店との調整をはかる機能を担っていたと思います。それから30年が経って、町のお店は壊滅状態です。大型店は便利さと安さで、輸入品に頼ったのでしょうか。

なんだか、すべてが、悪く、繋がっているように思えてしかたがないのです。

夫婦

2008/03/25 12:16

 ネットで、「妻とは?夫とは?」と検索してみると、様々な問題があり、よむと面白い。

 なぜ?

 夫婦とはと考えた場合に、具体的な言葉は、在りすぎてないともいえます。それは、夫婦という関係において築くものの、あまりにも時間が長く、その長い時間に、目的は刻々と変わりながら、その関係の中の分担も変わり続けて、発展し、修復し、補完し、破綻し、永続し、終わりがないとも思ってしまいます。

 ハッキリと言えることは、依存しあう関係であるといえることです。これは、二つで一つのものと考ると、その一つ一つは、様々に正反対のものであり、もっとも、正反対であるからこそ一つになりうるものなのですけれども、一つ一つ、自己を持っていることでしょうか。ものの見方一つにしても、おなじみ方ではなく、だからこそ、二人して寄り添うことができるのですが、そのことを意識しなければ、関係を成り立たせている情報の交信が絶たれてしまいます。

 確かめて、修復し、補完して、発展してと、この作業を知らずに行って、30年、40年、50年とたった夫婦は、「おまえ百まで、わしゃ九九まで」という理想の姿においても、「共に白髪が生えるまで」で、その先のことは、夫婦という一つが、残るところは、そのこしらえたものによって支えられるきりしかない。

母とは、父とはと、理想の姿はあるもののです。

長沙遊山

2008/03/23 17:34

 3月22日、桜の花が開花した便りが、電波に乗って伝わりました。桜の春意の便りです。この春意をあつかった禅の物語があります。長沙遊山という物語ですが、それに人の老いと桜を重ねてみました。  

中国の禅宗の和尚に、長沙(ちょうさ)という和尚がいました。のんびりとお寺に過ごしていました。ある日のことです。

 長沙はぶらりと外に出ました。この和尚の住む場所は、洞庭湖という景勝の地で、そぞろ歩きにはぴったりな場所です。自然のたたずまいが四季それぞれに美しい季節をめぐらして、散歩をうながしているともいえます。私が散歩するのか、四季や景色が散歩をうながすのか、一日中、歩いていたのでしょうか、のんびりしています。

 お寺に帰ってくると、その寺の執事が、「どこに行っていたのか、和尚さん、どうしたのですか」と問いかけられました。

 《 この問いは、和尚さんの心境を問いかけるものです。考え事をしていたか、むしゃくしゃしていたなどと答えたら大変です。おいそれと答えられる内容ではなく、長沙和尚の現在を現してなければいけないわけです。》

 すると長沙は、「遊山(ゆさん)しきたる」と、ぶらっと散歩してきたのですと言いました。

 《 遊山の遊という字を、大森曹玄老師は、「すべてを超越して、しかもすべてをあるがままに享受していく長沙の限りない心境」と碧巌録に記しています。私たちが普段使用する遊ぶとはかけ離れていることに気づきます。さらに、「縁に随って方曠(ほうこう)し、性にまかせて逍遙(しょうよう)す」とも記しています。柱も遊戲三昧、机も畳も遊戲三昧だと古人はいいます。

 ”芳”の字の、方は広がる意味をもちながら、艸編を持つことで、草が四方にひろがる意味をもちます。ここから、かんばしい、においがよい、評判がよい、ほまれとなって、すぐれた意味が付されます。

 禅宗からこの意を季節より見ると、春意となるのでしょうか。春意とは向上への意欲となります。心に、盛んなものをもっているといえばわかりやすいかもしれません。しかし、その盛んなものは考えてみると様々なものであると気がつきます。》

 執事は、すかさず「いずれのところにか到り来る」と、どこに行っていたのですかと質問いたしました。

 《 長沙の遊山に対して、何処か引っかけてやるのたくらみがあるのでしょうか、その遊山の中身を問います。もし目的を持って、どこどこに行ってきたなどと答えたら、遊山ではなくなってしまうでしょうし、痕跡をとどめてしまいます。》

