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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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仏そして菩薩たちへの祈り~~盂蘭盆会の祈り~~

この世界にあって、慈悲と智慧をつかさどるもろもろの仏たちよ!

思い通りに行かぬ苦しみを救うよう、どうかわたしたちの祈りや願いを 聞き届け給わんことを!


そして、慈悲と智慧を、人々に巡らせるもろもろの菩薩たちよ!

仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、我が心の鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ることを導き給え。!

そして、この世界のすべてのひとたちの命を与え、

家族から 仲間から この地上から旅立っていった多くのひとたち!

また、さらにこの世界のあらゆるところで、
お腹をすかせている人たち、お腹をすかせて亡くなった人たち。

欲張りな人たち、欲張りなままに亡くなった人たち。

不幸な人たち、不幸なままに亡くなった人たち。

怒っている人たち、怒ったままに亡くなった人たち。

悲しんでいる人たち、悲しんだままに亡くなった人たち。

すべてのいのちが 満たされて、やすらかになりますように!

共に、真実に目覚めることができますように!

そして、生きとし活けるわたしたちの心に、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心を巡らせたまわんことを!

神々への祈り
仏教は神々を、縁起の法により神々の場所に在らしめます。

在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。

在るものを在らしめる神々よ!
在るものを無さしめる神々よ!
無いものを在らしめる神々よ!
無いものを無さしめる神々よ!

空や山や川や海を、鎮めたまえ。
町や建物、生きものたちの暮らしを、平安に導きたまえ。

在るものが在ることも、無いことも、
無いものが在ることも、無いことも、縁起そのもの。

それは現実という世界の論理そのものである。構造でもある。

だから、現実という世界が語る内容は、構造であり、それは、世界自身が世界を語っている。

さて、伊弉冉(いざなみ)の神は、穴倉の中で、火の神を誕生させた。
今でも、伊弉冉は、神として祀られている。死んだはずだが、祭神として、今も鎮座する。怨念としてか……?

人類は、火を発見してより、何千年が過ぎている。

その火をエネルギーと読み替えれば、放射性物質も火となるのだろうか?

人類の旅は、宇宙へと、そして、物質の中へ。

神々は、怒ることを知らない。
神々は、怒りを鎮めることも知らない。

ただ在らしめるだけだし、無さしめるだけだ。

怒りや鎮めることを知るものは、人間。

地球はやがて、神々だけの世界になることを望んでいるのだろうか……

世界自身が語っていることを、如是我聞しているかと、今問われている。

さて、飯を炊こう。

支える
悲しみが、私を支えることもあるじゃない。

痛みが、私を支えることだってあるはずだ。

苦しみが、私を支えることもあるし。

いたらなさが、私を支えることだってある。

蹴落とされ、どん底に落ちた経験が、私を支えてくれる時もある。

届かない思いが、私を支えてくれたのさ。

口べたで、かっこわるく、センスがなくても、それが私を支えてくれるものだ。

失意のどん底にいたことが、私を支えてくれたのさ。

嘘つきで、いい子ぶって、何も手に入れられなかったことが、私を支えてくれた。

人とつながりたくって、つながれないことが、私を支えてくれたこともある。

寂しくて寂しくてしかたがないことが、私を支えてくれたのさ。

身体の中に痛みが、それが癌となり、私を支えてくれた。

話がしたい、喜びたい、笑いたいと言う思いが、私を支えてくれこともあるさ。

絶望だって、私を支えてくれるから。

今ここに、あなたを支えているものが、あることに気づけば……

お墓参りに願うものは……。
長男坊が1人、汗をかきながらもお墓参りにきた。

ワイシャツ姿に、「会社・仕事中?」と聞くと、
「いえちょっと」という。

「どうしたの?」としつこく聞くと、
「彼女の両親の所に行くので」と。

「いくつになった」と。
「35歳になる」と。

「よかったね、おめでとう。彼女はいくつ」と聞くと、
「29歳です」。

「ちょうどいい年齢かも知れないね」と。

「お母さんも喜んでいるでしょう。心配してたものね」というと、
「そうでしょうか」と。

「そうに決まっている」と。

「弟たちは、結婚が早かったので、慌ただしく子どもが出来て、結婚生活も子育てと、時間が過ぎ去っていったけれど、じっくりと、彼女を大事にして、結婚生活を味わい育てて下さい」というと、
「有り難うございます」といい、2件分の線香とシキミをもちお墓に報告と、お願いをしにいった。

