一年ぶりに便りが来ました。
「郡山に住んで、その庭から、はるか遠く雪をかぶった安達太良山が望めます。
最近は青空も多く、空気も澄んでいるように思えますが、いまだ原発の放射線も所によって高いのです。
原発から、55キロ離れていますが、庭に作物も植えることも出来ません。
未だに、心もすっきりせず、県民の笑顔はいつ来るのかと……そんな日々を送っております。」
人生の不思議は、人はどんな縁で動かされるのか、動かされてみなければわからない。
郡山に移り住んですぐに、東日本大震災に見舞われた。原発もだ。
あの日、一週間ぐらいか、通じない電話を、それでもつながることを願って受話器を握っていたことを思い出す。
2年過ぎたが、心の中では、全く過ぎていないのは、こちらも同じだ。
考えてみれば、戦後68年過ぎたが 、まだ終わっていないに似ている。
終の棲家になるのか、わからないが、やっと見つけた老いの幸せを、安達太良山は見ているのか?
ここ下町では山が見えないが、私が幼かった頃は四方に山に囲まれて暮らしていた。
選んだ故郷は、選ばれた故郷でもある。
それでも幸せになって欲しいのです。
2月の末だった。深川四ヶ町の会合があった。
年間3回の会合であり、2月は四ヶ町で預かっている、冬木弁天での戦災慰霊法要の件であった。
とある識者から、「慰霊法要も、50年が過ぎて、後継をになう者も高齢者になって、いつまで続ければよいのだろうか。若い人も振り向かなくなり、ソロソロ辞めてもよいのではないか?宗教人としてどう思うか?一つ意見を聞きたいのだが?」と、私に名指しで、意見を求めた。
多分、今年で68年目になると思うのですが、いつまで続くのか、続くとしたらその意味を私に求めたのではないとかと察しました。
さて、私としては宗教人としての自覚はそれほどない。
お寺を預かるものの、頭をすり、寺守墓守として、掃除をして、お経を読んで、お檀家さんと親しく接し、ひたすら考えて、後継者を育て、あまった時間を地域の時間に費やすことをしているだけです。
私はこの寺の世代を継いでいますが、中継ぎの存在です。
さて、昭和20年8月15日をもって昭和の戦争は確かに終わりました。いまだに終戦という言葉を使っています。もっともネットでは敗戦という言葉が多いような……
連合国やアジアの国も、戦勝国というわりには、敗戦国と、日本の政府もマスコミもあまり言わない。
戦争の大義は、「米英二國ニ宣戰セル所以モ、亦實ニ帝國ノ自存ト、東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」です。
8月15日、この詔勅がなかったら、次の原爆が落ち、内陸部まで焦土となり、それこそ一億玉砕となっていたかもしれない。
これより重い発言をした政府や軍部はいたのだろうか。
多くは東京裁判があると黙したのではなかったか。そして現場は資料を廃棄した。
今さらながら、この内容とかなり方向が違っていたのではないかと……この通りの物語なら戦争はなかった。
本当に終わっているとしたら、北方四島の帰属も、慰安婦問題も、南京の虐殺の検証も詳しいことはわからないが、何で苦しく引きずっているのでしょうか?
海外でも日本でも、子孫も含めて、その影響は今も続いている現実があります。
日本は終わっているというが、海外では終わっていないという。
推論として、多分ですよ、戦争の考察というか、綿密な計算もないし、政府も軍部も、ズルズルと戦争になっちゃったような?
