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夢のなかに

2009/03/04 20:37

《 私たちはじぶん自身の人生を自分の手で生きていると思っている。
しかし、実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、誰かによって見られている夢ではないか。
夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真っ只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。
このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。

 夜、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に感じとっているはずである。
夜半に訪れる今日と昨日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。
そこに見えてくるひとつの顔があるだろう。
その顔の持ち主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。
そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名を持っているのではないか。

 私たちが科学的真理とみなしているものも、合理的思考と呼んでいるものも、こう思えばすべて夢の中の迷妄にすぎないことになる。
私たちが時間とか自己とかの名で語っているものも、夢の中以外にはどこを探しても存在しないまぼろしではないのだろうか。

 しかし、たとえはかない夢であってもまぼろしであっても、私たちはいったんこの「だれか」の夢に登場してしまった以上、この夢の中で生き続けなくてはならないのだろう。
そのためには夢の中の論理を求めなくてはならないのだろう。
ただ、私たちが普段確かな現実だと思いこんでいるこの人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつの高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、ぜひとも知っておかなくてはならないように思う。》木村敏著作集? 268ページの抜粋です。

 

人が亡くなって、その人を人生を考えてみれば、その人は、自分ではなく他者の夢の中で生きていることになるでしょう。

誰かによって見られている夢とは、私たちの行為はすべて、他者によって動かされていると意味することができることにたとえられます。

 あっという間の過去という人生は、夢幻のように思えます。
それは、人が瞬間という今を生きていることを忘れて、過去に生きたとしても、過去の中に今という時間は無いことを忘れてのことです。今さら……、昔のことだ……と打ち払うものこそ、時間の狭間であり、それを死というのだろうか。

 相対的な死など在るわけはなく、まして、生の中に生きて死を捜すなぞ、手に入るわけがない。
死に行く身でありながら、生きようとしていることに似ている。高次な現実なぞ在りようなく、あるとしたら、今まで、見えなかったことが見えるようになる外はない。

凡夫が仏の姿を見ることができないに似ている。

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