 長沙は答えます。「始めは芳草(ほうそう)にしたがって去り、また落花をおうて回(かえ)る」

 《 寺を出ての散歩に、草の萌えいずるさまにまかせて往き、散る花びらのように、散歩から帰ってきたと、芳草と花びらを自己にたとえて、我が草か、草が我か、花が我か、我が花かと、対象を越える、今の心境を歌ったのです。

 もう一つ、人生を山にたとえて、幼少から若さの絶頂期を頂に、その頂から下りきったところを老いて歩むことにたとえても美しい情景になってきます。もちろん禅的に、頂は悟りきった世界です。》

 すると、執事は「おおいに春意に似たり」と揶揄(やゆ)いたしました。

 《 春意とは、冬から春に変わる陽気さというものでしょうか、寒さの中に春の陽気を含んで、小春日和の暖かさの中に寒さを含んでと、枯れたものを悟りに、陽気を衆生を済度しようとの意気込みにすると、これは、長沙を引っかける内容になるようです。引っかけですから、次の言葉に、長沙の禪機(ぜんき=働き)が現れます。》

 長沙は、「また秋露(しゅうろ)の芙傷f(ふきょ)に滴(したた)るに勝れり」と答えました。

 《 芙傷fとは、蓮の葉っぱです。蓮っ葉(ハスッパ)と言うように、季節が過ぎた蓮の葉は色が枯れてみすぼらしい形容です。秋露とは、熱く悟りを目指して進んだ者の、そのあつい悟り臭さもすっかりとれたさまのことです。そして、この滴(したた)るという言葉は、「秋になって、そのみすぼらしい蓮っ葉に朝づゆが乗ることです。このことよりはまだ良いだろうと、長沙は言います。》

 これは碧巌録36則、長沙遊山という公案ですが、この最期の結びにいたって、始めて、「始めは芳草(ほうそう)にしたがって去り、また落花をおうて回(かえ)る」という詩が生きてきます。  

 さて、長くなりました。芳という字は、どうしても、かんばしい、においがよい、評判がよい、ほまれとなって、すぐれた意味が付されます。 人生は優れっぱなしではバランスがとれなく、そのバランスをとるためには、どうしても、登りっぱなしの山を下りてこなければと考えます。

 そこで、考えたのが耆(き)という字でした。老いの日で成り立つこの耆は、ただの老いではないように思えます。辞書には、70歳以上の老人、到って年老いた、老境に到る、つよいなどの意味があります。

 また口偏に耆とかき嗜好という熟語がありまが、この嗜は、旨に口偏が付されるようです。

 しかし、耆にも、このむ、たしなむの意があることから、この耆という字は、老境に到ったことは到ったのでしょうが、好むや、たしなみを捨ててはいない老のような気がいたします。これも、到って好むから、たしなみなのか、老いて春意を捨てていないと解釈してみてみたのです。

 すると、桜の木が似合うように思えて、開花宣言はでたけれども、戸惑って咲く気配をうかがう桜の気持ちも、これも春意に思えて仕方ありません。ありのままに表現するという意味でもあります。

 なぜに桜の話をするのか。それは、老いた桜の木ほど、幹は荒々しく、根は強く張りだしてはいるものの、幼い若木に比することで、こうも老いを強く表現するものはないからでもあります。その姿を、人の老いと比べて、人もこう見えて欲しいとの願いからです。

 そしてその願いは、やがて、現実に人の老いて咲く花があるではないかと、ひたすら求めて、曲がった脚や腰に、白髪や顔のしわに、皮膚に、花が咲いているではないかと、もっともっと、老いの花を探さなければ、息子や娘、孫たちに見つめてもらいたい気持ちからです。

