体罰

2013/01/22 17:47
しかられて喜ぶ、けなされても嬉しい、たたかれても向かう気が起きなければ道場では過ごせなかった。

逆に無視されては頑張った。思うに褒められたことなどなかった。

私が修行した時代、禅の道場ではごく普通の日常だった。

師は自己に厳しかった。とてもじゃないが……師の人生の全てを賭けて生きている姿で対してくれた。

だからこそ、師を誇りに思ったし、仰ぐ存在だった。

そういえば、修行道場では誰が優れていて、劣っているという比較は皆無だったことに気づく。

それぞれに具わったている能力とか、分に随っての畳一畳の世界を与えられていたのだ。

道場を去るときに、師から云われた。しかもコンコンとだ。

「道場に準じた日常として過ごせればよいのだが、そうでなかったら、ここでの暮らしを考えながら精進しなさい」と。

師が、道場を去ることで案じてくれた言葉だった。

去ろうとしたときの師は、仰ぐ存在には変わりがなかったものの、慈しむもの、壊れるようなものになっていた。
それは道場で修行した期間すべて、師の全てを注いでくれた時間であり、これから独り歩む杖となる時間であった。

修行の道場のように共に暮らして、共に同じものを食べての師など普通いない。

学ぶという教育において、絶対に学ぶだけでは手にできないもの、それは人格ではないかと考える。
それは人と人とが大袈裟だが命がけで相対してこそ、移ったり、生じたりするものとしてだ。

それの実体は何なのだろう?

体罰をもって子どもの能力を伸ばそうとすることは、逆に、その先生の能力の欠如を表すものです。
先生により傷つき、心に矢が刺さった子どもから出る能力があるとしたら、それは何で、どこからだろうか?

人格と云ったけれど、その人格という意味を持つものなどあるのだろうかとも考える。

私にとって師の人格とは何だったのだろうか考えると、師の全てをさらして、投げ出した末の謙虚さだったのではないかと気づいた。

師弟においても、仕事において上司の関係においても、弟子を認め、部下を認めるという基盤は、師の先生の謙虚さだ。

思いだけでは押し付けになり、負担になる。ましてその思いから体罰では、人を認めたことにはならない。

認めることに於いて人格は成り立つ。

人格は、他の人格に対して人格となるともいえる。

人格とは、思いではなくて、謙虚さだ。

昨夜妻と見た映画、キリンの翼が同じことを語っていた……

挨拶

2013/01/17 13:14
年末の「よい年をお迎えください。」で年を越し、新年を迎え、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します」で年明けになります。

さて、本年はどんな年になるやら……です。

さて、家庭を壊し、地域を壊し、国をおとしめ、世界を混乱にさせる人の多くに共通点があるという。

一つには、人の言葉の発する源を見ようとしない。
二つには、ありがとうとか、お陰様でという思いの湧く場所に気づかない。
三つには、いつも自分の思いでいっぱいの人。

これらに共通することは、省みることが出来ない人、自分がいつも正しいと思いっている人でしょうか。

「よい年をお迎えください」も「明けましておめでとう」も、自分に対して言う思いではないですよね。

自分のことは、後回しに出来る人の言葉で、「お陰様で」も「させて頂きます」も、言葉はいつも自分を後回しです。

こうした観点でニュースを見たり、新聞を読むと、また違った世界が見えてくるような……

今年は、違わないようにしよう。

賀状

2013/01/03 17:58
お正月も3日入って、今年の賀状が妙に気になった。

相変わらず謹賀新年と「今年もよろしく」という通年の挨拶が多いことは多いのだが、それに混ざって社会問題や紛争、震災への思いなどの問題を書き込んでいる人が多いことだった。
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謹賀新年

2013/01/02 10:52
昨年30日に葬儀があり、本年は4日より通夜がはじまります。

昨年の正月も同じようなものですが、大晦日に訃報を頂き、遺族と話して、故人を思い出し考えて通夜葬儀の内容をずっと考えています。

もう30年以上前になるのだろうか。修行から帰ってきて、しばらくはサラリーマンをして残業残業の毎日でした。
今でも思い出します。暫くぶりにお会いした修行道場の老師は、「岳さん、顔が変わったね……」と。

それ以上は言わなかったもの自分でもわかります。人相が変わったと……

お寺では住職が老いて、老夫婦が毎日のお勤めを果たしていました。

そろそろ潮時と、サラリーマンを辞めました。

生活は変わって、人が私を見る目も、形が変わったこともあり、視線が刺さります。

もちろん刺さらせるのは私なのですが、その刺さった矢を抜こうと考えたことが、法要の現代語化(私は日本語化)でした。

すでに20年は超えています。

昨年末の葬儀にも、翌大晦日に施主よりお礼の電話があり「娘が、あんな葬儀初めてでした。感動しました」、「有り難うございました」の言葉でした。

法要のそのたびに、お礼を頂きます。

そのたびに、責任を課せられます。重たくです。

この法要を私たちにもと、とある葬儀社からの依頼もありました。少しならお手伝いできますと応えたのが昨年の正月でした。

この1年の忙しかったこと。おまけに、一昨年の9月に私の町の町会長が亡くなり、無理やり町会長についてしまいました。

これも責任です。しかもその責任は後継者を大勢作らなければなりませんし、町会自身の内容も変化して行きます。

そして今年の正月、お寺には「山中暦日なし」という言葉がありますが、まさしく暦日なしです。

少しでも時間があれば、連日、夜遅くまで本を読み、考え、記録して、備えなければ現実の言葉の鋭さ、感動を生めないからです。

でも喜んでもらえれば、そして、何よりもゆだねて安心してもらえれば嬉しいと思っています。

結ぶことは結ばれることですが、同時に、結ぶことにおいてお互いが独立とした関係に分離しなければ意味を持ちません。

滋賀県の嘉田知事は「小異を捨てて大同につく」ことを疑問に思い、「小異を捨てないで大同につくこともあるのではないですか」とハナされました。

小異を大切にすることは、その小異の個の一人一人が大同を考えて、小異のあり方を模索しなければまとまりません。

お寺も同じです。地域も同じ、国も同じです。

その模索するのは人です。そのことを思って、今年も一人一人を考えてまいります。

忙しいことですが……
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