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体露金風(たいろきんぷう)

2010/10/31 14:09
昨夜は、無縁社会を生きるという番組を見続けた。
各地から、地縁、血縁、社会縁から置き去りにされた叫びが、メール・FAX・伝言で発信された。
そして、現在全国の単身世帯の数が、全国の夫婦子供世帯の数を追い抜き、さらに上昇を続けようとしている。

「死にたい!寂しい。苦しい。孤独だ。一ヶ月人と話していない……」という声は広がり、それは、のろい、怨念、あきらめ、挫折だ。
ここまで、叫びとなったことに怖さを感じるのだ。

「自分の人生にどんな意味があるのか」の問いに、問いと答えの意味を喪失してしまった時代のような、すさまじさが共存している社会だ。

禅門において、こんな公案がある。
僧、雲門に問う、樹(き)凋(しぼ)み、葉落つる時、如何(いかん)?
雲門云く、体露金風。

歳を重ねて今、如何と?
仕事を辞め、体が思うようにいかなくなり、あるいは、この先の自分の体の衰えが見えてきて、独りとなって如何と?
昨日はとても調子がよかったが、今日はとても辛く厳しいとき、如何?
それでも、雲門云く、体露金風。

800年以上前の話が、今、現実に、生き返っているような。金風颯々と、今を生きているかと問うている。
体露金風、不思議なことは、そんな時に、人生の意味が開けてくる。
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無所有

2010/10/30 10:07
信州に白樺高原という高地があるそうだ。
私はその場所に行ったことがないけれども、今朝のNHKのテレビで、美しい映像を流していた。
多くの鳥たちの、渡り鳥の行き交う場所としてあるという。
高い山脈に阻まれずに日本列島を南北に行き交うことができる、鳥たちの街道だ。
上昇気流が強く、大きな鳥たちにとっては、羽を休ませて、一気に、南に、北に向かわせる、それは、地点なのかな……。

そんな鳥たちの映像を見ながら、なんと、無所有な鳥たちゆえに、羽ばたく姿が、実に自由で美しいと想う。
だが、その鳥たちは、過酷な自然に生きるか死ぬかをかけて生きる姿でもある。それゆえにさらに美しい。
小さな鳥たちも、低い低木の枝に身を休めたかと思うと、群舞として黒い影のように踊る姿となって去って行く。

そんな鳥たちの姿を鑑賞しながら、ふとわが身を想う。
地べたに張り付いて、無縁社会といいながらも、周囲と関係しなくては生きて行くことの出来ない人間の……。
地べたに這いつくばり、大空に昇ることのできない宿命を持つかの我々の姿は、鳥たちにとって、どう映るのだろうか?

持つことから転向できない意識を、生ぬるい生き方と見るだろうか?
みずからお前たちも俺たちと同じように飛んでみろとあざ笑うか?

網代笠にしゅ杖、そして草鞋すら捨てて、大空を歩めと言うのか?

お前らも、我々人間と同じように生きてみるか?と、問いかけてみる。
鳥たちは、その問い自身が、鳥であることを否定することを知っている。だから大空を舞うのだ。
「行方も知らぬ我が思いかな」

人間と一緒に暮らすカラスが、一斉に非難して騒いだ。

今日の”てっぱん”

2010/10/28 13:52
問いのなかに答えがある。

あかりが祖母に尋ねる。父親の存在を……
祖母は、それを知ってどうすると、問いを投げ返す。
あかりは、確かめたいものがある。それは「望まれて生まれてきたのか?自分が生まれてきた意味は何なのかと」
祖母は言う。「この世に生まれてきた意味なんて、人に聞くもんやない」と。

以前、新聞で知った言葉を覚えている。大屋映子さんの記事にあった言葉だ。

《この自然界の人間だけが、なぜに、じぶんは面々とつづくこの連鎖のもとに望まれて産まれてきたのか。
誰がこのじぶんが産まれることを撰ばしめたのか。
このわたしが全てを望んで産まれてきたのか。》

これは試みなのだと。意味を見いだし、答えをだすことをです。
問いがなければ、答えはない。

オモニ

2010/10/23 11:11
NHKのasaitiテレビを見ていて、姜尚中が語っていた言葉だ。
姜尚中の父母への述懐は深い温情に溢れていた。
彼が著した、『オモニ』という本は、そんな父や母を、「無名に生きていたという印として書いたのです。」と。

