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錐翁慧勤4

2009/09/09 21:19
禅文化研究所出版の続禅林僧宝伝巻の上に、仏頂可南禅師がある。この仏頂禅師は陽岳寺二世錐翁慧勤禅師の法嗣である。
錐翁慧勤の人柄を知ろうと、仏頂を訪ねてみる。
《師、諱は可南、字は仏頂、霊蟹窟(れいかいくつ)と号す。常陸州鹿島郡札邑の人。姓は藤、氏は藤崎。寛永19年(1642)2月18日に於いて誕(う)まる。時に白光、室を射る。面貌豊満、眉目清秀。額に円珠有って、耳輪、肩に垂れる。人、以って異相となす。(仏頂は、根本寺歴代21世、法系5世。前堂転位における本師は、根本寺の冷山宗仙)

隣並に明蔵寺有り。師の父、常に院主よ善からず。
師七歳、戯れに籬(かき)をうがって果を盗む。院主、たまたまこれを見て、和願温言、来たって師の頭をなず。師、意(こころ)に謂(おも)えらく、「この人、家君と善からず。且つ我れ穿窬(せんゆ)をなす者なり。而してこの人、襟度(きんど)、かくのかくの如し。何ぞこれ仏の道の大にして、この人の量の寛なるや。我れまさにこの道を学んで、この人の如くならんとす」と。ここに於いて頓(とみ)に出塵の志をおこし、ただちに根本寺(茨城県鹿嶋市宮中)にいたり、冷山(冷山宗仙)に見えて度を求む。母氏愛惜し、しばしば寺にいって師を拉(ろう)して帰る。師、また去って寺に到る。かくの如くすること数次。

明年、師、8歳。誓って家に還らず。ついに冷山を礼して剃髪して沙弥となる。山、授くるに句読をもってす。師、すでに吾が宗に直指単伝の旨あるを聞き、記誦(きしょう)を屑(いさぎよ)とせず。山、呵責す。師、肯(うべな)わず、毎(つね)に曰く、「それがし、名聞の徒となって、富貴に阿附(あふ)せざるなり」と。自ら趙州の無字を書し、平居、これに対し、ごつごつとして参究す。
一日、忽然として、山河大地、一箇の無となることを覚知す。もって山にとう。山曰く、「猶お字観の在る有り。すべからく打成一片し去るべし」と。
たまたま一老宿有り、来たり宿す。師、入室して解を呈す。宿、肯わず。師、固執して退かず。宿、呵咄(かとつ)し、灯檠(とうけい)を趯倒(てきとう)して、師の頭上に投ず。師、この事の容易ならざるを知る。後数日、人の『心王銘』を誦するを聞き、「心性空なりといえども、貪瞋(とんじん)体実なり」に到って、従前の疑団、一時に凍釈(ひょうしゃく)す。これよりしばしば妙悟あり。しかれども未だ宗師の験証を経ず。

歳5,出でて行脚し、海を渡って石尤風(せきゆうふう)に遇い、船、まさに覆没(ふくぼつ)せんとず。師、魂銷(しょう)し神喪(しんそう)し、従前の所得底、一も用うるところ無し。深く自ら慚悚(ざんしょう)す。船の岸に着くにおよんで、洞家の一寺に宿す。寺主、夜、経を講じて曰く、「吾が家に鈯斧(とっぷ)の大事有り。たとえば大樹を斫(き)るが如し。一斫(いっしゃく)すれば則ち一斫休し、二斫すれば則ち二斫休す。乃至百斫千斫もまた皆しかり。最後の一斫、ついに打倒了に到る」と。師、聞き得て歓喜す。

