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とりがいるから
仏教の縁起からいうと、生かされていることの自覚は、同時に生きていくことを支えるものとして、この世界を、過去未来を含めた、生き続ける私として重々無尽の集合体として見えるかと、問いを発します。

谷川俊俊太郎の『~黄色い鳥のいる風景~ポール・クレーの絵による「絵本」のために』の詩となります。

とがいるから そらがある
そらがあるから ふうせんがある
ふうせんがあるから こどもがはしってる
こどもがはしってるから わらいいがある
わらいがあるから かなしみがある
いのりりがある ひざまずくじめんがある
みずがながれていて きのうときょうがある
きいろいとりがいるから すべてのいととかたちとうごき
せかいがある

私とは、私たちとは、そして世界とは、あらゆるものが現実に交差して繋がっていることを現しています。

そして気づいたことがあります。

もし、この言葉の連鎖の中の、たった一つでも、嫌いだと、必要ないと削除したらこの詩と、この世界は、成り立たなくなることに気づくでしょう。

このことは、谷川俊太郎だけでなく、私たちも同じように、自由自在に結びつける自由な存在のあかしであることをも示しています。

そして、自由自在に結びつけることによって、鳥や空、風船や子ども達の笑い、悲しみに祈り、地面に川、昨日と今日、黄色い鳥と、実は独立したものとなっていること気づかないでしょうか。

結びつけることで分かれて、この世界から空や風船を取り出すことによって、結びついていたと……

あるがままに、思うがままにある現実の世界も、実はこの詩と同じだと思えないでしょうか。

普通の家庭にあっても、夫婦から、赤ちゃん誕生と同時にご両親も誕生した事実に気づかないものです。

家族が誕生する。家族に結びつけるには、ご両親と子供に分かれなければ家族にはならない事実をです。

世界に命を吹き込む達人として、谷川俊太郎は、世界を、紙面に産みつけますが、現実には世界の構造を、私たちに知らしめてくれたとも言えます。

単なる空、単なる鳥はあり得ません。

鳥は空があることにより鳥であり、その空に風船が浮かぶことで、子供が走ります。

その子供のあどけない走りを見て大人を笑いに誘います。

「~黄色い鳥のいる風景~」に命を吹き込むのは現実の事実です。

そして現実の繋がりの広さと奥行きは、色と形から、世界へと広がります。

命の吹き込み方の達人は、さらにキャンバスを大きくし、小さくし、せつなくし、喜びへと変えてゆきます。

あくまで事実の構造を、文字で並ばせながら、あるがままに表現していると言えないでしょうか。

世界の構造をです。

平等というキャンバスに、差別という鳥や風船、空を描きながら、世界を描いてしまったとも。

世界は平等と差別が相反することなしに、差別があることによって平等が成り立っていることも事実の世界です。

無心というキャンバスに、有が貼り付けられる。

無は有を含んで、有は無を含んで、同時に成立している事実に単なる有はなく、単なる無もない。

仏教は、この世界を法界と呼んでいます。

その法界の世界から、風船や子供、笑いや祈り、一つでも削除してみれば、世界も成り立たない事実。

これは、同時に風船や子供、笑いや祈りの一つ一つが、実は、「~黄色い鳥のいる風景~」の作品全体を担っているという事実です。

各々が一部でありながら、全体を担っている構造。

家族の一人一人にしても、子供やご両親、孫たちも加えて、その一人は、部分を担っていると同時に、全体の家族をも担っているという事々こそ、世界といい、家族といい、地域といい、日本といい、世界という一を表します。

