選挙

2009/07/26 09:28

昨夜、民主党の立候補者のミニ集会というものに出かけた。「2万数千票を増して、明治以来の政権選択という新しい時代の幕開けを、皆さんの力で、是非お願いします」という。

彼は、昨年の10月に選挙事務所を開いている。後援会会長は、「彼の所有するものはたくさんの本だけで、一文無しのようになって、退路を断っている。彼は馬鹿だ。どこにそのエネルギーがあるのか?」と、惚れている様子がうかがえる。

そう言えば、前回の選挙は、小泉旋風に小差で落選している。

何か地鳴りのように、津々浦々で、新しい政治の形が生まれる気配を感じる。

前日には、町会の青年部の人と話をしていて、「政権選択によって、日本が変わるしかない」と、その人は叫んでいた。

多くの期待に、答えて欲しい現状が日本に渦巻く。

だから、もし政権を取って、不都合が生じても、揚げ足取りをするのではなく、改めることに躊躇なく、行って欲しい。

選んだものは寛容の精神を持つことが、選んだものの努めだろう。

すべての国民が、安心できる未来を描いて欲しい。

今のままでは未来がどうなるのか、嘘偽りなく率直に描いて欲しい。

その未来に対し、今何をしなければいけないのか、状況を説明して欲しい。

マニフェストを掲げるなら、査定委員会を作って、常時、達成度や未遂の優先度、断念した理由などを公表して欲しい。これは自公政権がしていなかったことです。

また、過去を検証して欲しい。それは、自公政権が、何を行ってきたのかの検証でもあり、反面教師となることで、新しい道を探ることにもなろう。

こんなことを期待できる人間が、この地区にいるだろうか?と、彼に願った。

彼の名は、東祥三(あずましょうぞう)。

解散

2009/07/22 20:40

衆議院が解散したことについてひと言。

自民党が、選挙用のマニフェストを作っているという。まてよ、この一年間あるいは以前から与党としての政策って無かったってことなのだろうか。

今までのマニフェストにのっとり政策の梶を切っていたのではないことがうかがえる。怖いことだ。

何を便りに、どこに行こうとしていたのか、現在の場所もわからなかったってことか。

思いだして見れば、そういえば、ただ後手後手に、場当たり的に走っていただけなような気がする。

未来を描いて、そのために、今、何をしなければならないか描いて欲しい。

今のどこが問題であり、その問題の解決のためには、未来に何をしなければならないか描いて欲しい。

過去の問題はどこを通って行きつく場所を描いて欲しい。

自民党という自己はあるのか。その自己に根拠を与えるものは何か。与えられた自己の能力は何か。そして、誰のために政治はあったのか。

マニフェストによる二大政党制という選挙は、個を埋没させる。しかし、そうではあっても人が政治をするわけだから、個人として何をしたいのか、どう行動するのか、選挙は有権者に誓う場所だ。

不可解なことが多かったように思えてならない。

有と言えば有とや人の迷うらん

2009/07/21 10:01

 昨夜のことだ、寝る前にTVのリモコンスイッチを押すと、TVタックルが映像に流れた。

98歳とその子どものお寿司屋さん板前に、話していた。

うろ覚えだが、問いに、息子が「親父の知り合いはすべていなくなってしまった」と、答えていた。

親父は、「息子に寿司屋の技をすべて取られてしまった」と、カラッと言う。

ここで笑い。

年を取ると失うものがおおいと思う。寂しい? 悲しい! 独り?

ふと考える。「でも知り合いは、もともと、自分が手にしていたものか?つながって持っていたものか?」。自分だけが思っていたものではないか?

「知識は?技量は?、苦労して得て、多くの出会いを通して、在ったはずだ!10年・20年・30年かけて築いた技量だ。しかし、それは失った時間が築いたものでもあり、過去に在ったものは、今、失ってしまったものなのか?」。

人は、何かを得よう赤ちゃんの頃から内部から突き動かされ、失い無くすことを極度に嫌うと思っているすり込まれた心がある。

持っていたものの所有とは、いったい、何なんだろう。

「有と言えば有とや人の迷うらん」

上の写真は、南虎室老漢の墓所から、世界を見た風景。

ほのぼの

2009/07/20 18:01
ほのぼの
ほのぼのとした小品だが、何とも言えない、やはり、ほのぼのしたものだ。
言葉に出して言えないものが、世の中には沢山あるが、無理にださなくてもいい。

