花のうちに、枯れぬうちに……

2010/05/25 09:17
 今年のお施餓鬼会の翌日、お墓には墓参した方々のお墓に、色とりどりの花が献花されていました。その花の合間をぬって、掃除をしているときにふと浮かんだことがありました。それは、この捧げた花々はどのくらい持つかな?、いつ、この花々を処分しようかと思ったことでした。
 円覚寺専門道場に世話になっている息子が、送ってくれた円覚という施本(昨年のうら盆号)に、管長さまである足立大進老師が寄稿されたものだ。

《 知人が送ってくださった冊子にこんな話が紹介されていた。
 ある幼稚園の前を通りかかった時、片すみにあるゴミ捨て場に、枯れかかった花を持った園児が走ってきた。
 なにげなく見ていると、その女の子は大きな声で「お花さんありがとう」と言って、花を捨てた。
 その様子に、ハッと胸を打たれた私は、園児を呼びとめて尋ねてみた。「いつもそう言って、お花を捨てるの」するとその子は大きく首をコックリすると、こう言った。
 「そうよ、お母さんはいつもそうしてるのよ。だって、お花はきれいに咲いて、みんなを嬉しくさせてくれるんだもの。だからお礼を言って捨てるの」
 こんなお母さんに育てられたお子さんはきっと豊かな心の持ち主となりましょう。 》
 花のうちに、枯れぬうちに……
 道元禅師だったら、花も法位、枯れるも法位と言うだろう。
 先祖に捧げた花は、数日で、枯れてお墓をよごす。よごされたものは片づけねばならない。墓参に訪れた人の気持ちは、一心に、埋葬された方々への思いが、花となったものだ。 新しく帰山(きさん=修行が終わってお寺に帰ってくること)した新命和尚も、いずれ、この片付けを喜んでしてくれると思う。
 寺の和尚は、若かろうが、年を取っていようと、また、墓守でもあるから……。
 でも自ら呼ぶ前に、こうした呼び方をすることに、父親としては、控えることだ。

携帯の功罪

2010/05/04 09:55
携帯電話を持つようになったのは、外出したときに、お寺から緊急な連絡を届かせるためだ。
思いだして見ると、子ども達に携帯を持たせたとき、その頃は、子供に事件が多発していたことを思い出す。
それ以来、子ども達は携帯とともに人生を歩んでいる。
ひるがえって、私は、今でも、お寺から緊急な電話を受けるために持ち続けているだけだ。
その緊急な電話は、一年に、何回もない。たった数回の緊急の電話が届かなかったために、私は今も、持ち続けているのだ。
しかも、携帯電話の月料金を千円台に維持するためにも、なるべく、使用を控えていることもある。
便利であることに違いはないが、いつもポケットに忍ばせておかなければならないこと、たまに電池が切れることがあること、ここに不便はある。
必要なとき以外は持たなければよいのだが、こんな、携帯の使い方もあるのだ。
もっと積極的?な使い方もあるはないかと、そんなことを考えもしない。
携帯を持っていなくとも、何の便も不便もない。
携帯に生活を縛られるわけではないけれど……。ピンポンとチャイムが鳴る。
裏木戸を開ければ、日傘をした年配のご夫人が二人。
一人が、「私たちはクリスチャンなのですけれど、ボランティア活動をしております」という。
妙に落ち着いたそぶりに、内心、あーあー「エホバの王国でしょう。もろみの塔の方でしょう」と尋ねる。
一人が、「そうです」
「結構ですから」という。
優雅にして「そうですか」と、彼女たちが去っていった。彼女たちは連休だからこそなのか、王国造りに励んでいるのだ。
私のつかの間の王国は色褪せる。アーアー。
でもこうしている時間にも、その携帯に、仕事の連絡を待つことで、成り立っている人もいるのだ。
その携帯がなければ、禁断症状を解決できない人もいるのだ。
その携帯により、命が救われる人もいるのだ。
また、携帯がつながらなかったことにより、離婚を決意した人もいるのだ。
明日ではなく、今を生きる人たちが……。
考えてみれば、携帯って何なのだと、やはり、一人一人が、自分に問わなければならないでしょう。
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