随分と大人になったような、落ち着いた彼だった。

1人、彼女が隣に座り、ご両親に挨拶する姿が浮かぶ。幸せの真っ只中だ。

再生エネルギーと電気代
朝日新聞は、電気代上乗せ、大口軽減とあり、鉄鋼化学8割引とあった。

もともと大口需要家は、東電が電気を使って欲しいこともあり、割引で契約してるはずだ。

そして一般家庭では、割高であり、企業との比較は、公開されていない。

今回、再生エネルギー法案は、上乗せ分の8割引とある。

一般家庭の節電は、テレビをみない、クーラーを極力控える、こまめに電灯・蛍光灯を消す、門灯なども消すと、目を悪くするし身体にも悪いと危惧する。

ほんらい企業こそ、企業力により節電のノウハウは、経営資源となって、国際競争力を高める手段となるはずだ。

経団連は、「企業(僕たち)の競争力に悪影響を与える」と。

その根拠となる発想は、僕たち(経団連坂の企業)はひ弱で、競争力もないし、血の巡りも劣り、頭も悪いしと強調しているように聞こえるのです。

危機こそチャンスであり、大企業は、中小企業・零細企業も含めて、大きな発想で一丸となり乗り越えないものかと思うのだが……!

だからこそ、何故、今、再生エネルギー法案なのだろうかと、唐突さを思うのだ。

それにしても、我々の電気代に含まれる、項目を一括して見えないようにして請求する、こそくな手段こそ、自らの悪い夢をかくしているようにも思える。

やはり、送電部門を切り離し、電力会社の自由化で、新たな電力会社の自由参入を促すことが、再生エネルギー法案より先だろうと考えるのだが、素人の疑問に答えて欲しい。

続、光……希望
しばらく前のことだ。町会でお年寄りが亡くなったことがあった。
通夜、その振る舞いの席に彼の妻がいた。

聞いた話だ。「最近はまぶたを大きくあけるの。嬉しくて……」

倒れてしばらくして、彼に、集中治療室で会ったときだ。
彼はずっと眠っていたが、その眠っている姿から、突然に眼をさます彼を思い描いた。
それはまるで韓国ドラマのようでもあり、そのことを望んだ。

彼の妻の望む思いは、はるかに現実的でもある。
動く、なんと神秘的な思いをさせることかと。

人の生き死にを描くことになれたものにとって、動きも、その先を占うことは観念的だ。
そこには希望も、安らぎもないときがある。

「他がなくなれば、自もなくならねばならぬ」ことを思い出す。
それは、夫婦という関係に於いて、「夫がなくなれば、妻もなくならねばならぬ」と言い換えることもできる。
現実には、人の思いがあるかぎり、夫がなくなることはない。
逆に、夫にこそ妻の根拠があるとすれば、夫婦とは、互いに否定を媒介にして成り立っている。
仏教の縁起は、矛盾するものが結び会うことによって、否定することによって、妻は妻自身たりえることだ。
献身こそが、今の妻の有り様として浮かび上がってくる。

長く連れ添った夫婦に、「今度は私が寄り添おう」と、自は必死だ。
彼の光が、、妻の希望に……
自の存在を掛けたものでもあるからだ。
心のなかに咲く悲しみを、希望にかえるためには、彼の光が必要なのだ。


光……希望
6月の末、マスターは倒れた。
彼には、かたくなに守るものがあった。

お店で出す料理だ。彼が修行した西洋料理は、その頃主流だった。
東京會舘・精養軒・帝国ホテル……、それこそ高島屋や三越のレストランでも、家族のあこがれの食べ物だった。

今風のお客が求める料理を出せばよいのにと思ったこともあった。

でも彼は、かたくなに守るものがあった。
週に一度の休日、外出先で倒れた。脳幹出血だったのだ。
集中治療室に搬入され、症状は重かった。チューブにつながれ、彼は身動きも出来なかった。