言えば限定してしまう。だから、作品で表現するのか。

人の抱いているものも、同じ。

白連

2009/07/20 09:55
白蓮

昨年、手に入れた白連、今年は根の手入れをしなかったので、一株しか咲かない。

初めての白連だ……。

夢を見るのは誰ですか……

2009/07/18 19:09

ご主人を14年前になくして一人となった婦人は、大規模マンションに暮らす。子供はいなかった。

2年という年月が経っていた。久しぶりに会ったその婦人は、顔も影はなく、声も張りがあった。体調がよさそうだった。

4~5年前から体調が思わしくなく、肩凝り、つかれ、気の重さ、弱さ、悲観的なものの見方におおわれていた。

二年前、胸が苦しくなり救急車で病院に、そこで、動脈硬化と閉塞状態の血管の障碍が見つかった。半年かけて心臓につながる血管に管を通して、見違えるようになった。食事も美味しく、そこで、この際身体のすべてを検査してもらった。

見つかったのは、卵巣に良性のポリープだった。7月初めに切除した。

話している内に、韓流ドラマの話になった。私の妻も、韓国ドラマを見るうちに、いつしか、イ・ビョンホンのファンとなり、今では東方神起までレパートリーをふやしていると言いだしたら、その婦人も、「私もそうなのです」と。

ひとしきり韓流ドラマのことを話していると、マンションの隣の娘さんが韓国に行くので「おばさん、何かお土産を買ってくる?」というので、「イ・ビョンホンのグッズを買ってきて下さい」とと頼んだ。娘さんは、イ・ビョンホンの姿を写した眼鏡ケースを買ってきてくれたと、そのケースを見せてくれた。

同じマンションに、芸能プロダクションで仕事をしている人がいるらしい。その人から、カレンダーやポスターを頂くと言う。

私は、「そうですか、それはよかったですね」と笑う。

婦人は恥ずかしそうに、「年寄りから、楽しみを奪わないで下さい」といった。

今は楽しみが増して、生活の張りが増す。楽しみは、意外に近くにある。その楽しみを大事に、「お年寄りから、楽しみを奪わないで下さい」という言葉が出る。別に奪うつもりもない私にだが、多くの人に言っているように思えた。何度かだ。

ふと、このブログのタイトル、「夢を見るのは誰ですか?」が浮かぶ。夢を見なければ過ごせない生活、みんなそうだ。

星空

2009/07/11 21:48
M78
Latitude : 0.08Longitude : -93.3125

何が人を動かすのか

2009/07/10 10:28

 仏教は、「その都度の行為によって、自己・私がある」といいます。

 諸行無常の移ろいの一瞬一瞬に、そのつどの自己があることなのですが、人は、それを永続性のなかに、変わらぬ自分として観ています。

 現代舞踏のピナ・バウシュは、その行為を動かすものに魅入られ、「人がどう動くかではなく、何が人を動かすかに興味がある(7月8日朝日新聞朝刊)」と読みました。

 昨日、葬儀があったのですが、この葬儀全体について、「何が人を動かすのか?」と、考えました。

 遺影が、祭壇の前にいる私たちに微笑みかけ、何かやすらいで、癒される思いを感じたので、そのことを、葬儀社の女性社長に尋ねました。女性社長は、「シミをぬき、写真に化粧を施し、修正しました」と、聞かせてくれました。「祭壇の花はいかがでしょうか?」と、尋ねられました。

 懸命に花祭壇を造られているものの、出棺の前のお別れで、花々の多くはもぎられ、棺に入れられます。

 私は見ていました。

 女性社長は、花がもぎ取られた祭壇の緑を、見苦しくないように、指図するのを……。挨拶に立ったときの背景を考えていました。考えてみれば、当たり前のことですが、その当たり前のことが、普通はできないのです。

 「何が人を動かすの」かをです。この遺影で私たちを見つめる笑顔や祭壇を含め、葬儀に携わった多くの人の輪の行為は、旅立ちをする故人と、遺族への想い、そして別れそのものに、それぞれが動かされたものです。

 そして私も、「何が人を動かすのか」を、改めて、動かされた私を考えてみると、私とは関係そのものと気づき、故人にとっても、様々な生前の故人がいたことになります。

 今は、忍ばれるだけですが……。

何かを追い求め、あるいは何かから逃げたりしないためにも!