これより武(武蔵)に入り、錐翁(錐翁慧勤)に陽岳に見ゆ。翁、師の法器なるを見て、命じて諸方に歴参せしむ。師、江湖に徧遊(へんゆう)す。到るところの老宿、師をいかんともする者無し。
まさに奥(陸奥)の雲居(雲居希膺)に謁(まみ)えんとす。到ればすなわち既に寂せり。たまたま家書、母氏の病を報ず。師、跳駆(ちょうく)して帰省す。母氏、恩愛深厚にして、師の手を把(と)って放たず。師、怒喝(どかつ)して曰く、「母氏、初め我が出家より、もって瞻撥(せんぱつ)に至るまで、我が修道の障害をなすこと甚大なり。我れ常に憶(おも)う、まさに母氏を齕齧掴裂(こつげつかくれつ)し去らんと。今や寿をもって終う。これ幸いなるのみ」と。口角、燄(えん)を噴くく。母氏、恐悚(きょうしょう)して、わずかに手を放つ。家人、もって狂となし、師を別廠(べつしょう)に寘(お)く。母氏の歿するに及んで、師、手づから自ら沐浴殯斂(ひんれん)して喪を治む。時の人、師を目(もく)して、断際(黄檗希運)の再生となすと云う。
師、すなわち錐翁の輪下にかえり、傾竭(けいけつ)参承(さんしょう)して、遂に翁の印可を受け、根本に嗣住(しじゅう)す。時に寺宇荒頽。師、刻意経営し、もって旧観に復す。

貞享元年(1684)正月、阿玉の大儀寺を興造して、その開山となる。檀越稲葉侯正往(まさゆき)観世音の霊像を寄進して、もって本尊となす。師、また総(上総)の水月寺を創(はじ)む。

元禄中(1688~1704)、根本の荘園数百畝、久しく鹿島祠人の侵掠するところとなる。師、これを慨(なげ)き、帖を枢府に掲げて対理すること9年。遂に審豁(しんかつ)して利を獲たり。師の希願、既になる。ここに於いて、頌を嗣子頑極(頑極霊鉄)に付して法を伝え、飄然として去り、また寺に帰らず。

臨川寺(東京都江東区清澄)を深川に営んで居る。たまたま府中地震す。徒衆、皆な避遁(ひとん)す。時に師、風痺(ふうひ)を患い、四肢不仁にして、ひとり丈室に臥して、展転反側、自らもって快となす。震、既にして熄(や)み、徒皆な帰り、室に詣(いた)って珍重す。師曰く、「老僧の病、常に導引を要す。今日の震、天、老僧がために大導引を施すなり」と。

野(下野=那須)の雲巌寺の徹通(徹通祖底)、師をその安禅堂に邀請(ようしょう)して、弟子の礼を執(と)る。
幾ばくも無く、病を示すこと三旬あまり。一日、筆をとり、遺誡(ゆいかい)して曰く、「大衆、大衆。山僧、即今、落命す。大信根ある者は、直に筆下に看よ。向後、若し信心修行の人あって、火難を避けんと欲せば、我れ来たってその難を救わん。水災を遁れんと欲せば、我れ来たってその災いを救わん。若しまた不信心の徒に於いては、火裏に擲下(てきげ)し、水中に投向し去らん」と。筆を擲(なげう)って手を拱(こまね)き、高臥して逝く。
享保元年(1716)12月念八(28)日なり。保寿75,坐夏68。雲巌の西北隅にほうむり、塔を哮吼(こうく)と号す。江府の臨川もまた塔を建つ。

師、門庭?嶮(こうしゅん)、専ら向上の巴鼻(はび)を拈じて学者を接す。槌下(ついか)に多くの英霊の漢を打出す。俳匠芭蕉翁桃青も、また久しく師に参じて、その心印を佩(お)ぶ。
相伝う。師、容儀俊爽。その蚤時(そうじ)、都鄙(とひ)の女児の眷恋(けんれん)する者、鮮(すく)なからず。師の面(おもて)、ことさらに怒気を含む。世俗に仏頂面というは、師に始まるという。
建長寺の万拙(万拙碩誼:建長寺201世明和6年10月7日示寂)、師の像に題して曰く、「人間(じんかん)の慧炬(えこ)、額上の円珠。古仏の師、咳唾棹臂(がいだとうひ)、塵界を衝動し、法身の主、遊戯神通(ゆげじんづう)、毘廬を坐断す。無涓滴(むけんてき)の地、臨川の毒浪を激し、没蹤跡の処、雲巌の精廬を化す。阿呵呵。将に謂えり胡鬚赤と、更に赤鬚胡有り」。
また自讃に曰く、「乾坤を蹈破(とうは)して、日月脚痕。仏祖来たるや、吾が門に容れず。天堂地獄、到る処、尊と称す。咄。一睡一餐」。》
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錐翁慧勤3

