祭礼への不参加

2011/03/27 10:26
東日本が大きな地震で被災され、しかも、福島原発の事故。
これは日本が生きることと同じだ。だから、被災地が立ち直ることで、見守る我々も救われる。
原発の不測の事態に備えて懸命に、命を懸けて従事している人たち。

東京では、神田や浅草、築地の祭礼が中止された。
「深川の例大祭はどうするのか?」と、町内でも、ささやかれている。
東日本の多くの町にも、有名無名を含めて多くの祭礼がある。人々が立ち直るためにも祭礼は必要だと思う。
地域が一つになる祭礼はその地域の文化であり、地域にとっては地域を彩るものだ。
しかし、東日本の広範囲にわたって被災されて、生活にくるしむ人々がいて、復興への気持ちが倒れないためにも、自分たちの祭礼という喜びを表現することをみんなで祝うことをひかえたい気持ちは、日本人の文化だとも思う。

我が町会長が、三ケ町の町会長とはかって、本年執行される3年に1度の富岡八幡宮の例大祭参加中止を決めた。
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誰か見てるぞ!

2011/03/20 09:09
よく車に「誰か見てるぞ」と、ステッカーを走る車を見かける。
警察から町会に、このステッカーをはって下さい。防犯のためですと我が寺の近辺の家々にもはってあります。
ちょっとした不注意で、あるいは無意識で、タバコの吸い殻を道路に捨てる。
誰か見ていなければ、捨ててしまう。そんな意識が、いつしか自分を省みることをしない人間を創ってしまうものです。

どうして自己に、その眼が向かないのか。
誰もいなくても、見ている人が、聞いている人がいるではないか。
そこに気がつけば、日常を一生懸命に過ごすことができるはずだ。
誰か見てるぞとは、他の誰ではなく、自分だ。
誰か聞いている人がいるぞ、壁に耳あり。
でも聞いている人は、自分のはずだ。
自分に責任を持つとは、このことを言うのではないかと、買い占めのように思っていなくても、つい余分に買ってしまう。
誰か見てるぞ!
被災したことの事実に、自らを問う姿勢こそ、日本が問われているのだと思うのです。
自己に厳しくあることは、自己の自由を創ることでもある。
誰か見てるぞ!

ガソリンや灯油、軽油を!

2011/03/17 18:23
自衛隊を除いて、民間の輸送業者は、震災被害地に帰りのガソリンがないので、怖くて行けないのだという。
幸いに放射能の数値も許容範囲だというのにだ。
あと数日でガソリンは行き渡るようだが、被災地に一刻も早く送ることはできないだろうか。
電気は通じたところが増えてきたが、避難場所では、ストーブが何よりだ。
ガンバレ、ガンバレ!!

電話がつながりました。

2011/03/16 19:51
郡山市と仙台に、電話がやっとつながった。昨日電気が入り、やっと、つながった。
皆さん元気な声で、嬉しく思いました。
電話の向こうで、子ども達のにぎやかな声がしたり、久しぶりに、電気の下に照らされてよかった。
よかったよかった、余震は未だにあるそうですが、よかった。
でも、道路にしても、電車にしても、11日以前とは東京都つながっていないけれど、元気な声はうれしい。
でも一軒仙台の若林区だけ、電話が分からなかったが、その地域の様子を聞いたところ、大きく壊れていないということで少し安心しています。
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電話が通じないのです!!

2011/03/13 17:35
3月11日に起きた東北関東大震災で、ここ深川も大きく揺れました。
3時45分パソコンを触っていたとき、突然来た揺れに、スイッチを切り、妻と裏木戸から外に出たのです。
二人で、坐りながら揺れていました。
ゴーッと音がして、斜めに見える12階のマンショションが大きく揺れていました。
もちろんそれ以下のビルも大きく揺れていました。
お寺は、幸いにそれほどの被害もなく、お墓も倒れたものはなく、破損もありませんでした。
本堂に安置してある金連の蓮が一本、落ちて、傷つきました。でも、よく無事であったとホッとする暇もありません
怖かった、初めての経験でした。
その夜は、知り合いの帰れなかった人に泊まっていただきました。一晩中に余震が続いていました。
眠れない夜を、きっと、多くの人が経験したことだと思うのです。
被災地の方々にとっては、それどころではなく悲惨で、お気の毒なことだとも思います。
それから、郡山市、仙台市、その近辺の人に電話をしているのですが、つながらないのです。
とても心配しております。
何とか生き延びて元気なら嬉しいことですが、心配しています。
ミヤオ ヨシノブさん
ヨシワ ラテルトヨさん
ノリツケ ヒロユキさん
サソリ エイコさん
大丈夫ですか?とても心配しております。

外相辞任にみる疑問?

2011/03/08 13:19
外相の献金問題で、あらためて知ったことは、在日の人たちは政治献金できないことだった。
普通に暮らす日本人も、こうした政治献金ができる自由を普段考えもしないはずだ。
お寺や教会、NPOとか助け合い、赤十字に災害のための献金、多くの献金がある中で、なぜその献金が……
国を変えて暮らしたことのない身には解らないけれど、血とか先祖とかは、自分で決めたものではない。
そのことが良いこともあれば、悪いこともある。
生活の中で、ふとしたことが思い出させて、あらためて事実を知る。
思い出して、きっと悲しいことのほうが多いのではと、思いを巡らすが、憤りをおぼえることも多いはずだ。
在日の人たちにとっても、こうした法律で現実に差別されているからこそ、そして自ら差別する。
日本に暮らす在日の人たちは、何百万人いるのか知らないけれど、きっと、この件で古傷がウズウズと痛んだのではないかと思うのだ。
祖国とは何なのかと思わせることでもある。でも、在日の人たちにとって、もはや祖国に暮らすことはできない人たちでもあるのではないだろうか?
政治劇のドタバタで、浮かび上がる矛盾だとも思う。
マスコミや評論家、政治家の記事より、何よりも深く重い言葉は、あの焼き肉屋さんの老婦人の言葉だった。
普通の人の庶民の言葉だ。そこに裏や表もないと思う。
外相が、小さいときから知っていて、幼くして父親を失った外相が、一生懸命に活きている姿を見つめていた彼女だった。
そんな彼が外相にまでも登りつめている姿を見るにつけ、彼女は嬉しかったに相違ない。
そこに政治だとか、倫理や道徳などなかったと思う。彼女には、幾ばくの資金を提供することのできる、ささやかな生活があったのだろう。
彼女は「自分が悪かった。知らなかった。すまないことをした。とんでもないことになってしまった」と、老いの身には辛いことだ。
外相の言葉より、マスコミが描く言葉より、何よりも、彼女の言葉は重いと思うのだが……

在日という言葉を、普通に暮らす者にとって、使用をひかえたいものだ。
なぜなら、在日という人はいないからだ。
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