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あるの、ないの、それとも……

2011/02/27 10:30
 谷川俊太郎の詩に、『黄色い鳥のいる風景~ポール・クレーの絵による「絵本」のために』があります。

とりがいるから そらがある
そらがあるから ふうせんがある
ふうせんがあるから こどもがはしってる
こどもがはしってるから わらいがある
わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある
みずがながれていて きのうときょうがある
きいろいとりがいるから すべてのいろとかたちとうごき
せかいがある

 この詩を読むとき、「鳥がいるから、空がある」と、実は、「つがっている」と詩を書いている詩人こそ、ものがたりを想像する、それは、つなげていることに気がつくでしょう。しかも自由にです。
 でも「鳥がいるから空がある」とは、普通書かないのではないかと思うのです。「そらがあるから、とりがいる」と……。
 鳥の進化の歴史からは、空があったから、何ものかが鳥となったはずです。谷川俊太郎という詩人は、そんなことお構いなく、結びつけてゆくことを遊んでいると、思いませんか。しかもまったく自由にです……。
 人は世界とつながりながら、自分自身を存在するモノとして意味づけているともいえます。意味づけなければ、人は生きていけないとも考えることができます。世界で起きている出来事を見ているとつくづく思うのです。独裁者がいるから自由が欲しいのであり、自由ばかりだったら、もしかしたら、強烈に導いてくれる指導者が欲しいかもしれません。
 だからこそ、「すべてのいろとかたちとうごき せかいがある」と、谷川俊太郎の詩はここから先は、読者のイメージに任せています。
 現実のつながった世界は、心ともいえるものです。現実には、憎しみやねたみがあり、保身や欲望があり、自我を強大にした結果、戦争があり、多くの善良な人の死もあることは歴史の事実です。
 さらに、つながった世界を見れば、死後もあるのだと思いたいし、死後のその後も、ずっとつながってゆくことに気づかないでしょうか。極楽も天国も地獄もです。
 でもこれは、自由に在るでつながったことで、かえって、人を不自由にもたらすこともあるわけです。仏陀釈尊は、もしかして、そんなことを考えたかどうか、解らないけれど、存在と所有という問題に道筋を描いてくれたと思っています。

 そのつながりを考えてみると、心の世界では、選択であり束縛あり、意味と無意味、価値と無価値、もっといえば、善いことと悪いこと、幸福と不幸、死と生、順逆の関係の中に、よくいう自由とは、何と自分に対して責任を問うことかと思うのです。
 意味づけは、評価という形で表現することもできます。その評価に一つでも傷がつけば、その傷を多数の人は問題にします。自分でその傷を消そうとすれば、その世界からアウトしなければ、傷は消えないこともあります。しかも、評価の履歴はその世界に入会したときから記録となり、まるで、その人物を意味づけています。評価の履歴こそがつながっている人であると意味づけるからです。
 インターネットのヤフーやAmazonドットコムにしても、その評価が自分の価値を意味づけてくれることに気づきます。
 考えてみれば、怖いことでもあります。意味づけられた私は、私であって私でないからです。なぜなら変わり続けることを本質とするならば、一瞬の今を生きる私は、過去の私や未来の私ではないはずだからです。
 そんな価値を保つことを考えてみれば、つながっていることが不幸になることもあります。それは、人の価値こそが、インターネットの世界に生きる財産だとしたら。例えば、今流行のフェースブック、何億という人間がフェースブックの中でつながることを意味あることと、自分の価値を築こうとしているからです。その価値に縛られることになります。人生は相対的なつながっている世界に生きるゆえに、得たり失ったり、保守や革新、富や貧富、その結果が歩みであるかのようです。

 そのつながった歩みの悲喜こもごもを、般若心経では、縁起はないのだと否定しています。本来縁起はないとです。悲喜こもごも有ると思っていることは、本来無いのだと、これは仏陀釈尊と、深く般若波羅密を行じた観世音菩薩の言葉でもあるのです。
 さて、仏教はもう一つの見方を提案しています。
 「とりがいなかったら そらがない」、「そらがなかったら ふうせんがない」です。
 でもです。在ると無いに共通する心のはたらきは、無いと在ると心に画いたモノであるならば、これも意識による意味づけです。在るということ、無いということを意識において持ち続けることこそ、無明あるいは無知と仏教はいいます。確かに初期仏教では、無いことを求め続けて涅槃にたどりつくことを考えた人々もいました。でもそれでは、自由さも無くなってしまいます。自由とははたらきだからです。怒ったり、笑ったり、喜んだり悲しんだりという自由さ、しかも、その怒りや笑い、喜びや悲しみとらわれない自由さこそ、禅の目指す道であり、般若心経の教えなのだと思っています。

