夢を見るのは誰ですか?
Oh My Buddha ! 何てこった!
プロフィール

岳さん

Author:岳さん
終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QRコード



小異を生かして大同につき、大同を生かして小異として生きる!
「全てを捨てて大同につくというより、小異を生かして大同につくことも十分ある」と、嘉田滋賀県知事の会見の要旨を朝日新聞(2012/11/28)で読み、目にとまりました。

もともと、自信を持って絶対に、小異は捨てられないものです。

人は、男と女は違うし、意見だけでなく、育った環境も場所も違うし、年齢も、経験も、能力も、それが個というものです。

世の中に、何一つ同じものはないし、その異なったものが、異なったままで同とは、仏教でも大きな問題です。

まして人だけが世界を思い描くことができるとすれば、独断もエゴも人の数ほど、人の主義集団ほどにあるものです。

問題は、現実をどこに置くかでしょうか。しかも、独断やエゴを除いてです。

独断とエゴを、自分の中に、集団の中に探してみれば、それを知ることこそ、必要ではないだろうか?

人間が未来にわたって地球に、世界に、日本に、地域に生き続けるということを大同とした場合、これに矛盾した論理において人間により創られたものは、やはり、未来に対して責任を持てないものです。

原子力により創られた電気に於いて、今の私たちの生活の根拠があるなんて、やはり未来に対しても罪です。

捨てることのできないものという辻褄の合わないものを、何百年ないし何千年と保管することなんて、どの時代の人も容認できないのではないでしょうか。

その時代は、未来の私も含めてですが、それでも今使うという人がいるとすれば、人間として誕生したことを考えていただきたい。

人間は死を含んで誕生したわけですから、その使命は、次の世代に引き継ぐ役目も背負わされているはずです。

このことは使命の中で、人も植物も動物も含まれた自然そのままに、次の世代としての人も植物も動物も含まれた自然そのものとして引き継ぎたい。

そのために、小異を生かして大同につき、大同を生かして小異として生きたいものです。


占い
不思議なもので、噂というものは、人から人へ、回り回って、何故か近づいてくるのだ。

まるで降った雨が地下水となって、流れ出すような……、それには時間がかかっているから、何年か経なければならないものもあるのだろう。

人から聞いた話だが、「大きな、決断には必ず占いに賭けるのよ」と聞いた。

まあ自分にとっての大きな決断のことなのだろうが、自分で決めたくないことなのか?

それにしても、どうでもいいことなのだが、だから「あっそう」なのだが、これがまた、まあ身近な人の消息だったりして……

何だってまた、職業柄とも思うが、決断して、最後に占いにまかせるのも面白いかな。

想定外という言葉の意味は、やはり、科学にしても経済にしても、思い描くことは常に机上であり、範囲とか規模とか時間とか、案外と自分にとって都合のよくないことは思い描きたくもないものだ。

もしかして、占いとは、それを補完するものなのかも知れないと思ったりする。

在るものがある、在るものが無くなる、無いものが在る、無いものは無い。

災害だろうが、身近な得失のことだろうが、すべては縁起だ。

その縁起に対して一喜一憂するのは常なのだが、自分だけはうらない。

そのうらない自分は、縁起に於いて在るのだから。

生老病死の山が迫ってくるとき、どうしますか?
久しぶりのブログです。

2日前ぐらいか、49歳のセールスが来ました。某証券会社だ。

その年齢は古株になっているという。

どこの会社も同じだが、高齢になった社員の数が圧倒的に少なくなっているのが今の多くの会社だのだろうか。

年金の制度がおかしくなるなも、こうした原因を考えてみると、加担している罪もあるのだろうな。

そのセールスが言った。

「親戚の叔母が亡くなったのだが、何本ものチューブにつながれて生きながらえる姿を見て、高齢者の医療を考えてしまった」と。

そして、「僕は、あの姿を見て、延命治療はつくづく罪だと思った。過剰な医療は施してもらいたくない」ですと。

「わかるな~確かにね。今、元気なうちはそうだ。今考えること、思うことは大切にしたいが、明日、思いは変わるし考えも変わるときがある。震災の時がそうだった。私は、その都度その都度という言葉になれているので、またその時考える。チューブにつながれたいっときの人世も、素晴らしい時間かも知れないから。」

命の歴史は、数えられない年数の歴史だ。

何世代、何十世代、何百世代、何千世代にわたって誕生した私ではないか。

誕生を、意識して生まれてきたわけではない。誕生に意味をもたせることが出来るのは、誕生後だ。

たとえ人の意識がなくなっても、考えることもできなくなっても、生きることは生かされていることと裏表だし……

夜眠っている時間は、記憶を造れない。その眠る時間は、因果に随っている時間でもある。

歩むことも歩かさられてのことだし、歩むことで時間も誕生していることを思えば、チューブに繋がっていることは生かされている時間となる。

かなり強引だが、どちらにしろ、人は生かされて生きるし、生きて生かされることに間違いはない。

医療とお金の問題は切り離して考えたいものだが、そうはいかない時代になってしまった。

選択の余地というと、自分が生きる場合だが、生かされていれば、選択はなく、流れのままだ。

しかも生きるといっても、そのつどの今のことで、時代に浮かぶ泡のような自分の意見かも知れない。

49歳で、叔母の90歳と比較すること自体が途方に暮れる。

49歳で、自分に潔さを決めたとしても、それは今のことで、自分が90歳になったときのことは別だ。


玄沙広録という禅の本にある公案だ。
問い、「生老病死の山が迫ってくるとき、どうしますか?」
師、「まさにピッタリと言い当てたな。」
「それを体験されたのですか。」
師、「お前さん、何を四つの山と呼んでいるのだ。」

今はブログを書いているのですが……