字もろくろく書けなかったし、貧しさの中から子ども達を育ち上げて、今の自分があることを思う。
しかし、その父母も亡くなってみれば、幾度も幾度も繰り返し、酬いることはできない。

熊本の故郷にいる、小中学校の同級生たちは、本名である「鉄おちゃん」と、呼んでいた。
その「鉄おちゃん」という名前は、幼かった頃の故郷での名前だ。「鉄お」という名は、「今の自分を、飾らずに現す言葉として、過去への郷愁を持つ」とも言っていた。
そこに今の飾らぬ姜尚中が見える。自分自身が年齢を加えて見えてきたもの、ひと言で言えば、哀愁のようなオモニという言葉だ。
そのオモニという本は、姜尚中が時間と空間の中に建てた、お墓でもあるのだと思えた。
今の鉄おちゃんが在ることは、無名に生きた者の証しでもあると。
ここに人の心が見えてくる。

人は死ねばお墓に埋葬されるが、それは、ごく普通のことであると思っている。ところが、生前生きる人にとって、海や宇宙、山などに散骨してくれと言う人がいる。
自分からあえて、無名性を選択肢する人もいるし、死んだ後にも感情が在るとでも思っているのか、海や宇宙、山に独りいたいと。
生きていたら、海や宇宙、山に自分があることなど思っていても、独り生きて行くことなど出来はしないことを承知でだ。

自分と自分以外の人の思いは違うものだ。

人間は、人間の意志を尊重する。しかし親しかった者の意志を尊重することで、残された者の意志を封じなければならないことが起きるものだ。
「あれで良かったのか?」、「時代が変わって、あの時の父母の思いは、本当の自分の考えだったのか?」と。
意思を尊重しなければならないことは、変化する時代により迷うものです。

お墓に葬られるということは、生きていた証しでもあるのですが、そのほかにも、いくつもお墓を建ててもいいのだと……、そんなことを考えさせてくれたテレビでした。

最後に所有するものは誰か?

2010/10/11 10:22

人類だけではなく、テリトリーを持たなければならない生きていけない種族は、宿命的に、土地の所有権をめぐって争う。
チリカワ・アパッチの残された言葉だ。

しかし、最後に人を所有するのは土地なのだ。

人は、どうして土地を所有するなんてことが言えるのか。

いつかは誰もが、その下に埋められるのではないのか?

さらに、ドゥワミッシュ族の考え・伝シアトル族長からのメッセージだ。

おまえたちの子に教えよ、

足もとの大地は我らの祖先たちの灰であると。

土地を敬う者になるよう、おまえたちの子に告げよ、

この大地は我らの仲間の命であふれていると。

我らが子に教えたように、おまえたちも子に教えよ、

この大地は我らの母であると。

この大地に降りかかることはことごとく、大地の息子たちにも降りかかる。

地に唾(つば)する者は、已に唾するも同じこと。

 

我らは知っている。

大地が人間に属するのではなく、人間が大地に属するのだと。

我らは知っている。

すべてのものが、家族をひとつに結びつける血のようにつながっていると。

 

すべてのものは、つながっている。

この大地に降りかかることはことごとく、大地の息子たちにも降りかかる。

人生のクモの巣を織るのは人ではなく、人がその中に織りこまれるだけのこと。

そのクモの巣に行うことはことごとく、自分に向かって行うこと。

今、何を思っているの?考えているの?

2010/10/07 17:49
夫が「お墓のことはともかく、○○さんに葬儀だけは頼んでおけ」というのですと言われたのが3日前の9月20日のことだった。
その時、こんな人もいましたと彼女に告げた。
「とあるお檀家さんの法事があったとき、お檀家さんの親戚であり、よく知るSさんの奥さんが、「生前葬をしたけれども、今度は本当の葬儀をするために、準備をしたいから話ししたいと、主人が申しておりました。と、こういう人もいるんです」と伝えた。
生前葬をしたとき、自分の死のときはどうしたらよいでしょうかと聞かれました。「身内だけでお別れをしたらいいんじゃない」と、何やら無責任に答えた。
しかし、それから10数年がたったか、そろそろ考えたほうがよいと思ったのか。
しかし、その婦人も、とても明るく言うし、そう言えば、S氏も明るく言う。
まるでイベントを考えているような。そこに死がないのだ。
まさか、死が間近にせまっているとは思えないものの、自分が死を考えることは、客観的に世界を見ることができるし、今が生きやすくなる。
それに、最後が決まれば、今、一生懸命に生きることしかないことが分かるようです」と言った。