2009/09/07 13:35

陽岳寺の歴代住職は下記のとおりとなっている。
江巖祖吸 開山(宝永2(1705)年閏4月8日没 [日暮里の南泉寺より、拝請])
文室祖郁 創建(正徳3(1713)年10月19日没、三浦三崎の見桃寺和尚にて、妙心寺はの僧籍を持っていなかったが、忠勝が信仰していた。)
錐翁慧勤 二世(貞享4(1687)年2月20日没)
大室祖昌 中興三世(元禄16(1703)年11月15日没)
華山要印 四世(享保9(1724)年11月2日没)
方充祖丈 五世(元文2(1737)年6月7日没)
乾梁祖廉 六世(宝暦2(1752)年2月18日没)
屠龍宗牙 七世(安永(1772)元年5月13日没)
照道惠靜 八世(寛政4(1792)年9月15日没)
雪傳文可 九世(文化9(1812)年11月23日没)
莔田惠蒭 十世(明治23(1890)年10月22日没)
圓瑞宗玖 十一世(明治4(1871)年4月4日没)
雪川惟整 十二世(明治20(1887)年3月8日没)
臥龍庵戒州恵錠禅者(明治44(1912)年11月26日没、代務)
清川惠廉 中興十三世(昭和29(1954)年2月7日没)
元峰鍈一 十四世(昭和58(1983)年10月16日没)
雅山宗直 十五世(昭和61(1986)年8月13日没)
聰川眞幸 十六世
素山真人 十七世の予定
さて、開山和尚の過去に連なる法脈というものがある。その脈をさかのぼってゆけばブッダ釈尊にたどりつき、更にさかのぼることができる。
これを逓代伝法(ていだいでんぽう)という。陽岳寺を陽岳寺にならしめる証しであり、この歴史によって、陽岳寺は存在する。
因みに、江巌祖吸をさかのぼってみれば、隠嶺梵阿―西江宗蘂―大愚宗築―智門光祚―状元祖光―快川紹喜―仁岫宗寿―独秀乾才―悟渓宗頓―雪江宗深―義天玄承―日峰宗舜―無因宗因―授翁宗弼―関山慧玄―宗峰妙超―南浦紹明で、この先は中国になる。
虚堂智愚―運庵普巌―松原崇岳―蜜庵咸傑―応庵曇華―虎丘紹隆―円悟克勤―五祖法演―白雲守端―楊岐方會―石霜楚円―汾陽善昭―首山省念―風穴延沼―南院慧顒―興化存奨―臨済義玄―黄檗希運―百丈懐海―馬祖道一―南嶽懐譲―慧能大鑑―弘忍大満―道信大医―僧璨鑑智―慧可大祖―菩提達磨で、この先はインドになる。
般若多羅尊者―不如蜜多尊者―婆舎斯多尊者―師子尊者―鶴勒那尊者―摩挐羅尊者―婆修盤頭尊者―闇夜多尊者―鳩摩羅多尊者―伽耶舎多尊者―羅睺羅多尊者―迦那提婆尊者―竜樹尊者―迦毘摩羅尊者―馬鳴尊者―富那夜奢尊者―脇尊者―伏駄蜜多尊者―仏陀難提尊者―婆須蜜尊者―弥遮迦尊者―提多迦尊者―優波毬多尊者―商那和修尊者―阿難尊者―摩訶迦葉尊者―釈迦牟尼仏となります。、この先は過去六仏となります。
迦葉仏―拘那含牟尼仏―拘留孫仏―毘舎浮仏―尸棄仏―毘波尸仏
岐阜の崇福寺(織田信長のお霊屋があり、快川国師の住山した寺)さん出版の『快山国師の生涯』にこんな記事があった。
妙心寺派の独秀門派系図では、岐阜南泉寺の歴代は、独秀乾才(汾陽寺・崇福寺)―仁岫宗寿(天文15年頃~天文20年6月で崇福寺の住持でもある)―快山紹喜(天文20年6月~天文24年2月で、崇福寺・恵林寺[甲斐]の住持でもある)―状元祖光(天承年頃~慶長10年11月3日寂で、文禄3年に大愚を得度とある)―智門光祚(慶長10年~寛永1年隠居)―大愚宗築(寛永1年~?で、元和2年9月6日妙心寺に転位、寛文9年7月16日大安寺で寂)―西江宗蘂(江戸陽岳寺開創とある。