 「わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある」と。
 実は、谷川俊太郎は、何も無い、真っ白なキャンバスに、言葉で鳥を描き、空を画き、風船を画いていることに気づきました。
 そう、最初は真っ白な、何も無いモノに在る、あるいは、居ると書き付けていることです。何も無いトコロに、空という、無というところから、在ると居るが浮かび上がり、紡がせているモノは、存在でしょうか。存在だとしたら対照的な事物なはずです。
 自由につなげている世界は、もともと何ものも束縛されない世界であり、対象として捉えることができないモノのようです。あえていうなら真っ白なキャンバスと。

 しかもその真っ白なキャンバスには、たくさんのモノが書いてあるけれども、谷川俊太郎が創作したこの詩を読むことによって、浮かび上がってくるような、初めから私の心は「わらいがあるから かなしみがある いのりがある」と、真っ白なキャンバスには描いてあるような気がするのです。しかも、在ると居るで、つながっているものは、もっと考えてみると、空間だけではなく、時間もつなつながっているし、歴史も含めて記憶や行為まで、すべてつながっていることに気づきくのです。だからこそ、すべては自由につながっている。空であり無であることが前提となっているのではないでしょうか。だから、どうせ描くなら、与えられた善いことをたくさんたくさん描きたいものです。真っ白なキャンバスのはたらきとしてです。
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色即是空、空即是色

2011/02/13 09:32
 色即是空、空即是色。

 陽岳寺の法事の最初のお経は、般若心経からです。その般若心経の言葉の中でも、「色即是空、空即是色」は、特に有名な句だと思います。

 色(しき)は物質的なものでしたが、私たちがその物質的なものを認識するわけですから、眼耳鼻舌身とそれぞれの認識器官に附随するものすべてといってもよいでしょう。
 しかし、般若心経はそれだけではなく、色・受・想・行・識も含めてと考えます。
 色は、物質的なものも含めます。受は苦・楽に、捨てるの感受。想は、知覚することとその知覚の表現。行は、思いや行為、意識もこれに加わるでしょうか。識は、意識活動です。ちなみに般若心経は、それだけではなく、世間の有り様という法も含めて空と言っているのです。一切空と!
 空(くう)は、現象としての色・受・想・行・識は有るが、実体的な存在として色受想行識はないと説きます。

 禅宗の語録、無門関の第8則に、こんな話があります。色即是空の内容です。
 「車を形作っている部品をすべて解体してみると、車はどこにあるか」と。

 「よく味噌の味噌臭さは上味噌にあらず」などと言いますが、大豆や麹に、水や混ぜかた、ねかせかたなど、様々な工夫があって上味噌になるのですが、その部品一つ一つとってみれば、味噌とは言いません。
 また各料理の、野菜の種類、魚の種類、肉の種類、乳製品など調味料の種類に、調理の仕方、合わせ方により、シチュー、水炊きや鍋などの、名前がありますが、同じように部材を一つ一つ分解してみれば、シチューや鍋料理とは一体何だと問いを発しても、何バカ言ってんじゃないよとなります。

 禅の語録は、最早、車とは言えなくなった部品を前にして、さあ自己とはと、問いを発しているのです。
 こうした問いに、古人は、「無(空)の中に有(色)が蔵(かく)されている」と言います。もっとも、その蔵されている有(色)は、また無であり、「やはり有(色)が蔵されている」となります。
 またシチュー自身も、世界の料理の一つの有(色)となって、あるわけです。人も同じです。世界のすべてのものは、こうして成り立っていると。

 でも、大乗仏教としては、「それからどうした?」と、問いを持ちます。それは空の世界に安住するなということと同じであり、空の世界のはたらきを問うからで。

 確かに現象としてモノは、裏とか表とか、いやいや上だとか下とか主張していないし、言わせているのは、億劫だ面倒だと、美味いとかまずいとか、嫌悪してこれ変よ!と、言わせるものは私たち人間の意識です。
 言葉と言ってもいいかもしれない。その言葉に動かされるのは、人の宿命みたいなもの。しかし、言わせるものに気づくこと、これこそ空のはたらきでもあります。それを問い続けることが禅かも知れません。だけれども、問い続けたあと、その結果として行為につながらなければ禅とはなりません。