2009/07/05 10:15

釈尊はいいます。もしすべての現象が互いに含まれあっているのなら、あるものが別のものそのものであるのなら、どうしてあるものを避け、別のものを追う必要があるのでしょうか。

 生死の中に涅槃があり、涅槃のなかに生死がある。

 涅槃と生死は二つの別々の現実ではないのです。

涅槃を求めるために生死を拒絶しようとするならば、すべてのものの相互依存という性質、つまり空と無相をいまだ把握していないということです。

何かを追い求め、あるいは何かから逃げたりしないためにも!

回転行灯用筒

2009/07/04 14:08
お盆が近づいてくると、本堂の仏壇に、提灯を飾ることが、ここ十何年の習慣になっています。

暗い仏壇に青い光がくるくる回って、とてもきれいな風景です。

ところが、くるくる回る筒が穴があいて回らなくなってしまった。

仏具屋さんの営業に電話してみたら、即答で、無い。

それならと、ネットを使って探したら、二件の店で売っていた。

ほっとした。

回転行灯用筒というらしい。

今年のお盆は、仏壇にくるくる青い光や緑、赤い光が灯されます。

得は迷い、損は悟り

2009/07/03 09:43

得は迷い、損は悟り

 「得は迷い、損は悟り」といったのは沢木興道老師だ。

 通夜の法要にて、冒頭に語る言葉です。

 「人の死は失うことと得ることのシーソーです。夫や妻の死は今の半分を失い、親の死は過去を失い、子供の死は未来を失い、友の死は一部を失うといいます。失うことによって、夫や妻を知り、親を知り、子供や友を知り、自分を知ります。築いたものが大きければ、失うものも多く、得ることも多い。失ったものが大きいか、得たものが大きいか、死はさまざまに、残された私達の心を試します。

 誰もが出会うことの、しかし出会ってみなければ、この寂しさは誰にも解らないことです。

 寂しさ、あるいは悲しさとは、気づいている、気づいていないにかかわらず、自分を成り立たせている、大切な拠り所を、最早じぶん自身には手の届かないところに置くことの試みです。そして、その構造の中でなければ、私たちは生きてゆけない、私たちの生きている縁という世界を知る試みでもあります。」

 その時その時、なくしたものへの思いを巡らして、人との出会いや喜び、迷いや淋しさ悲しさ、そして別れに学ぶことが必要なことだと思うのです。何も語らずに、ただ静けさそのものとなった人を前にしてです。

 失って知る、それは知識ではなく、語ることのできない経験、それを、「得は迷い、損は悟り」と沢木老師は、言ったのかも知れません。

 達磨の二入四行論に、

 《世の人はつねに迷うて、処々に頓着(とんじゃく)するを、これを名づけて求(ぐ)となす。

 智者は真を悟り、理と俗と反し、心を無為に安じ、形は運に随って転じ、万有ここに空じて、願楽(がんぎょう)するところ無し。

 功徳と黒闇と、常に相い随逐(ずいちく)す、三界の久居(きゅうきょ)は、なお火宅の如く、身有れば皆苦なり、誰か安(やす)んずることを得ん。

 この所に了達す、故に諸有において想を息(や)めて求むる無し。経に云く、「求むること有れば皆な苦なり、求むること無くんば、則ち楽しと。あきらかに知んぬ、求むること無きは真に道行たることを。》

 皆が得ようとしている社会に、得られなければ不安があふれます。では得れば不安が解消されるかというと、それは一時的なものということ。

 その物語が、功徳と黒闇の物語。国訳一切経・大般涅槃経・聖行品に、釈尊が迦葉(かしょう)尊者に話す、功徳大天(くどくだいてん)と黒闇(こくあん)という名の二人姉妹の物語があります。少し長いが引用してみます。

 とある女性が、裕福なたたずまいの家の門前に立ちました。この女性は、見るからに育ちがよく、そして美しく、また、身を宝石でキラキラとかざっていました。

 その家の主人が尋(たず)ねました。

 「あなたの名はなんというのですか。そしてどこから来られたのですか?」

 女性は答えました。

 「わたくしは功徳大天ともうします。」

 主人が尋ねる。

 「あなたはここに来られて、何をなさるのですか。」

 功徳大天は答えました。

 「わたしの居るところには、金銀ほかあらゆる宝物、車や家来や使用人を与えることができます。」

 主人は聞きおわるや、喜びがこみ上げることはかりしれなかった。

 「わたしは何たる幸運ぞ、貴女をわが家に招待しよう」と、功徳大天をわが家に入れると、部屋中に香を焚(た)き、花で飾り、ご馳走をふるまい、敬って篤く礼拝したのでした。