 めぐり到っての老いに、老いさらばえて咲く人を圧巻する桜の見事さは、咲き誇った今が盛りの姿ですが、未だ枯木の身に、咲かせようとする老いた桜も、話しかければ答えるように、昔の記憶が今よみがえるかのように、枝につぼみをふくらませます。

 しかも、老いた桜ほど木々の一杯につぼみを持つのです。咲かせてあげるのは、娘の心か、そんなことが、繰り広げられていたのか、桜の木のように春、花を咲かす意を持っています。

 しかし、そんな母・娘の間に、夫として父親としてたたずんで、見つめる以外に方策を持たない男は哀しいものです。でも、その哀しい男自身を、じっと内に秘めることで、夫や父親としての姿勢を保つことができるのでしょうか。

 それは、自分を維持することの困難さの予感でしょうか。それほどの思いを持つ夫であり父親でありたいと思う。

これも立派に咲かせる花びらです。目には見えない花を咲かして、流れない涙が浮かびます。これも老いた桜の枯木に、いくつかの花を開花した姿です。

 長沙は、「また秋露(しゅうろ)の芙傷f(ふきょ)に滴(したた)るに勝れり」と、色気のないよりはましだろうと、これこそが、長沙の春意ではないかと思います。

 芳という字は、向上いっぺんの字ではなく、老いての芳は、老いも忘れて、女性は女性の、男性は男性の花を咲かす。その咲かした花は、見つけようとしなければ見えない、それも春意だと解釈してみてみたのです。

 長沙のいう色気のないよりはましだろうは、気負いがありますが、気負いなどいらないほどに、老いには、自然に耆という字に、このむ、たしなむが添えられているように、桜の開花は、老いのたしなみであると思います。

 このみは、この身であるように、この身は生きている限り、花を咲かせるものです。母が病床でいう、「甘い卵焼きが食べたい?」、「おいなりさんも食べたい?」、「お父さんのオーバーは仕舞ってあるから」、「ネクタイはお誕生日に買ったものをしめてね!」、「あたしは具合が悪くて意気地がなくなった」と言った言葉は、春意です。

 老いた母が亡くなり、父が言う。「自宅に置くのは辛いと、とてもじゃないけど、どうなるかわからない」と、深い言葉です。とっさに出てきた言葉だと思うのですが、持っているものの重みを表すものです。受け入れなければならない、この身の裂け目は、癒すためには日数が必要なことを意味しているのでしょうか。よく老いた桜の古木の裂け目がさらされて眼にすることがありますが、人の痛みは、目に見えません。

 人の人生の悲喜こもごもに、我々の自然は様々に関わって来ます。桜の便りに、意味などはないはずの、意味あるものとして受け取るのは、人の心です。

 一年一年繰り返す、桜の木の春から冬への変化は、人の人生に光と影を投げかけるものです。そう思うと、人生の意味はさまざまに色を変えて見えてくるから不思議です。

 桜の花の便りが届いた22日、お墓参りの男性が「桜が開花いたしましたね」と、お線香の前に坐る私に投げかけました。私は、すかさず、「あなたも咲きましたか」と投げかけました。きょとんとするその様子を楽しみながらです。「そら、咲いた」。

しなければいけないのですか?

2008/03/22 20:40

平成20年3月彼岸にてこんな問いかけをされました。

年末に、お知らせをいただいた33回忌と27回忌の法要と重なっているのですが、どうなんでしょうか、年数が経ってやらなければいけないのでしょうかね?どうなのでしょうかね?

私は「する人はするし、しない人はしません。するしないは自分の中で決めるものです」と答えます。

自分の誕生日が毎年来るように、命日も毎年やってきます。自分の誕生日は自分で、あるいは家族や友人が数えて、お祝いをすることもあるでしょう。故人にとってはどうでしょうか、自分で数えられるでしょうか。自分で自分を偲ぶことができるでしょうか。

あとに残った人が数えてあげなければ、思い出さなければ、供えなければ、誰がするのでしょうか。忘れのも結構、だけど、どうせ忘れるなら、自分の誕生日や記念日も忘れてください。