崇福寺の『快山国師の生涯』より状元祖光を抜粋してみる。
《『祠戸村史』(岐阜県関市祠戸町)では、美濃国武儀郡祠戸村の武藤氏出身としている。若くして近くにある南泉寺の快川に入門したのであろう。快川の南泉寺住山は天文15年~24年である。その後は、快川の二度にわたる恵林寺住山に従ってその膝下にあり、元亀4年(1573)秋に、この祖光首座に大して快川は「状元}と道号を付与した。
その後、法嗣として認められた時期は定かではないが、すぐ下の法弟・一鶚宗純(いちがくそうじゅん)が快川の自賛頂相をもらったのが天正6年なので、おそらくは天正5~6年頃にひとりだちを認められたと思われる。天正7年と推定される3月13日付けの大慈寺あての南化書状には、「状元翁は去歳上国せり」とあり、状元が天正6年に甲州から美濃に至ったことを推定させる。
南泉寺は快川の後席を守敦(しゅとん)首座が守っており、この人に快川は天正8年に「鶴院」との道号を与えてその苦労をねぎらっている。鶴院はこの頃、山県市大桑の円福院に引退したので、代わってこの状元が恵林寺から南泉寺へ入寺したものと思われる。快川は火定の時には、状元は南泉寺に居たことになる。天正16年4月2日の快川7回忌は、南化、淳巌、普天、天叔と共に、状元も和韻している。
文禄3年には、美濃国武儀郡の乾徳寺にいた状元のもとへ十一歳の大愚宗築が入門したという。『大愚和尚行実』に、大愚は武儀郡佐野荘の武藤家に生まれたとある。
『美山町史』によれば、大愚は山県市佐野の高瀬文右衛門の子で、状元の甥に当たるという。
慶長2年酉8月彼岸日には、状元が月湖恵鏡信女の予修語を残しており、これに「南泉野釈状元叟」と署名している。
慶長7年小春吉辰に智門が南泉寺の状元和尚の頂相に賛を求めたので、状元の法兄南化玄興が賛を書いている。この頃状元は病床にあって筆が執れなかったかもしれない。
状元が示寂したのを聞いた法兄の淳巌と南化が悼偈を上呈した。淳巌の悼偈に、南化と一宙とが和韻したことが『禅林雑記』に見える。ただ南化は前年の慶長9年に亡くなっているので、状元示寂は慶長10年でなく慶長7年か。蔭涼が南泉寺へ弔慰に参じた時、智門座元が礼謝に越されて、その時即刻に作偈したとある。(蔭涼和尚語録)
なお、慶長20年10月5日に、大愚は状元の法嗣智門にから大愚という道号を付与され、元和7年7月3日には印可状を与えられている》
陽岳寺の法系からいけば、快川から状元へ、智門から大愚下に連なる法系であるが、日暮里南泉寺を経由して大愚派下ということになっている。しかしながら、錐翁慧勤は、師匠はあきらかに愚堂であり、それに、示寂した日が、貞享四年(1687)2月10日であることだ。
江巖祖吸 開山(宝永2(1705)年閏4月8日と 文室祖郁 創建(正徳3(1713)年10月19日の二人の没年より過去に、錐翁慧勤は亡くなっている。何故だろう。また遠く離れた、岐阜の南泉寺の歴史に、陽岳寺が登場することも不思議な話なのだ。
本山の大愚法系に、陽岳寺の創建文室和尚と錐翁慧勤二世は入っていない。