その一に結ぶことで、同時に一つ一つに分離する事実、仏教の縁起は、この事実を知ることことです。

そこに世界がある。

わざわいのもと
6歳の子の臓器提供。

詳しくは分からないが、ニュースを知る限りのことです。

提供したご両親は、息子が他者の中に生きることについて希望を託していた。

ご両親の心には、託すことで、息子は生きていると、感謝していた。

臓器を提供された家族も、本人も、そこに咲いたのはただ「感謝」でした。

ニュースを聞いた者にとっても、喜びがあったことは事実だ。

差し出した人と、受けての人が、共に感謝していたニュースは、本当に久しぶりのことだ。

お互いの命の喜びというのだろう。

与えて喜び、与えられて喜ぶ。

支えて喜び、支えられて喜ぶ


日本は何故ブータンのようにならないのだろうか。

だって、スマホやパソコンのゲームの多くは、人を傷つけ倒し、人の持ち物を奪い続けること、或いは、上へ上へと上り詰めなければゲームは終わりません。

家電だって、便利さばかりを追い求めることを進化といい、そのことで、失うものを考えさせません。

人間はただ、ボタンを押せば良いが究極の姿なのでしょうか。

挙げ句の果てに、サプリメントや運動を進め、お金を使わせる。

コンビニは、独り住まいのお年寄り向けに、小さなパックにして、独りの暮らしを楽にさせようとしているし。

確かに健康は良いに決まっている。

健康でいる普段は忘れているけれども……

商売だって、商品を提供する方が商売敵と競争で、顧客をあおり、売ることばかりを優先しているように思えるのです。

本当に必要な事は何かと、顧客の立場に立って考えて頂きたい。

振り込め詐欺は。売り手と買い手が、共に買い手と売り手に根拠を持ち、お互いに喜びを与えることで成り立っていない。

情報を隠匿することは、根拠が自分にあることを示している。公僕の字は何を意味しているのだろうか。

この世の中、信頼や信用によって成り立っていたと事実を思い出した。

その信頼は何によってつちかわれているのか。

まさか我性という欲ではあるはずがないし、どうどうと自らの欲を正当化して宣言してはばからない世の中でもないはずだ。


ブータンという国が輝いて見えたことはそれでも救いでしたし、忘れない。ブータンの幸せを。

確かブータンには原発も無いだろう、欲は苦しさ、禍(わざわ)いの元です。

一人になってしまったが、独りではない。
今日の午後、よく知る彼が墓参した。

ちょうど法事が終わった後だったが、彼は、話さなければならないことがことがあった。

それは、地方に嫁いだ姉が亡くなったことだった……

その姉は、高く遠くにも聞こえる声で笑顔を振りまいて話す人だった。

「ご住職!」と声が聞こえた。

彼女は笑っていた。

思いだして見ると、笑顔だけが記憶にある。彼女の母も笑顔が似合った人だった。もう2年近く会っていない。
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私を早く連れてって!
それは、小さな声だった。
「私を早く連れてって!」
しかも、2回も言われた。

防災訓練の日だった。冬だというのに、日が照って暖かな日だった。
80名以上の人たちが参加した。
起震車やけむり体験、心臓マッサージAED操作、災害用機器の説明、安否確認訓練、非常食の試食と。
みんなで、1ヶ月以上かけて準備したものだ。

消防署に消防団、小学校がかかわり、大勢がかかわった。気も少し張った。
挨拶もした。
試食しながら、試食場所に「美味しいね、結構いけるよ。あっちあっち」と人を誘った。
署長さんも、最初の挨拶から最後まで、丁寧に大勢に接してくれた。
消防団は、消防署の手伝いといいながらも、地元に溶け込んでくれた。
絆を結ぶとは、日々、繰り返し姿を見せることだ。

この集いの中、幸せの姿が見えないひとがいた。笑顔だったが。

「私を早く連れてって!」

そんなに悲痛の声には聞こえなかったが、あちら側とこちら側を描いている老いた人がいた。

日々に変わる老いの現実と言おうか、あちら側がひそんでいる。
別段気をつける必要もないし、隙を見せる覚悟も必要もない。

鬱か?

そうも見えなかったが、現実は、淡々すぎる日常もないはずなのに、よくよくそう見える。

自分を見つめすぎることもよくない。

夫を亡くして、何年経つのだろうか、何十年かも知れない。
黒い大きな犬を飼っていたが、もういないのかもしれない。

一人暮らすと言っても、二世帯住宅だし……
人のよい、本当人の善いと言う言葉がピッタリの夫婦だった。

電話をしてみようか?投げか掛けられた言葉が波紋を広げるのだ。