 般若心経は、観世音菩薩が、釈尊の弟子智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)に語った内容です。しかし、釈尊からの禅の法は、頭陀行(ずだぎょう)第一の摩訶迦葉に伝わったことから、智慧の働きとしての頭陀の行為こそが人を輝かせていると考えることができるのです。智慧は、般若心経では、物事をありのままに把握する真実なる眼であり、無明を開ける眼です。

 平成23年2月11日午後8時、NHKの無縁社会ドキュメント報道にて、新潟在住の48歳の独身男性が、仕事がなくなり、気がついてみたら、独りとなり、さらに孤独の辛さを、今の状況を語っていました。
 そして続いた映像の奥の張り紙に目にとまり、とっさにメモをとりました。「人生は、つらく。人生は、苦しく。人生は、豊かで。人生は、愛おしい。」
 人生は、辛く苦しい。そう気づいたとき、またそこを通り越したとき、人生は豊かで、なんと愛おしいものであるかと思ったからです。
 ドキュメンタリ―は、生きるためのつながりを提案していましたが、他者に対する行為やはたらきのなかに生きることこそ頭陀行だと摩訶迦葉はそこに生きている。観音もそこに生きている。釈尊も。おそらくキリストもそこに活き活きと生きている。空即是色の中にです。
 
 白隠禅師の『毒語心経』に、「是非憎愛すべてをなげうてば、汝に許す生身の観自在たることを」(是非憎愛総拈抛、許汝生身観自在)とあります。
 是非憎愛とは、取捨選択の一々であり、車の部品とも、シチューの具材といえるものです。我執というすべてをなげうてば色即是空と、とらわれを無くすことができれば、「汝に許すす観自在なることを」空即是色と、証明してくれています。

 観自在菩薩という存在は、仏像や絵画という存在でもなく、人間の心の中に具わっている活き活きと働いているそのもの自身だと。
 人生は辛く、苦海に沈んだ私は、実は、観音の辛く苦しい姿でもあると観ることができるのです。それは、私の心を救う故に、その辛さのままに、苦海に沈んだままに、実は、私自身が観音の姿だったと、怒っている観音、牙をむいている観音、へつらっている観音、悲しんでいる観音、慈しみの観音、無心な観音と、自己こそが観音と、自己の外に有るのではなく、無心なるはたらきの観音そのものです。とらわれから、何ものにも束縛されない自由になるため、とらわれの発見こそが自由への転換のカギなのです。

 このことは、私たちが見る夢の世界に似ています。夢から覚めて、アレは夢だったのかと、夢から覚めてみれば、その夢は夢の世界とわかるのですが、夢から覚めなければ、ずっと夢の世界に生きるしかありません。夢から覚めるから「アレは夢だったのだ」と、違う世界がみえたのです。もし現実の世界でも同じことが言えるとしたら、例えば、依存症の世界、バーチャルの世界、欲望の世界、閉じこもりの世界、すべては相対的な世界であり、無明の世界といえるものです。
 どれが現実の世界なのか、生という物語を創造して生きる世界は様々です。
 夢の中に似て、物語を作り続けて、そこに生きる自分自身を創り上げて、一喜一憂していると導いてみたのですが……。

 陽岳寺の法事で、般若心経のつぎに読むお経は、観世音菩薩の姿をかたる観音経です。
 観世音菩薩は、願いのなかに生きる菩薩といわれております。地獄・餓鬼・畜生を象徴として、むさぼり、怒り、無知という貪瞋痴に進んで生きる菩薩です。
 陽岳寺の本尊、十一面観世音菩薩も、十一のお顔を持っています。その前にたたずみ、今は自分はどんな顔をしているか、あの時どんな顔をしていたのか、それぞれ振り返らせる姿でもあるのです。

 観世音菩薩は、出会う相手に応じて様々な顔を持つと言えます。出会う苦悩や辛さ、慶びに応じて、恐れなく進めと無畏(むい)を施します。まさに下町の意気地を地に行き、それは、勇みという智慧に情けをかかげるとも言ってよいでしょうか。
 生きるとは、生きている自己を発見することであり、それは、他者とのつながりに中に生きる自己を発見することだからです。

