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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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落書きに
今どんな気持ち?とフェイスブックは聞いてくる。それに対して「憤慨、何てことを!罰当たりとは言わないけれど、大馬鹿者の犯人を捜せ!」と。 平成25年11月9日(土)朝、落書きを発見した。 深川一丁目交差点は、事故が多く、何とか事故を減らせないかと、交差点に接する塀の壁は白く塗ることで交通事故は激減しているのです。 その壁を落書きするとは、自分のことしか頭が回らない、自分の中に戒めを持たないことを表現するものです。 最低とは言わないけれど、自分の中に、「嘘をついてはいけない、盗んではいけない、深酒に犯されるな、欲望の虜となるな、そして人を傷つけ殺してはいけない」という持戒を持ち続けることで、人は、人と人との暮らしの中に、自由を生きることが出来ると思っています。 そしてこの数少ない戒めを一つに集約すれば、『人が人として生きてゆくことの中で、自分に対して、いつも素直であり続けたい』と言うことが、この五つの戒めを網羅しているのではないかと思うようになりました。  これは、他人はこれに反することはあっても、自分は非難し、中傷し、貪らない、害しないという決意であり、これこそが人の行為の、自立への拠り所です。  拠り所の基本は、苦しみ、囚われを無くそうとする努力であり、言い換えれば、自由を欲する者こそ、自らを律するものを持たなければならないのでしょう。  戒めは、自由への讃歌とも言えるものです。人と人との縁起を慈愛に満ちて育てることが、自己を見つめ、考えることを、自己において強要します。戒とは、始めであり、拠り所であるともいえるのです。  人が社会で、理解できないことを学ぶことも、その行為も、そのことによって、社会・法則・ことわりの道を模索することとすれば、今、生きている場所や生きる方向を考える糧です。そこで、いつも自分に対して正直であり続けたいと思うことは、人の本心ではないでしょうか。  ですが、そうは思っても、現実はそのとおりには行かないものです。でも、「いつも正直であり続けたい」と、このことに関してなら、自分に優しく、厳しくと、人は悔い改めることができるはずだと思っています。 この落書きは、塗装店に依頼して消すことを依頼しました。 落書きをした本人へのお説教です。
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語り得ぬこと、それでも
長い間、住職をしていると、本当に人の生き死にに関して、感覚が慣れてしまうことが多いのです。

その感覚を研ぎ澄ますためには、人を見ることが何よりも大切なことです。

例えば、訃報をいただき、その訃報は常に突然のことであり、驚きます。

家族と親戚と話しを聞くうちに、何の病気か、入院は何ヶ月か、手術は成功したのか、ただただその間の経過を聞くうちに、病名や経過におわれてしまうことがとても多いのです。

人間を問題にする場合、病名や経過はただの時系列のことであり、問題は、その病気ばかりに目を奪われて、背負った人間が見ることがおろそかになってしまうことに気づきます。

ガンは完治したというけれど、完治した人間は、未だに自分の何処かに背負ったままに生きている事実をです。

一刻一刻、一日一日、押しひしがれそうになっても生き抜こうとする人間の悲しさ、たくましさ、はかなさ、強さ、そんな中でも湧き出でる笑い、安らぎ、混在となって生きる姿勢に気づくことが何よりも必要なのにです。

当たり前のことなのに、そこに、人間としての命があるのだと思っています。

そんな一刻一秒の出会いの命の積み重ねである人間を、語ることなど至難のことです。

知ることも出来ない事実に、でも人は向き合わねばならない。

親しければ親しいなりにです。接すれば接するほどにです。

それでも語ることを怠ってはならない。語るためには観念や思いが必要だとも思っていますが、実は、知るということは、観念や思いとは全く次元が違うことです。

病人や身をもって知り、背負ったものを、家族はどう知ればよいのでしょうか悩みます。

言葉では言い表せないものを、それでも語ること。

語り得ないものを語ることに、人間の命が少しは見えてくるのだと、そのことは、自分が見えてくるこだとも、固く信じています。

そして語るうちに、ただ願うことは、家族がいつか、出来ることなら早く、今の哀しみが、「ありがとう」と笑みを浮かべて言える日になればよいことを願っています。