3日後の9月23日、彼女にあった。葬儀への答えは曖昧にしながら、「どうしました」と。

「2日前に、入院致しました。昨日夜7時、医師から説明を受けました。私も夫も、涙をいっぱいためて話を聞いたのです」。
「この週末が山です。この週末を乗り越えれば、大丈夫かもしれません」と言われたのですが、医師は悲観的でしたと。

 彼女全体に、黒い影が寄り添うようだった。普段は、思ったこともないことが、現実に起こると、それは影のようにつきまとう。
それはそうだ。彼女が言うには、「私たち2人、まだ老後として一緒に旅行にも行ったことがなく、やっと息子たちも独立したものの、未だに、孫の世話に忙しい。そこに突然、夫のガンが……」と。
 「この数年、科学療法で髪が抜けたり、抵抗力がなくなって、風邪をひかしてはいけないと、外出も控えてきた。」夫婦だった。

でも、その黒い影は意識を変えることで変わる。現実に起こっていることは、私の心に起こっていることだから。

リンパにガンが転移し、抗がん剤を使用したのは、数年前だった。やがて、骨髄から髄液を採取して培養し、骨髄移植をしたのは、この春だったはずだ。
その後は、体力が弱ったといえ、もともと力強い男だったので、元気にしていた。
それが突然の宣告だった。
これから見舞いに行くという。
「体力が弱り、抵抗力がなくなっても、気力だけは上げることができる。気力を持ちましょう」と別れた。

そして夜の8時頃電話があり、話した。
「少し良くなっているそうです。夫と話をしました。お礼に電話しろと言われました」と。

 「良かったですね。今度は、ご主人が何を考えているのか、何を思っているのか、考えることも大事です。
それは、自分の心を空にすることとおなじだと思います。あなたの心を夫ばかりにするわけですから。
これは心配でごとではありませんから。
自分の辛さは、自分自身のことを考えることに起こるものです。
そして、もし彼ががぼんやりしているとき、窓の外を見つめている時、ボヤッとしているとき、今、何を考えているの、何を思っているのと、尋ねてください。
もしかしたら、今まで出会ったこともない、思いがけない言葉が聞けるかもしれないし、違った彼に出会えるかもしれませんねと、告げた。

彼女は、「そうですね」と電話を切った。

その彼女は、私の家に、黄色い小銭入れを忘れていった。持っていって渡そうかと思ったが、台所のテレビの棚の上に置いてある。
毎食、食事を頂くときに、その財布が主張しているだ。
眺めると、見つけると、向こうも私を見つけるのだ。

彼は、彼女は、「どうしたろうか」と。「少しは思い出して心配しろ」と。

平成22年10月7日(木)午前9時彼女から電話があった。
「退院しました」と。
17日間の長い道だった。夫婦、家族して歩んだ道だった。
それにしても、ホッとした。黄色い財布もホッとしたと話しているし、よかったねと喜んでいる。

棺の中に眠る

2010/10/05 11:24
多くの亡くなられた方々の棺の中に眠る姿を見て、花に覆われた棺のふたが閉ざされることに立ち会っては、生は何処にあったのか、死は何処にあるのかと、不思議な疑問を持ちます。
そんな疑問に,「棺の中に眠っている死者を指し、すぐそこに在るではないか」と、確かに死であることに違いないけれど、でもそこにあるのは、父だった死者の
姿であり、母だった死者の姿であり、親しいものだった死者の姿であり、友人だった死者の姿が、冷たくなって在るように思えてなりません。

人が亡くなって改めて問われるのは、人の生きた意味ではないかとも思うのです。
そして思いはふくらみます。この人の残したものは何だろうかと。
この人と親しかった人には何が残されているだろうかと。

