スポンサーサイト

--/--/-- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

よりどころ

2014/02/22 10:29
 私たちは、今、何を、生きるよりどころとしているでしょうか。

 家族や夫婦・友達や子ども、学校、仕事、趣味もあるでしょうし、お金もあります。

 考えてみれば、そのより所とは、全て関係・結びつきであり、その中に変化し変わり続ける暮らしに、たたずむ自分であることに気づきます。

 その結びつきは、過去と未来に結ばれた、時間と場所である今に気づくと、いかに自分が問われているかと、その問いの中に答えはあるはずなのです。

 人は多く結ぶということを、結ぶ以前に、結ぶものが先ずあって、それが結ぶと考えているのですが、このことも、もう一つの見方は、結ばれたことによって、その結ばれた相対する双方が、同時に、分離独立して、成立するのが現実的な仏教的な見方です。

 谷川俊太郎氏という詩人は、鋭い人です。こんな詩があります。

「さびしいと感じるとき、ぼくは孤独ではありません。 ぼくは、その時、他の存在を予感し、さびしいと感じることで、かえってそれらと結ばれているのです。」と。

 寂しさにおおわれ、ひとりとなることで、それは却って結ばれているからだということに気づくことのなのだと……

 もし、寂しさや悲しみを感じることができない人がいたとしたら、その人は、鈍い人だといえないだろうか。

 しかし、寂しさだけにおおわれるのとは、ちょっと違って、その寂しさの原因に気づかなければ自分を理解していないことになる。

 さて仏教の考え方は、自分を知ろうと、理解しようとした瞬間に、知ろうとする自分と、知る対象としての自分に、分離することに気づかなければならない。

しかも、その分離したことで、却って、知ろうとした自分と、知る対象の自分とが、結びついた事実に気づかなければならない。

このことは、自分を知ろうとしている自分は、知る対象としての自分に根拠をもっていることにです。

そして、同時に、知る対象としての自分も、自分を知ろうとしている自分に根拠を以って成り立っていることに気づくのです。

そして、この根拠にして、あるいは拠り所にして、仏教は縁にして、と言うことですが、逆に、縁が無ければ、根拠がなければ、今の立場はないのですから、知ろうとしている自分も、知る対象としている自分も、共に、二人の自分は、互いに根拠としていることなのですが、これは、互いに自己を否定して、この関係が成り立っている事実が浮かび上がります。

 仏教は、このことを、互いに矛盾を媒介として成り立っていることと言います。

そしてすべての相反する、相対するものの関係までもが、矛盾を媒介して結ばれ、結ばれることで分離するとして、縁起や因果の法則として完成させています。

 知ろうとするものも、その対象も、もともと含まれて一つであることを、二つにする人間のはたらき、あるいは、染みついた習慣を、現実の有り様として見つめます。 

もともと、心は物質で無いのですから、物質の世界には属していません。しかし、そうは言っても、心はモノと全く別なものでも無いことから、物質のない世界にも属さないということができます。

 すると、心の属する世界はどこにもないはずの、それが、本来自由で解放されていることの空や、無であるはずの、さらに言い替えると、空や無である心を、空ゆえに、つかまえることも、つかまえることができないことも、証明しています。

不可思議であり、言葉で表現できないもの、何ものでもないもの、しかし、把むことができるとしたら、意識が、感情が芽生えたときに、空や無を見つけることができると考えています。 

突然に湧いた感情は、人が心に写る、何かしらの対象に対して湧く感情や考えであり、次々と人の意識の表層に現れる波のようなモノといえばよいのでしょうか。

その波を捕らえる感覚さえ理解できればわかるはずです。

 谷川俊太郎氏の、「さびしいと感じるとき、ぼくは孤独ではありません。ぼくは、その時、他の存在を予感し、さびしいと感じることで、かえってそれらと結ばれているのです。」と。 

谷川俊太郎氏は、自分の中に、寂しさという感情を発見したとき、その寂しさの自分が分離したことになるのですが、直ちに、その分離した意味に気づくことで、他の存在と結ばれていたことが、自分の中に強く描かれていたと言えるでしょう。

 谷川俊太郎氏には、こういう言葉もありました。

「どんなに小さなものを愛してさえ、愛することさえ出来たら、私たちは孤独ではない。愛することで私たちは世界とむすばれている」と。

愛について、理解していることは、愛とは、結ぶということで、究極において、全体という大きなものとの、ひとつの力となります。

そして、結ぶことで、あるいは、結ばれたことで、私たちは、一人を発見する自覚が必要なのです。

 愛は私たちを生かすものです。

しかしそれは同時に私たちを死なしめるものでもあります。

それは、対象と、あるいは全体と一つに成ることで、自分をなくす意味をもちます。

どんな小さなモノでも、些細なモノでも、亡くなった人にもです。
スポンサーサイト

随縁行(ずいえんぎょう)

2014/02/02 17:12
禅宗の中国での祖である達磨大師は、四つの実践行を説いてます。その一つが、随縁行と言って、縁に随うということでした。

縁起に随う、因果に随うということです。しかも、縁が変われば、因果が変化すれば、おのずから、自己も変わらなければならない。

この内容は必ず、一方通行ではなく、両方向の動きで、私が動くことになります。

その内容は、雨が降れば傘を、私がさすのですが、同時の内容は、雨が降ることで傘をさすことを強いられることでもあります。私が興味を持って何物かを選んだとしても、同時に、選ばさられたものとなります。歩くことも、走ることも、歩かさられ、走らさられと。

それぞれの人の、今日すること、今することをする、ということなのですが、同時に、これは、させられての随縁行でもあるのです。因縁に任せるとは、任せられるという、動かしながら動かされ、愛しながら愛される、結んでいるから分離していることを見てと。

仏教は、「世間的な成功や失敗は、すべて因縁によるのであり、自分の心そのものは何の増減もないから、喜ばしい巡り合わせも動かされず、暗黙のうちに真理にかなっている。それで、縁に任せる実践をすすめるのです。命にしても、縁に任せて現れ、消えてゆきます。

『随縁行』は、因縁に随順する行為であり、「万物が自から虚であり、縁起であるのに随順する実践となる」と言っています。

私たちの普段の現実の行為を見つめれば、含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから独立している。

離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。生きていながら生かされている。無心となっていながら満ち足りている。色即是空・空即是色。この矛盾する関係の中の、有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧です。

そしてここから見えてくるものは、人は世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで人は存在するということなのです。

東北は、私たちが、いつものように、普段のままに暮らしていた、随縁行という生活、風景を一変させてしまった。

東北に山や川や海と、共に暮らしていた、それぞれの家々の中での普通の暮らし、当たり前の暮らしをです。

家々をつぶされて、ツナミに破戒され、放射能に汚染されてと、この犯した罪は、誰にあるのでしょうか。

七十年前に日本の各地が灰と塵になってしまったことも、それ以前に、アジアの国々を、結果として踏みにじったことも含めて、考えて見れば、歴史を詳しく観察してみれば、それぞれの時代の今に、見えていた、見えないものだったのではないか。

それこそ、三・十一以前の生活にとって一番大切なものが、私たちには、見えていなかったということなのです。選んで選ばれた、当たり前の場所で、当たり前に生まれ、あたり前に生きて、当たり前に死ぬという。
 Home 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。