毎日新聞、平成25年5月23日朝刊に、面白いジョークの記事を見つけました。
沈みかけた船に、イギリス人、ドイツ人、フランス人、そして日本人の乗客が大勢乗っています。
船長は、乗客を助けるために、それぞれの国の人たちに、海に飛び込ませようと考えました。
イギリス人には「飛び込めば、貴方たちすべて本物の英国の紳士淑女です」と、ドイツ人には「この船はやがて沈んでしまうでしょう。
この船の規則では、船長の指示に従って海に飛び込まなくてはなりません」と。
フランス人には「この船は、すぐにでも沈んでしまうでしょう。そうであっても海に飛び込んではいけません」と。
そして日本人には「この船は今、沈もうとしています。あなた方日本人の方々は、みな海に飛び込んでいます」と。
これはイギリス人の固苦しさ、ドイツ人の規律好き、フランス人の傲慢さ、日本人の協調性という国民性を表すものだそうです。
西暦604年、推古天皇12年に、聖徳太子が作ったとされる十七条の憲法の第一条は、「和をもって貴しとなす」とあります。
当時の日本は、大という字に、亻偏に、委(ゆだ)ねる(まか)せると書き、「大倭国」と書いて、その意味は、大きく稲の穂が垂れた国という意味でした。
大和(やまと)という国になったのは、十七条の憲法が出来てから150年ぐらい経ってからです。
飛鳥時代から奈良時代の半ばになって、やっと大和という国の基本が調ってきた頃なのでしょうか。
西暦757年、天平勝宝時代であり、その頃になると、活発に遣唐使が派遣され、東大寺の大仏開眼、唐の国より唐招提寺の鑑真和上が来日し、聖武天皇の遺品を正倉院に納めた時代です。
日本という国が統一に近くなってきたのか、あるいは、統一をしたものの各地区の思いや意見が違ってきたのか。
「和をもって貴し」のあとに、「逆らうことなきを宗とせよ」とあり、「和」を大きな一つという概念にしなければならないと思ったのでしょう。
聖徳太子は、三経義疏(さんきょうぎしょ)といって、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんぎょう)・維摩経(ゆいまきょう)の訳注を書かれました。 法華経と勝鬘経は、すべての一人一人が、自らを律することを宗とし、他者を利することを心がけることを共有しての、「普段の生活の中での心がけ」といったらよいでしょうか。
勝鬘経は、王様の娘で勝鬘という婦人が、真理への自覚まではと、生活のありようを釈迦が認めたものです。
こんな内容があります。
《世尊よ、今後、私は自分自身の享楽のために財産を蓄えることはいたしません。
ただ、世尊よ、貧乏で苦しんだり、身寄りのない衆生を成熟させるためには、大いに蓄えたいと思います。
世尊よ、この第六の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。》
和は、様々な意味を持っていることがわかります。和は他者に向かうとき、敬い、いたわり、思い、自分に向かうときは、誡め、国というものを、真理、菩提、悟り、国が一つになるためにです。
ところで、深川のお祭りで、神輿をかつぐ言葉は、「ワッショイ!」に統一しています。
古老は言ったものです。
「子どももお年寄りも、男も女も、貴賤に関係なくワッショイ!だ。このとき地域が一丸となって和を背負うのだ。それは、それぞれの分をもって、各自の担う務めを果たしながら一体となることだ。それが各町の競(きそ)いと言うことで、何も優劣とか一番とか言うことではない」と。
「和をもって貴し」の和を、協調性や、みんな一緒、となり組。極端な内容になれば村意識、一体感、「バスに乗り遅れるな」などと、過去の歴史には、利用されてきたことがありましたが、みな片方ばかりからの誤った見方でした。
維摩経が含まれていることから、「和をもって貴し」という発想には、「和して同ぜず」、という哲理も含んでいます。
人の集いは、人種で言うなら、肌の色も様々でありながら、出生も様々、生き方も様々、宗教も、考え方や見方も様々で一つでありながらも、「同ぜずして和す」という哲理を含んでいます。
人が、一瞬を生きることに於いては、肌の色も出生も生き方も宗教も考え方や見方もないに等しいにかかわらず、何故、世界は、こうも激しく対立するのか?仏教は、相対することで世界が成り立っていると現状を説きます。
自己と他者も対立することで成り立っていることに、他者を利するとは、自己をなくして他者に尽くすと読めないでしょうか。
そこで、「他者を利して、分を持って生きる」とは、分とは居場所ということですが、その分は関係により時間により様々に変化するものです。
その変化する分を徹して一瞬を生きることが、他者を利する行為となります。また利するとは、他者になって聞く、見る、行うことといえますが、そこには、対立するものはありませんし、いさかいやいがみ合いはありません。
ここから、それぞれの分というものにおいて生きることとは、「同ぜずして和す」という意味が含まれています。
聖徳太子の講じた維摩経は、不二の法門を説きます。
不二とは、相反するものは互いに根拠として成り立っている現象に、その根拠から見れば、根拠を持つこととは、自分に根拠は無いという矛盾を含んで相い対立している事実を直視することとなります。
世界の具体的現実は、もともと自者は空において成り立っているからこそ、諸々の関係においてスムーズに事が運ぶのですが、その空に我が入り込むことで、とらわれとなって自由に働くことができなくなることを考えさせています。