錐翁慧勤2

2009/09/06 13:36
さて近世禅林僧宝伝(禅文化研究所)上巻の259ページに錐翁の記事がある。
《武蔵州陽嶽寺錐翁禅師伝(?~1687愚堂東寔法嗣)
[錐翁慧勤2]の続きを読む

錐翁慧勤1

2009/09/04 18:55

平成21年7月28日の午前10時、本山の塔頭・慧照院と禅文化の西村さんが陽岳寺に訪ねてきた。
内容は、陽岳寺の錐翁は、愚堂東寔の三首座の中に名前が連ねられているという。
愚堂派下の三首座は、錐翁慧勤(東京・陽岳寺)、至道無難(東京・東北寺)、梅天無明(伊勢南勢・慈眼寺、箕面・正法寺、大津・慈福寺)と知らされた。
愚堂派下の十五哲には、一絲文守(滋賀・永源寺、亀岡・法常寺)、旭窓景曄(京都・聖沢院)、崇山禅清(伊勢・片山寺、東京・正燈寺)、雷峰如黙(山科・華山寺)等々11名の僧侶の名が記されていた。名前が記された寺院は、みな大きなお寺であり、陽岳寺がもっとも貧しい寺だ。そんな人がどうして陽岳寺の二世に名を連ねているのか?不思議だ。

伊藤古鑑老師の著述『日本禅の正燈』に、陽岳寺の錐翁慧勤のことが書かれている。
《錐翁慧勤は元和四年(1618)愚堂四十二歳のときに来参した。愚堂の血気盛んなときの説得を受けたこととて、この錐翁はすこぶる峻厳で、その名は天下に聞こえ、四方の学徒も慕い来たったということである。江戸の陽岳寺に住し、晩年には至道無難が江戸至道庵に住して教化を開いたので、ますますその教化を競うて、蘭菊その美をなしたともいわれている。
 錐翁の会下には、応現という一人の女性が居た。つねに錐翁の左右を離れず随侍していたので、人みな怪しんで、その女人を遠ざけようとした。またある時、血気盛んな雲衲が直接に、その女人に向かって強硬に談判していうには、
「汝があるため、わが道場も日増しに評判が悪い。よろしく反省して、わが老漢の汚名を出すべからず」といさめた。
すると、その女人は、その雲衲をにらみつけて、その道場から立ち去って行ったので、雲衲は、その跡を追うて見ると、その女人は、ある大河のほとりにたどりつき、髪を乱して、鬼女の姿をあらわし、そのまま水中のに身を投げて死んだというのである。
そして、その後、錐翁の法筵(ほうえん)には、必ず竜女となってあらわれ、錐翁のかたわらに侍坐したと、東嶺の『達磨多羅禅経通考疏』第四に伝えているが、これは、あまりにも不思議な伝説であって、これをそのまま信ずることはできないにしても、とにかく、錐翁は、よく女人の入室を許し、女人と対坐して説法したことは事実である。

女人の入室を許し、女人一人と対坐することは、よほどの大善知識でも、つつしんだものである。それは、世間のつまらぬ噂の種を蒔くからである。
然るに、この錐翁のみは平気で女人の入室を許し、対坐して説法したので、世間の人からは、ひそかに錐翁を誹謗するものもあり、また、これを師の愚堂に訴えたともいわれ、愚堂も「これをつつしめ」と注意し、錐翁はこれに対して、ただ「他日謝すべき日もあらん」というて、さらに反省の色を見せなかったともいわれている。

この錐翁の法嗣(ほっす)には仏頂河南(ぶっちょうかなん)がある。始めは常州根本寺に住し、同寺五十一世として、その再興に力を謁した人である。のちに那須の山奥に小庵結んで、そこに退隠したのである。また、この仏頂の弟子に有名なる俳聖・松尾芭蕉が出て、つねに師資の礼をとって、禅を修得したといわれている。》
江戸深川(清澄町・臨川寺)の小庵に住す仏頂に、芭蕉が通ったという。

愚堂東寔(ぐどうとうしょく)のことを少しでも記す本は、私のところでは一冊のみ。大円宝鏡国師語録と年譜で、木村俊彦師の著述だ。
そこに錐翁という名のことが記されていた。
「寸鉄、鋳成す、炉鞴(ろばい。鞴はフイゴのこと。)の処。工夫は豈、鑿頭(さくとう。鑿はノミ。)の方に在るや。然も鉗鎚(かんつい)[の力をいまだ費や]さずといえども、千万人ちゅう独り橐(ふくろ)を脱す。」とあった。
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