回忌は、4年ごと、あるいは6年ごとに振り分けられています。みんなで、家族で、親しかった人が忍ぶことも、毎年ではないのです。

まして忍ぼうとする人は、何らかの関係、血筋において繋がっている人たちです。もしかして、その人がいなかったら私は誕生していなかったとしたら、あなたの生は勝手につかみ取った生なのでしょうか。

生まれてくる赤ちゃんにとっては、祖父母や父母を選ぶことはできませんし、祖父母や父母も、生まれてくる赤ちゃんを選ぶことはできないのです。それを必然というのか偶然というのか、できちゃったというのか、授かったというのか、それを考えるのは、人です。

お寺は、そう思う人が、祈りや忍ぶ場所として支えて作った場所でもあるのです。

驀直去

2008/03/21 21:41

 昔、中国に五台山という文殊菩薩をお祀りしている霊場がありました。東洋のどこの国でも霊場は、たとえ山でなくとも山といい、多くの人が目指すことから、宿場町などが賑わっていたものです。 その五台山に登るふもとに一軒の茶店がありました。茶屋には商いの主人がいて、お爺さんかお婆さんがよく似合います。この物語の登場人物はお婆さんです。 この道は、多くの修行僧が一人一人と通う道だったのでしょうか、山に登るために、お茶を飲み、団子を食べて休憩するための場所だったのかもしれません。

 修行僧にとって、これから登る修行場に、あこがれや恐れ、気を引き締める場所でもあったのでしょうか、あるいは自ら修行した経験を確かめる場所でもあったのでしょうか、修行の深浅、動機など、一人一人秘めたものは違っても、尋ねて口に出る言葉は同じです。

 それは、「五台山に登るには、この道を行けばよいのですか?」と。

 それに対して、お婆さんは答えます。「驀直去(まくじきこ)」で、「真っ直ぐに行きなさい」です。

 そして、五台山に登ろうとするお坊さんがいよいよ歩もうとして一歩を踏み出したとき、お婆さんは再び言葉を発します。しかし、その言葉は、つぶやきのようなものだったかもしれません。

 「いいお坊さんが、またまた、このように行きなさるわい」と。

 禅宗に語り継がれているお話は、このあと、趙州(じょうしゅう)という老禅師が登場して、このお婆さんの真意を検証しようと、同じ道を修行僧として同じように出かけて行きます。 趙州が茶店に着き、お茶を飲み、「五台山に登るには、この道を行けばよいのですか?」と、修行僧たちと同じようにお婆さんに尋ねます。 お婆さんは、これまた同じように、「驀直去(まくじきこ)」で、「真っ直ぐに行きなさい」と、趙州に言葉を発します。趙州は茶店を出ます。 すると、お婆さんは、「いいお坊さんが、またまた、このように行きなさるわい」といいます。

 趙州は、自分のお寺に帰ってくると、道場の修行僧に、「わしは、五台山の茶店の婆さんの度量を、お前さんたちのために、点検し、見破ってきたわい」と、言います。

 この問題は、趙州という和尚の、「お婆さんを点検し、見破ってきたわい」の中身に狙いをつけて、修行僧たちを点検し、見性に導こうとするものです。

 しかし、今、お話ししたいことは、このお婆さんの発した言葉だけです。

 「驀直去(まくじきこ)」で、「真っ直ぐに行きなさい」です。何も他人から言われた言葉でなくても、自己に向かって発する言葉でもよいかもしれません。

 詳しく考えると、自己の発する言葉の、言葉を発する人は誰ですか、聞く人は誰ですかと、歩む人は誰ですかと、三役の自己が現れてしまいますが、このことは、ひとまず置いておくということにしてです。

 「驀直去(まくじきこ)」で、真っ直ぐに行きなさい。

 彼岸の中日のことでした。朝早く訃報が入りました。亡くなった方は、よくお話をしたかたで、考えてみれば、もう一年半も姿を見ていないことを思い出します。

 その一年半前の秋彼岸のことです、彼は、都心から郊外に引っ越しして行きました。そのとき、86歳ぐらいだったのではないかと思います。夕刻、お墓参りに来られました。

 いつもと違ったのは、古ぼけた手提げバックから、軽快なナップザックに、杖という出で立ちだったことです。もちろん、足もとはゆっくりと、それでも、言葉だけは、下町のお爺さんらしく早口で、はきはきしていました。墓参がすんで帰ってゆきました。