妻は今も通う。子ども達も通う。
意識はずっと戻らない……

そんな彼のチューブがはずされたのは、病院の治療と家族の思いだ。

「戻ってきて欲しい!」
妻の希望は、彼の変化だ。

昨夜、「彼が手の指を動かした」とメールがあった。
「今、お盆の季節にはいり、忙しいのでしょう」と。

「東京は7月盆だし、墓参はあるけれど、副住職がいるから大丈夫です」

今日、彼を久しぶりに見舞うことにした。

彼がかたくなに守っていたものは、家族の心だった。

いただきま~す!
今年も、9月過ぎて明治小学校では、9月20日ふれあい給食会が催されます。

毎年のことで、3年生の全クラスでお年寄りが子ども達と食事をして、そのあと、交歓会が催されます。

お年寄りは、昔のお話しを、子ども達はとっておきの、音楽や遊戯などです。

控え室に勢揃いしたお年寄りは、1人ずつ子ども達から名前を呼ばれて、「は~い!」と返事をし、手を取り合ってクラスに行きます。

クラスは4人が坐れるように椅子がそろえてあり、お年寄り1人に、子ども達3名が坐ります。

全員が着座すると、先生が歓迎の挨拶をしてくれます。そして、給食が配られます。全員に配られた給食を前にして、代表の子どもが大きな声で発声します。

「いただきま~す!」と。

すると子ども達もお年寄りも全員誰もがです。自分の胸の前に手を合わせて「いただきま~す!」と食事をします。

昔と変わったことは、会話が旺盛なことです。楽しく食事をする風景を見慣れている私は、新聞の、「いただきます」もしない学校の食事風景が考えられないのです。

当たり前の景色ですから。

街の格差が広がっていることでしょうか。

先日、火葬場でのことでした。
お婆さんが、孫たちとふれあっていました。お婆さんの膝の上にのせて、甘える孫たち。

時折、お婆さんは、「だめですよ」、「いけません」、「お行儀が悪いです」と孫をしかります。

しかられた孫は、素直に、しかられたままに、和んでいました。

この孫たちは、当たり前のように、「いただきます。ごちそうさま」と言うのだろうなと見ていたのです。

絆はかわったのか
今日、戸田斎場に出かけた。

暑かったので、都営三田線の蓮根駅からタクシーに乗り、帰りも蓮根駅まで蓮根駅までタクシーに乗った。

タクシーの運転手が、私に話しかけた。「3月11日を過ぎて、葬儀がかわりましたよね?と。人数が少なく、家族葬や直奏ばかりですね」と。

運転手さんは、夕刻になると、戸田斎場に行き、明日の予定掲示板を見るという。
「数は多いのですけれど、タクシーに乗る客が少ない」とぼやいていた。

絆やつながりが叫ばれ、いたわりや思いやり、頑張れと、寄り添うことが叫ばれている。

家族という枠組みも小さくなり、親戚のつながりも薄れてしまったようだ。

人は独りでは絶対に生きて行けない。

タクシーの運転手さんが言う。「結婚式は、呼ばれなければ行けないが、葬儀には行けるのに」と。

少子化で家族が少なくなっているにかかわらず、この少なくなっていることが、却って、人と人との絆を薄くしているのかもしれない。

人と人との絆が増えれば、濃くなれば、物も動くはずだ。

人の最後に見える絆の希薄さ。

人は独りでは生きることはできない。

何をしているのだろうか?
twitterを始めました。でも、何をつぶやいてよいのやらです。

そうそう8月3日だったか、やっとデルのパソコンが帰ってきました。
これで2回目の修理でした。

「使用中にブルーバック表示される現象を確認していただき、HDD用SATAケーブル交換にて現象改善のため、HDD用SATAケーブルが原因の故障と診断しました。」

そして複数回の起動検査をして、PCが清浄に動作することを確認したとのことでした。

そしてDIGAテストを実施し、エラーの無いことを確認いたしましたと……

PCが帰ってきてから、パソコンソフトを入れ直し、データーを引っ越しして、順調に動き始めました。

ところが、午前中に、一太郎創で、文章を作り記録して、終わったところに、突然クラッシュし、ブルースクリーンになってしまいました。
そして、電源を落とし、再度立ち上げたところ、通常ウィンンドウズを立ち上げますかと、聞いてきたので、そうして下さいとクリック。

なんか急に、データーを入れることが怖くなり、上書き上書きで、信用できないところがあるのです。

こんなことも、twitterでつぶやいてよいのかな~

ちなみに、最初の里帰りでは、マザーボードとハードディスクを交換したのです。

8ヶ月で2回のデルに里帰り、帰ってきてやっとと思っていると、ブルースクリーンで、突然クラッシュです。

はてどうしたものか?