 親が子に接するとき、子を持ったことによって、親となります。自分の親を成立せしめる条件とは、親自身にはなく子にあると、そこのところが親の空です。親自身が、最初から親と思っていたら、この関係は成り立ちません。当たり前のことですが、親の根拠は子にあることによって、空即是色と、親となることができるのです。この関係を悟ったとき、親も観音に、子も観音になるのだと思っています。

逆さまの反対は、まさか、さ?深川の反対は、深川に決まっている。

2011/02/11 11:04

本年は3年に一度、富岡八幡宮の例大祭がある。
町会では、すでに、Tシャツの申込がすでに始まっている。

今年は浴衣を新調することになっているが、出来上がりまで、二ヶ月以上かかることから、そろそろ、申込を回覧しなければならない。
本染めの浴衣は、文字がどうしても、上を向くのと、下を向くのができてしまう。
私も通人ではないので、なかなか理解できないことだ。
それに、背中の合わせが、柄が合わない。これも本染めの浴衣は致し方ないという。
そういうものかと、できあがった浴衣だ。

ここ深川の柄は、昔から大柄だ。神田や日枝神社などの小紋の柄とは伝統が違う。
そういえば、半天も半だこを履くときに、少し白の半だこが見えるようにと、長めの半天とは違う。
勢いを伝統とするところが、大きく、違う。威勢のよさは、早駆けのの神輿の担ぎ方にもあらわれるのだ。

深川は水辺の街だ。
だからか、亀甲文様の大柄浴衣。多くの人が着れば、その眺めは、うねりとなる。
子持ち亀甲が連なる様は、家々が軒を連なる様を表現しているが、深川にも、深川の人情が薄れていくことの危惧が表現されていることでもある。

人との連なりがなければ、深川は、ただの街だ。
朝、子ども達が学校に行くとき、掃除をしている私に声をかける。
「おはようございます」と、それに対して「オッ、いってらっしゃい!」と。
どこかの知らないサラリーマンが声をかける。「ご苦労様です」と。「オッ、いってらっしゃい!」と。

きっとこの先も、この風景は続くのだ。

手がかかることはあたりまえ?

2011/02/05 12:30
自分に何ができるのかと、特に、最近の育児や子育て関してと、そんなことを思いながら、講演会に参加したのです。
玉川大学の大豆生田准教授の講演を一時間にわたって聞いたのは昨日の事でした。
テーマは、「子育ての孤立感、不安感、イライラ感を解消するためにできること」でした。
先生の話は、眠気も催さずに、あっという間に、一時間を過ぎて終わった。

今年、児童委員の子育て支援部会に所属して、「はて、順番に部会は回ってくるものの、一番似合わない部会ではないか?」と。
どうも、自分の中に、何か戸惑いがあるし、戸惑いを作っていると感じる部分もあるのだ。
考えてみれば、息子たちが二十歳を過ぎても、その都度に、親を勉強しているのだが、子ども達が赤ちゃんだった頃は、とっくに過ぎ去っている。

「何ができるのか?」と、そして、関わり、引きずりこまれることの怖さもある。それでもでである。
子ども達が大きくなってみれば、過去は夢のように、育児に、親の義務として、手がかかることは当たり前なのだが、その当時は、手がかかることの中に試行錯誤しながら生きていた。
もちろん、希望や願いはあったが、子ども達が年齢を数えるうちに、その願いや希望も、子ども達の願いや希望のうちに変化していくものだ。
子ども達に、押しつけできるものはなにもない。
子どもに向き合いながら、自分に向き合うことで、瞬間瞬間を、ただ生きていたことになる。
考えてみればその当時でも、社会を見つめると、みんなが明るい未来は、見えなかったような。もっとも、今のような借金は政府になかったし、為替問題も、デフレもなかった。

講演を聴きながらも、当たり前のことが、当たり前でなくなったことを強く思った。
育児放棄、児童虐待、小児科医の減小、たりない保育園、生活苦と、育児が楽しいかと問えば、楽しいも楽しくないも、心の持ちようだ。
でも、そんなことは決して言ってはいけないような、もちろん、当たり前もだ。

公園デビューという言葉自身も無くなってきている時代に、母親はツイッターで我が子の泣きをつぶやいている時代だ。
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