 そして、次の春彼岸のことでした。息子さんにお会いしたときです。父はあの日、迷子になってしまったのです。それでも、夜遅くになって帰ってきました。

父は、どうやら、電車を乗り過ごして、先の駅に降りたらしいのです。駅を下りて、真っ暗な町に迷って、ふと、やまとの宅急便の車が目にとまり、何とか頼んで、その車にて自宅に帰ってきたのです。 我々は心配して駅に迎えに行ったのですが返ってこないので、ひとまず家で待つことになって帰ると、宅急便の車が止まっていました。 父が乗せてもらって帰ってきたのです。それが最後の墓参だったのです。

 それから、一年の年月が経っています。ふと、「どうしているのかな」と思いながらも、今年も、春の彼岸を迎えた、お中日でした。彼の訃報を聞いたのは……。

 あの時、家族も心配していたのでしょうが、私は、必死に帰ろうとする彼の心境を思いました。きっと真っ直ぐに歩む一歩が、あやふやな一歩となり、焦り、戸惑い、しっかりしろと、自分が情けなくなったり、家族が恋しくなったりと思ったことをです。 その時は、86歳だったのでしょうか、老いて運動靴を履いても、足もとがおぼつかなくなりと、それでも、お墓参りにと通う姿に、一刻一刻と刻む時間に、足もとが止まります。

 この中国のお話しは、人の足もとを照らします、真っ直ぐに行けと、歩めと。

 曲がりくねった道も、行き止まりになっても、戻り道も、斜めの道も、逆さまの道も、それこそ、振り返ることも、立ち止まることも、嘆くことも、笑うことも、その一歩の歩みは真っ直ぐに歩むことです。考えてみれば、人は真っ直ぐに歩むことしか能がなく、歩むことが真っ直ぐなことに通じているといえるでしょう。

 訃報をいただいた前日、息子さんは、病院に泊まり、父の容態を刻一刻とつぶさに見つめながら過ごしたのでしょう。 父の真っ直ぐに歩む姿をです。きっと彼は、自分を理解してしてくれる息子に見守られて、さらに真っ直ぐに旅立っていったことを、「すーっと眠るように息が途絶えました」とい電話口で話された言葉に、思いました。

後期高齢者医療制度

2008/03/14 22:51

後期高齢者医療制度

《 後期高齢者医療制度においても、74歳までの方と変わらず、必要な医療を受けることができます。また、後期高齢者は、複数の病気にかかったり、治療が長期にわたったりする傾向があり、こうした特性を踏まえて、後期高齢者の方々の生活を支える医療を目指します。

1,主治医に心身全体継続的に診てもらえる医療。

2,在宅で安心して療養できる医療。

3,安心して看取ってもらえる医療。    》

 なんか、バラ色な後期高齢者医療制度とうたうが。 

 昔、貧乏な家に生まれ育った彼は、その一生を馬車馬のごとく働いた。しかし、彼の能力では、彼の巡り会った家庭を支えるだけで精一杯だった。彼は、自分に掛ける年金を削って家庭を支えたのだった。そして、やがて子供が独立し、妻が亡くなった。

 すると独りになった彼を、「家に来てくれ親父」と、一人息子が懇願した。彼は無年金者だったが、「親父を食べさせるくらいは俺にもできる」と、息子も、その嫁も、その子供たちも願った。平和に暮らす日々が続いた。

 平成20年4月1日、後期高齢者医療制度という、新しく国を支える医療制度が、74歳以上のお年寄りに対して立ち上がった。

《 その制度は、公的年金(国民年金)上限収入79万円の単身者で、市や区によって違うのだが、東京23区ではおおむね7割減額で、月に940円、年額に換算すると11,340円となる。金額が低いので均等割だけで所得割合はないのだが、公的年金収入者は、その年金より徴収されることになるのだ。

