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蝉時雨
お年寄りと話していた。

「今年は蝉の声を聞かなかった」と。

ところが今年も、庭には大きな穴が幾つかポッカリと開いていた。

確かに、ここ数年、いやもっとか、ここ深川でも蝉声は少なくなっているとは思う。

しかし聞こえないことはないと、確かに何度も聞いたからだし、抜け穴も見たし、ひからびて地面に散った蝉も見た。

緑の多い公園などに行かない私だが、少なくなった思うけれど、蝉の声は今年も何度も聞いた。


年を取れば取るほど、耳は聞こえなくなるものと、多くのお年寄りと接して、ふと思うときがあります。

普通に話しかけているのだが、「耳が遠くなって」と言われると、自然と選ぶ言葉数が少なくなるのだ。

「蝉の声が聞こえない」と、確かフォスターの『老年について』という文章に書いてあった記憶がある。
「蝉はみんなどこかに飛んでいってしまった」と。

多分、「蝉の声が聞こえなくなる」と、「社会に流れる言葉も聞こえない」に通じるような気もする。

聞こえなくなれば、無心となればよいのだろうが、心はざわめいている。

心の中の蝉時雨は鳴くが、だからといって、他人から見ているとそうは見えない。

威厳を保ち、寛容さがあふれて、じっと見つめる姿が印象的です。

カラスの勝手なんてないね!
窓から見るカラスの二羽の子ガラスが、両親ガラスに甘えてねだる、「カーカー」が日ごとに大きな声になってゆきます。

今日は、一羽の親ガラスが、二羽の子ガラスに向かって、姿勢を低くして、突っつくような、あわてて子ガラスたちは逃げます。

子ガラスたちは、逃げては引き返して、親に向かって「カーカー」と叫んでいます。

巣立ちなのでしょう。

つい一週間ぐらい前には、あんなに、連れだって訓練していたものが、非情なカラスの親心に、感心させられます。

世代交代かどうかはわからないけれど、命をつなぐ姿に、甘えてねだってばかりはいられない、都会に生きるカラスの親子でした。

今年も敬老の日がやってきた。
もう何年も前です。映画監督の新藤兼人が、《老人のこころは、そんな穏やかなもんじゃありません》と言っていました。

今、私も、ほんの少し老いに入る時期を迎えて、あらためて彼の言葉を噛みしめています。

そして同じ頃でしょうか、芥川賞作家の、大江健三郎が、《老いの知恵など聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい。》と自ら、老い真っ盛りの時期に発していました。

愚行と言えば、アインシュタインの、あの舌を出し「アカンベエ~」と言いながら、笑う姿に、老いのしたたかさを見ます。

誰に対して舌を出して、笑っていたのでしょうか?

老いて格闘する相手がじぶん自身であるなら、あのアカンベーを見せるのも、じぶん自身なのだろうと……。

「老いとは、じぶん自身の衰えを知る」ことから始まると思うのですが、そんな自分に、舌を出して「アカンベエ~」と、活き活きと愚考する老いの姿があると思います。

それはけっして、閑かな穏やかなものではなく、醜くもなく、美しくもなく、羞恥でもなく、汚らしくもなく、円熟でもなく、世に言う悟りでもなく、退けるものでもなく、だからこそ、老いは深く素晴らしく思えるのです。

この日になると喜ばしいような、まるで季節の到来でしょうか。

何回目になるのか、何十回目になるのか、こうして敬老の日を迎えられて、本当にお目出度いことと思っております。

「鴨はたつ 鯉はより来る 柏手に 下女は茶をくむ 猿沢の池」
知り合いの家を訪ねた。玄関から上がって畳の部屋に通された。

その家の夫婦と話が始まる。

お茶を飲み、会話がはずむ。すると、これも小さかった頃から知る娘さんが部屋に入ってきた。

高校一年生になっている。

部屋に入ってきたと同時に、そのままクルリと帰ろうとする。

すかざす「どうしたの」と声を掛ける。

「私が並んで居る場ではなさそうだから」と答えた。

「エッ」と、出ていく姿に、時の経ったことを思った。

そういえば、少し前だったが、大勢大人たちが居る場所で、自分の居場所を構えて、自分の時間を持とうとする姿を見たことがあった。

大人とは、何だろうか?

自分で判断できるようになることか。

でも、それは自分の思い。

こんな古歌がある。

「鴨はたつ 鯉はより来る 柏手に 下女は茶をくむ 猿沢の池」。

坐っても良いし、ひるがえっても良いし、「よろしくお願いします」と言ってもよい。

鴨になってもよいし、鯉となっても、下女になってもよい。

小さい秋
「お早うございます」と、道路を掃いていると、知らない人から声を掛けられる。
「ほんの少しですが、過ごしやすくなりましたね」と、こちらから声を掛ける。

「日中は、今日も暑くなりそうですが、これは”小さい秋ですかね”と。

詩人のサトウハチロー氏は、原稿用紙を前にして、布団の上に腹ばいになり、詩を書こうと模索していたのだろう。
ふと、外を見たら、赤くなったハゼに秋を感じて、この詩を書いたという。

小さい秋 小さい秋」と、自分を呼んでいるかのようなモズの声。目隠しをして遊ぶ姿が浮かんだ。

次に見つけた小さい秋は、曇りガラスの戸の隙間から秋の風の気配だった。それは北風による秋の気配だ。

次に見つけた小さい秋は、思い出なのか、そいうえば、 子どもの頃に見た 風見の鳥のその鶏冠(トサカ)は、庭先で秋の訪れを告げるハゼの葉のようだ。そのハゼは 入り日を浴びて秋の気配を一層増している。

この季節の変わり目は、誰の姿にも訪れている。面白いのは「誰かさんが、誰かさんが見つけた」と。

夏が暑くなった。まるで季節の変化がゴチャゴチャになっているかのようだ。それでも、四季がある。

四季があるから、変わり目がある。都会にもだ。

とぼとぼと横断歩道を去って行くお婆さんの姿に、早朝の過ごしやすさが、秋からの大きなプレゼントだ。