そして残されたものを発見したとき、それには、どんな意味があるのだろうかと?
ここに、この人の生が、今在る。

故人が好きだった、集めた、欲しかった、大事にしていたものは、すべて故人のものとはならない現実。
私のものとは、何なんだろうか。そこから導くと、幻想の上に人は生きているような気もする。
もっとも因果の理念は、所有することは所有されることであり、それは縛ることは縛られることです。
このことから、人がものから縛られることだけは、自由になることは間違いない。

私以外のものがそれらのものの価値を再発見しなければ、意味を持たないではないか。すると自分からは離れていることだ。
生は、一時的な保管場所を意味するだろうし、名前や名誉が残ったとしても、それは他人事の吹く風によってこれも、自分からは離れている。

しかし意味だけは独り歩んでいる。
「生前に積んだ業だけが歩んでゆく」という言葉が、あったかどうか不明だが、それが冷たくなったものから切り離されたものか。
その切り離されたものも、相関関係という世界があってこそ成り立つことを考えれば、人は生きても死んでもその世界から出ることはできない。

朝起きて、顔を洗って歯を磨き、食事を三度とり、仕事をし、家族や友人と話し、今しなければならないことをする。
これが業の正体としたら……。

どうしたら?

所有という概念を超えるもの、それは意識の中から抜け出ることだ。
持って持たない……。
持って持たない、そこに心の豊かさが在る。

棺の中に眠る親しいものだった死者の姿は、ただ与えられた人生をひたすら走り続けたあなただったと。
「持って持たなかった」あなたでしたと。

葬儀が消える。そして人の気持ちも……

2010/10/04 21:38
今朝、6時30分に訃報をいただきました。
電話の相手は、孫の彼からでした。
お婆さんが病院で早朝3時過ぎに亡くなり、葬儀をするだけの金銭的な余裕もなく、炉の前で火葬だけして、49日に納骨したいとの連絡でした。
そのとき、私は、「そうはいかないから、炉の前だけでも、お経を読ませてくれ」と連絡して電話を切ったのです。
なぜ、その言葉を彼に言ったかというと、彼のお母さんから、母が亡くなったら来てくれますかと、頼まれてもいたからです。

そして11時30分、「葬儀社と打ち合わせています」と、彼から電話が再び入りました。
「自分としては、一晩でも、自宅に帰ってゆっくりしてもらいたいと思ったのですが、病院から「5時までに遺体を引き取ってくれ」と言われたので、病院から紹介の葬儀社へと、結局葬儀社へ遺体を預けてしまったと聞きました。
私は、彼から言われた火葬の日にちを選択しました。電話の向こうに葬儀社の声がしたものですから、「葬儀社から出棺するのでしたら、その時、30分前から、そこで、お経を上げさせてくれないか」と、葬儀社に伝えてくれと言いました。
「保管場所から霊柩車に移る間を、30分」と、そして、棺の前には何もいらないし、椅子もいらない、飾りもいらないからと念を押しました。
彼は、葬儀社に依頼しました。少し間をいて、「セット料金になっているので、そうしたことは出来ない」といわれたのでした。

自宅に安置していれば、時間は関係なく、葬儀は出来ます。
セット料金の中には、セットの手間がはいっているのですが、その間隙をぬって、何とかしてあげたいは、菩提寺の和尚の気持ちです。

もし菩提寺でなくても、知り合いなら、頼まれれば、してあげたいが坊さんとしての努めです。
きっと、葬儀社にも、私の分からない理由があるのでしょう。

それでは仕方ないから、落合の炉の前で読みましょうとなったのですが、出棺前のちょっとした時間、20分でも、真剣に送ることの意味を問える、振りかえることの意味を、そして、みんなで、「サヨウナラ」と、「ありがとう」と言える、そんな別れもできないなんて……。
電話を切るとき、彼が言った。
「切ないです」と。

その「切ないです」の言葉が、耳に残っている。

しかしである。考えたのは、炉の前の時間は、極端な話1時間ぐらいはあるではないかと……。
当日、25分ぐらい時間をくださいと葬儀屋さんに依頼した。すると、斎場の係に聞いてくるからと、帰ってきた時間が20分だった。
おかげで、じっくりと、お別れができたし、「よい葬儀だった」と親戚の人たちが話していた。

上司とは?