 ちなみに、厚生年金や共済年金だと、単身者は208万円で、均等割年額37,800円、所得割年額36,080円で、合計年額73,880円、月額6,150円となる。》

 4月上旬のある日、彼の住所に、保険証がきて、やがて、役場より納付書がきた。その金額は、年額で37,800円だった。均等割10割の後期高齢者保険料だったのだ。

 彼は、その金額を息子に告げることもできずに悩んだ。督促は続く。

 後期高齢者医療制度は、息子と同居を考えて、扶養する息子に応分の収入があれば、その所得の一部を彼の収入とみなすことができるのだ。

 彼は、考えた。これ以上に息子に迷惑を掛けることは、忍びない。家を出て生活保護の方法もあるのではないかと。親切な人に相談したが、生活保護を受けるために、単身生活になることはできないと。彼はひそかに悩む。どうしたらよいか?どう生きたらよいのかと? 

 そもそも、この無年金にして幸せな(そう見える)生活を送る彼と、公的年金収入だけの単身者と比較すること自体が無意味な計算であり、やむをえなく、しかも当たり前のことだが、二世代生活を送る彼らを、世間の荒波がおそうのだ。二世代三世代生活は、この時代おかしい。単身者なら7割減額してあげると。

 こんな事がおきないように願うのです。

 もう一つ不可解なのは、65歳から74歳までの一定の障害の状態にある方も、後期高齢者医療制度の対象となることです。障害の状態があれば、「あなたは後期高齢者保険にはいる資格があります」とほめられたことなのか。この線引きの実態は、医療費にお金がかかって、保険制度の財政上の問題だけなのに、どうして、広域連合という新しい組織を作って、徴収事務と給付事務が行われるのだ。介護保険は市町村なのに、後期高齢者医療制度は広域連合が主である。高齢者のデーターは市町村が握っているのにである。

 日本という国に、二つの医療保険制度という矛盾が生まれることになるのか。机上の妄想と現実の乖離ではないのか。それにしても、政策が半年も持たないとはどういうことだ。

 つじつま合わせの、結局、財政破綻による、夕張化現象がおきているのではないかと思ってしまうのです。迷惑を受けるのはどちらか?

のどが渇いたら……。

2008/03/12 11:39

のどが渇いたら井戸を掘って飲めばよい。

腹が減ったら、ご飯を食べたらいいじゃないか。

天子様には用事はないぜ!

昔、堯の王様が治世をしていた頃の話。堯は自分が施した治世の評価がどうしても知りたかった。そこで、議員や官僚や知事に聞いてみたのだが、いまいち納得できなかった。そこで、堯自身は何とか自分の目で見つめたいと、村々を歩いたのです。

すると、村人が、「のどが渇いたら井戸を掘って飲めばよい。腹が減ったら、メシをくえばよいじゃないか。あとは何にもいらないよ」と歌う姿に接したのでした。

国を治める心得としては、このような世界が満ちあふれていることを理想としたいものです。

しかし、禅は、「そんな夢を描いて暮らすのは、いつになったら、そんな世界が来るのだい?」と、今、自己の中に、普段、そうしているものがあるだろうと、気づかせます。

壺中の夢を抱くのは、政治家だけでよいではないかと。

省みる

2008/03/10 19:36

省と書いて、”しょう”と読む。しかし、この字を真剣に考えたことがある人はどのくらいいるだろうか?観察する、省みるが、この字の本来の意味だ。

庁から省に変わったときに、事件はおきるのだが、庁も、元々は聴くの意味あり、”よく聴く”に重きがあるのです。省になったら、無駄をはぶく意味が強くなります。

この頃、いや、ずっとかもしれないが、省という字恥ずかしい省ばかりなのが気になります。

いっそのこと、省防衛、省国土、省厚生、庁社会保険と書き換えてみたら良いかもしれない。

本来、省益・庁益などという熟語はありえないのだ!

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