非連続の連続

2014/03/07 14:13
  「ちいさなちいさな王様」という童話があります。アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァが絵を、奈須田淳さんと木本栄さんが共訳し、平成8年10月15日に講談社から出版されたものです。主人公は、平凡なサラリーマンをしている「僕」で、物語は王様との不思議な経験談です。

小さな小さな王様は、自分の誕生を語ります。
 「おれはだな、ある朝、ふいにベッドで目覚めたのだ。それから仕事をしに王子の執務室にいったのさ。実に、単純なことじゃないか。おなかのなかにいるだと?ばかばかしい!人生というのは、ある日起き上がって、それですべてがはじまるのだ」と。

 王様の人生は、それからどんどん身体が小さくなって、小さくなればなるほど知識も忘れて、やがて、老いが訪れるようになると、仕事もしなくてすむようになります。
 食事も誰かがくれて、頭の中には、忘れれば忘れるほどに、真っ白な自由が空間ができて、そこに遊びや空想で埋め尽くされるようになります。
 現実を何をして遊ぼうかと、何しろどんどん小さくなってゆくわけですから、禁則はなく、ビックリしても、驚いたり、怖がったり、笑ったり、大声を出したり、空の星々に名前をつけたり、雲と遊んだり、何をしてもかまわない大きな世界をもつことができる。

 人生経験が豊富という意味も、何かを詰め込むことではなく、ものごとを判断することでもないが、実に、世界がよく見えて、よく聞こえ、思いも無限大という世界に生きることができるからこそ、王様なのだろうというお話しです。

私がこの本を読んで最初に思ったことは、王様はある朝ふいにベッドで目ざめた時が誕生であり、それ以降は、どんどん小さくなって、その先は小さすぎてわからないということが、それでは、誕生もなければ、死もないということでした。 それは、別な意味で、まるで人間のようだと。

 それに朝目ざめた時は、目ざめた者にとって、誰にとっても、今日初めてのことであり、人生にとっても初めてであり、これは、夢ではない。 でも、人は、夜、夢を見ていながら、昼も夢を見続けていることに気づかないものです。私も。

 そこで逆転を考えれば、私が何やら夢見ているより、夢を見ている私というほうが、より現実的な私となることです。
行為の中の私こそ、現実的実体的な私と聞こえてきます。
  夢と現実という相反するものが、反するが故に結びつくとしたら、結びつくことで、分離するという現象は、夢を持ち続けながら現実を大切にすることで、結ばれたものが分離していると思えるのです。現実は夢を根拠にして、夢は現実を根拠にしてある姿に、大きな夢も、小さな夢も、夢に変わりはない。

 夢と現実の結びつけ方により、夢が夢でなくなるときがあります。
 というより、夢と現実が一つになるということなのでしょうが、夢は、現実のコツコツにあり、コツコツがなければ、単なる願望になってしまうし、夢がなければ、単なるコツコツでもあります。

 インドの昔話で、山火事で燃えさかる炎に向かって、1羽の小鳥がくちばしに含んだ水を落とす故事がありますが、その行為によって自己が成り立っている事実が尊いのだと教えてくれます。

 もちろん意味も大切です。夢も大切です。願望も大切でしょう。しかし、意味も夢も願望も絶した一瞬一瞬の行為がなければ、意味も夢も願望も消えてしまいます。
《僕(物語の主人公)と私は、似ているなと思った。二人とも、押しつぶされそうな現実から、逃げることも、受け入れることもできずにいた。大人になるという事は、夢を捨て、現実を見つめる事だと思っていた。
 でも、王様は、こう言った。
 「おまえは、朝が来ると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事に追われている夢をみている。 そして、夜ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。よっぽどいいじゃないか、そのほうが」と。 私はこの時、夢があるから現実が見られるのだという事を教えられたような気がした》と。

 「夢にあらず、現実にあらず、現実にして夢、夢にして現実」と、哲学者西田幾多郎氏は言います。「連続の非連続、非連続の連続」と。
  非連続は一瞬、時は今から今へと、非連続でありながら連続を形成し、形成された時の繋がりは非連続によってなりたっています。
 生きるという意味も、この関係に尽くされていると思うのです。
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