2010/10/02 14:55
部下がへまをする。その部下は心配で心配で仕方がない。
そこで、自分だけで何とか片付けようと思ったが、仲間に迷惑をかける可能性が出てきた。
そこで、信頼し、自分を労ってくれる上司に打ち明ける。

話を聞いた上司は、何日か考え続ける。
考え続けた結果、「俺の胸にしまっておこう。もし事が発覚しても、へまする前の事実はあるから大丈夫だ」と確信した。

上司は部下へ言った「大丈夫だ」と、俺に任せとけ。
部下は、「よい上司を持って、俺は救われた。良かった。」と思ったかもしれない。
しかし、事件は、FDディスクの書き換えが朝日新聞によりスクープされたことから始まった。

上司と部下の関係とは、どのようなものでなければならないと、この事件は、示しているとも思ったのです。

あの猛暑から蘇って

2010/10/02 14:18
今年の猛暑で、京都では、山々のミズナラの葉が枯れて、茶色くなっていたと聞いた。
ここ、深川でも、公園の立木が枯れている姿が目立った。雨が降らなくて、猛暑だったせいだ。
しかし、ここのところの雨で、芽が吹き蘇った木々もある。

以前から植えていたが、植え替えなどもあってか、山椒(サンショウ)の木がここまで大きくなることはなかった。
大きな摺(す)り子木ができそうな幹になっていたが、この猛暑で、多くの葉が枯れて散っていた。
それが、猛暑が終わり、長雨が続いたことで、枯れてしまったと思っていた山椒に、秋の新芽となって復活して、若葉が一斉に出た。
まるで、春のようだ。
            
季節が狂ってしまったかのようにも見える。
どちらかというと、この場所では合わないのか、育ちにくい生命力の弱い山椒の息吹のようにも見える。

それでは、枯れた原因は?
猛暑に痛めつけられ、瀕死の状態になったとき、自ら葉を涸らしたのか?
山椒に聞いてみなければわからない。
どちらにしろ、あと2~3ヶ月で冬となれば枯葉となる身だ。新芽を出すために……。

この繰り返しにより、幹は太くなっていく。これが、人間の年齢にあたるだろう。
葉を落とさなければ、新芽は出ないことを、譬えた、和尚がいた。

「無心と葉を落とすこと、心の作用と新芽を出し、華を咲かせ、葉を涸らすことにだ。」

この言葉に、不思議と、猛暑で散った山椒の葉を重ねて考える自分がいた。
それは、「一年に2度、新芽を出すことの意味をだ。」

生きる。生きる。新芽を出すことは、まさしく、生きることだ。

南極の石

2010/10/01 21:43

国際地球観測年は1957年から1958年だった。各国は同時に南極を調査しようと船で向かった。
昭和31年(1956年)11月、文部省は故永田武隊長と53人の隊員を編成し、南極地域観測予備隊を編成したのでした。
副隊長兼越冬隊長は故西堀三郎氏だ。
昭和31年11月14日に、南極地域観測船初代宗谷が東京港を出発したのだった。
船には、越冬隊が一年間使用する様々な物資、燃料、食料、機材、犬たちもが運ばれていた。
ちなみに、この53名の予備観測隊の中から11名の越冬隊員が選ばれて、越冬することになる。
物資と隊員達を送り届けた宗谷は、次の出航に準備するため、帰国する。
ところが、海路は厚い氷におおわれ宗谷の行く手をはばむ。前にも後にも進めない宗谷を、助けたのが最新鋭艦だったソ連のオビ号だった。
そして、東京港に帰ってきた船に積んであったものに、南極の石があった。
そしてもう一つは、ペンギンの体だった。東京に帰ってきた、このペンギンの体は、浅草の職人によって、剥製にされた。

さて、その南極の石は、八丁堀の京華小学校に2005年3月まで委託されて子ども達のために飾られていた。
                     
この石は、10キロぐらいあり、表面にキラキラしています。色は褐色にちかい灰色です。
ちなみに、昭和32年(1958年)2月に第2次観測隊が宗谷に乗船して、東京港を出発したことは、タローとジローの物語となって知られている。
そのタローとジローは、翌昭和32年1月14日、第3次観測隊がヘリコプターで確認した。
タローが帰国したのは、昭和34年(1961年)第4次越冬隊が連れ帰った。



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