「和をもって貴しとなす」には、「和して同ぜず」、「同ぜずして和す」を含むことから貴いのだと理解できます。
沈みかけた船に、イギリス人、ドイツ人、フランス人、そして日本人の乗客が大勢乗っています。
船長は、乗客を助けるために、それぞれの国の人たちに、海に飛び込ませようと考えました。
イギリス人には「飛び込めば、貴方たちすべて本物の英国の紳士淑女です」と、ドイツ人には「この船はやがて沈んでしまうでしょう。
この船の規則では、船長の指示に従って海に飛び込まなくてはなりません」と。
フランス人には「この船は、すぐにでも沈んでしまうでしょう。そうであっても海に飛び込んではいけません」と。
そして日本人には「この船は今、沈もうとしています。あなた方日本人の方々は、みな海に飛び込んでいます」と。
これはイギリス人の固苦しさ、ドイツ人の規律好き、フランス人の傲慢さ、日本人の協調性という国民性を表すものだそうです。
西暦604年、推古天皇12年に、聖徳太子が作ったとされる十七条の憲法の第一条は、「和をもって貴しとなす」とあります。
当時の日本は、大という字に、亻偏に、委(ゆだ)ねる(まか)せると書き、「大倭国」と書いて、その意味は、大きく稲の穂が垂れた国という意味でした。
大和(やまと)という国になったのは、十七条の憲法が出来てから150年ぐらい経ってからです。
飛鳥時代から奈良時代の半ばになって、やっと大和という国の基本が調ってきた頃なのでしょうか。
西暦757年、天平勝宝時代であり、その頃になると、活発に遣唐使が派遣され、東大寺の大仏開眼、唐の国より唐招提寺の鑑真和上が来日し、聖武天皇の遺品を正倉院に納めた時代です。
日本という国が統一に近くなってきたのか、あるいは、統一をしたものの各地区の思いや意見が違ってきたのか。
「和をもって貴し」のあとに、「逆らうことなきを宗とせよ」とあり、「和」を大きな一つという概念にしなければならないと思ったのでしょう。
聖徳太子は、三経義疏(さんきょうぎしょ)といって、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんぎょう)・維摩経(ゆいまきょう)の訳注を書かれました。 法華経と勝鬘経は、すべての一人一人が、自らを律することを宗とし、他者を利することを心がけることを共有しての、「普段の生活の中での心がけ」といったらよいでしょうか。
勝鬘経は、王様の娘で勝鬘という婦人が、真理への自覚まではと、生活のありようを釈迦が認めたものです。
こんな内容があります。
《世尊よ、今後、私は自分自身の享楽のために財産を蓄えることはいたしません。
ただ、世尊よ、貧乏で苦しんだり、身寄りのない衆生を成熟させるためには、大いに蓄えたいと思います。
世尊よ、この第六の誓いを、私は菩提の座に到達するまで厳守します。》
和は、様々な意味を持っていることがわかります。和は他者に向かうとき、敬い、いたわり、思い、自分に向かうときは、誡め、国というものを、真理、菩提、悟り、国が一つになるためにです。
ところで、深川のお祭りで、神輿をかつぐ言葉は、「ワッショイ!」に統一しています。
古老は言ったものです。
「子どももお年寄りも、男も女も、貴賤に関係なくワッショイ!だ。このとき地域が一丸となって和を背負うのだ。それは、それぞれの分をもって、各自の担う務めを果たしながら一体となることだ。それが各町の競(きそ)いと言うことで、何も優劣とか一番とか言うことではない」と。
「和をもって貴し」の和を、協調性や、みんな一緒、となり組。極端な内容になれば村意識、一体感、「バスに乗り遅れるな」などと、過去の歴史には、利用されてきたことがありましたが、みな片方ばかりからの誤った見方でした。
維摩経が含まれていることから、「和をもって貴し」という発想には、「和して同ぜず」、という哲理も含んでいます。
人の集いは、人種で言うなら、肌の色も様々でありながら、出生も様々、生き方も様々、宗教も、考え方や見方も様々で一つでありながらも、「同ぜずして和す」という哲理を含んでいます。
人が、一瞬を生きることに於いては、肌の色も出生も生き方も宗教も考え方や見方もないに等しいにかかわらず、何故、世界は、こうも激しく対立するのか?仏教は、相対することで世界が成り立っていると現状を説きます。
自己と他者も対立することで成り立っていることに、他者を利するとは、自己をなくして他者に尽くすと読めないでしょうか。
そこで、「他者を利して、分を持って生きる」とは、分とは居場所ということですが、その分は関係により時間により様々に変化するものです。
その変化する分を徹して一瞬を生きることが、他者を利する行為となります。また利するとは、他者になって聞く、見る、行うことといえますが、そこには、対立するものはありませんし、いさかいやいがみ合いはありません。
ここから、それぞれの分というものにおいて生きることとは、「同ぜずして和す」という意味が含まれています。
聖徳太子の講じた維摩経は、不二の法門を説きます。
不二とは、相反するものは互いに根拠として成り立っている現象に、その根拠から見れば、根拠を持つこととは、自分に根拠は無いという矛盾を含んで相い対立している事実を直視することとなります。
世界の具体的現実は、もともと自者は空において成り立っているからこそ、諸々の関係においてスムーズに事が運ぶのですが、その空に我が入り込むことで、とらわれとなって自由に働くことができなくなることを考えさせています。
「和をもって貴しとなす」には、「和して同ぜず」、「同ぜずして和す」を含むことから貴いのだと理解できます。