そして思うようにならないから、当時の政権はたらい回しに代わって…………
せめてというか、英霊という名に祭り上げられてしまった。
だから、戦争は終わったというが、戦争は終わっていないのではないかと思ってしまう。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」
「擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ、世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」
「子ども達に語り伝え、日本という国に自信を持ち、重い責任であり道は遠いことでもあろうが、日本の未来に皆で協力して、志操をかたく、国のあるべき様をめざして、世界の進む方向に遅れ違わないようにと」語られた内容に、今沿っているのだろうか。
3月9日、深冬会四ケ町は冬木弁天で戦災殉難者慰霊法要を午後2時30分より厳修します。
趣旨に、その通りと思う方々がいたら、是非賛同して、参加してくださいましたら、四ヶ町の一人として嬉しく思います。
法要は30分ぐらいでしょうか。
慰霊法要ですが、不戦、非戦を後世に残す法要でもあると考えることはできないでしょうか。
そして地域の殉難者に対して語り継ぐこととしてです。
考えてみれば、どんな戦争も、大義はあるかもしれないが、結果としてただ積み上げたものを壊すだけのことです。
ただ命が散るだけです。
ただ無駄なエネルギーを捨てるだけです。
馬鹿馬鹿しいことに頭を費やすだけのことです。
ちっぽけな物語だけのことです。
2011年3月11日、東日本大震災が起きた。未曾有の出来事に、陽岳寺としては、毎回の法事に震災をテーマに法要を続けています。
最初は、特定の個人への廻向ではなく、必ず震災で亡くなられた人たちに対して忘れないという思いを込めて廻向をすることに、違和感がありました。
ですが、今ではごく自然のこととして、受け入れられているようです。
それは、個人の家の中では、こうした法要に参加することは少ないことと思うことと、普通の日本語で展開する法要に出会ったことがないからと思うからです。
さらに思ったことは、お経を今・ここに生きている人に対しても、強烈に意義のあるものだと考えていただきたいと思ったからでした。
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このお経は、私たちを含めて世界の一切の成り立ちを説いたお経です。縁という結びつきと、その結ばれ方を説いたものです。だから、生きている人も亡くなった人も、未来に生まれる子供も、世界を含めて説いています。
東北地方太平洋沖地震と津波の影響で、この世と引き裂かれて亡くなられた方々、今も多くの悲しみを秘めた心から苦しんでいる方々、未だにどうしてよいのか立ち直れない方々、そしてあれからずっと時が止まった方々、その方々のために今も「忘れない、東北!」という思いが寄り添うことになると思っています。
今も避難している方々、除染、復興にたずさわる多くの方々、津波にも地震にも被災しなかったけれど、痛みとして心がふるえ、見守ってくれる方々。その方々のために、今も「頑張れ東北!」という思いが必要と思っています。
もちろん、今日の法事の主人公として、あなたに感謝を捧げるとともに、ご冥福を祈るためでもあります。
さらに、本日参詣された家族のためにも、ご多幸、ご無事、ご健闘を、般若心経にて、お祈りいたします。
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さて、あの日があり、翌日のことでした。何ができるだろうかと咄嗟に考えました。
新命住職に、「法要として、何かしなければならない」と伝えました。
新命住職も、共鳴して深く心が痛み、何ができるだろうか考え、「ただ生きる」ことを願いとして、そして「つながっているぞ」を希望として法要の中身が、あっという間に作られました。
それ以降、2年が経ち、毎月のように新しいテーマを探し、月に改訂を繰り返し今日に至っています。
お寺の歴史の伝承は、廻向の伝承であるとも思い描いていました。しかし、今は、特に3.11以降は完全に自分の中で砕けました。
神社の祝詞の中で「鎮めたまえ。鎮めたまえ。」と聞いているうちに、日本の歴史から「鎮めたまへ」しかない意味を考えていました。
いい言葉だなと。
もちろん仏教の廻向の中には、護国安泰、豊作祈願、平和を唱えます。
ですが、自分の中では、その言葉が漢文あるいは訓読という様式化で人に伝わらない日本になってしまっているのです。
従って、法要の中身も形式化してしまって、幾度となく聞いていても、耐えられなくなっているのではないかと、子どもの様子に気づけばなおさらです。
「もう終わった!」と……
今年も法要の結びとして、『神々、佛、菩薩たちへの祈り』の廻向を唱え続けます。
在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。
在るものを在らしめる神々よ
在るものを無さしめる神々よ
無いものを在らしめる神々よ
無いものを無さしめる神々よ
空や山や川や海を、穏やかに安んじたまえ。
町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。
少しでも、東北が元の姿に近付くことを願っています。