 ところが、またひとりの女性が門前に立ちました。その姿は、みにくく、身にまとっているものはすり切れて汚れ、垢(あか)がしみ匂っていました。女性の肌は、シワだらけで裂け、色もつやがなく青白でした。

 主人が見つめて尋ねました。

 「あなたの名はなんというのですか。そしてどこから来られたのですか?」

 女性は答えました。

 「わたしは黒闇ともうします。」

 主人が尋ねました。

 「どうして黒闇という名前なのですか。」

 黒闇は答えました。

 「わたしの居るところ、その家のすべての財産を、消耗させることができます。」

 主人は聞き終わると、鋭い刃物を手持って言った。

 「もし去らなければ、汝の命をうばうぞ。

 黒闇は答えました。

 「あなたは愚かで知恵がない。」

 主人は言ました。

 「なんでわたしが愚かで知恵がないというのだ。」

 黒闇が答えます。

 「あなたの家の中にいるの者は、わたしの姉です。わたしはいつも姉と共にあり、もしわたしを追い払えば、あなたは姉も追い出すことになるのです。」

 主人は家の中にとって返すや、「外に女性が訪ねてきて、あなたの妹というが、本当なのか」と問いました。

 功徳大天は答えました。

 「それは、わたしの妹です。つねに一緒に暮らして、いまだかって私たちは離れたことがありません。私たちの居るところ、わたしは常に善いことをなし、妹は悪をおよぼします。わたしは人を活かし、妹は人を衰えさせます。もしあなたがわたしを愛そうとするなら、妹も愛さなければならないのです。」

 主人はどうしても受け入れることができませんでした。

 「もしあなたが言うとおりならば、わたしにかまうな、二人ともどこかに行ってくれ。」

 すると、ふたりそろって帰りました。その姿を見て、主人は大いに喜んだのです。

 功徳大天と黒闇は、次に貧しそうな家の前にたたずみました。

 その家のあるじは、ふたりの女性が訪ねてきたことを喜び、家に迎え入れ言いました。 「今日よりは、ふたりともわが家で暮らして下さい。」

 功徳大天は、あるじに尋ねました。

 「私たちは、さきほど二人共に追い払われたばかりです。あなたはどうして、私たち二人を迎えてくれるのですか?」 

 あるじは答えました。

 「あなたは、今、わたしをいぶかしく思ったことでしょう。わたしは、あなただけを迎え入れ、妹と分けることはできません。二人してわたしの家に住むことを勧めます」と。

 ところで、釈尊は、この話のあと、迦葉尊者に「天に生ずることを願わず、生はまさに老病死のなかにあることゆえに、ともに棄てればとらわれる心なし。凡夫・愚人は、老病死等の過患(かげん)を知らない。このゆえに生死にとらわれる」と。

 姉・妹ともにあることを、生と死にたとえて言います。損得、善悪、勝負、上下、左右、生死という、相反して相対するものの一つだけを取って受け入れることなど、もともと無理なことです。

 禅宗の三祖鑑智(かんち)禅師の『信心銘』に 、「至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」の言葉があり、「道は、ただ自分のえり好みの心に気づくことさ」と、良寛和尚は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」と……。

深川東京モダン館

2009/07/01 11:32
深川東京モダン館なるものが、門前仲町に、平成21年10月にオープンするという。アンケートの協力をいただいた。パソコンで、http://qqa.jp/AYDAに行き、アンケートの質問が出てくるのだが、書き込みしようとして、ためらった。なぜなら、門前仲町界隈の街の変化はすさまじい。跡継ぎのでない店や、職人さんたちの家々の多さにだ。時代といえばそれまでだが、それが、ここ深川の特色のように思えてしまった。木場の変遷も、河のかわりようもそうだ。昔遊んだ今の木場の面影はない。そして、新木場に移ったものの、今では、材木屋さんをつづけている店は、少なく、今も、減り続けている。確かに老舗の店は数は少なくなったがある。問題は、老舗として新しく新陳代謝が少ないことか。大手チェーン店ばかりが、日銭を稼ぐ商売をしている。商(あきな)いの心がない。深川の河も、破壊され、使われない無残な姿となっている。河に沿って展開していた、河岸は、ほとんど、売り尽くされてしまい、河の上には高速道が走る。河は埋め立てられ、その場所は、天下り役人の占める特殊集団が管理所有する。河が持っている土地は、橋の付け替えようの少しの場所だけだ。街が変化してゆくのは当たり前のことだが、下町らしさが、なくなって行くように思えるのだ。アンケートに書き込みをしようと思っていたが、引き返して、このブログを書いている。
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