特別の教科 道徳

2014/06/29 21:30
 平成26年6月28日、明治小学校では、5校時、道徳授業の公開講座がありました。
 小・中学校の道徳教育には、「道徳的な心情」「道徳的判断力」「道徳的実践意欲」「道徳的態度」といったキーワードがあります。
45分の授業を全部見ることはできませんので、1年生と5年生にしようと2クラスを見ました。

 ちなみに、ここ数年でしょうか、小学校の道徳の時間は、「特別の教科 道徳」になり、指針は大きく変わりました。1年生は年間34時間、他学年は年間35時間と聞きました。一週間に1回の授業に課題は大きく、将来において生き抜く力というのでしょうか、人間を作っているように思うのです。
 一年生というより低学年の指導要領の中心は、「人間として、してはならないことはしないこと」です。
 1年生としては少しずつ、嘘をついてはいけない。人のものを取ってはいけない。友達をたたいてはいけない。いじわるををしていけない。悪口を言ってはいけない。人のものをかくしてはいけないの5つを考えさせることです。
 自分もそうですが、友達がもしこの5つのおこないに違うことをしていたらと、その時の授業は、勇気でした。してはならぬことに遭遇したときの心構えを考えさせられていたのだと思います。
 授業は、物語をいれて、皆で考え、勇気を導きだし、自分の心の中に勇気を探す気配が感じられて、その勇気を表現しようと葛藤する姿が何ともかわいくて楽しませていただきました。
 1年生が机に向かって、ノートに、からだの中から導き出す勇気は時間がかかります。でも一生懸命にしぼり出した勇気は、大勢の子ども達の声で「それはいけない」でした。

 道徳は、指示(席を譲りなさい、)から模倣(日常性へ)へと進み習慣に至りますが、心情の動きから自己判断(身体などの弱い人へのいたわり)し、知識理解へとすすみ意力と行為(体力)へと育むことが課せられているのでしょうか。
 存在する意義と役割を見つけること、安心安定を感じないでいる(安心や安定は、相対する関係性のなかの場であり、その関係のなかで、つねに安心安定を求めるでかえって安定や不安が生じ損なわれることがある)場、達成感や成就感そして向上心へと育まれて行きます。
 授業の原点は、もっぱら自己を見つめることと、いろいろな他者との出会いを通して、他者との関わりを考え、行為となって支え支えられる関係の構築へといたるのでしょう。

 次の授業は5年生を途中からでしたが参観しました。
 5年生の指導要領は「相手の立場を理解し、支えあう態度」「集団における役割と責任を果たす」です。反抗期と感謝がテーマだつたのだと思います。
 私がのぞいたときは、VTRをプロジェクターでスクリーンに映していました。スクリーンに文字がスクロールしながら次々に映し出されて、背景には音楽も流れていました。
 まるでブログなどにあるような、それは現在35歳の男性が子供の頃を語っていました。
 親に反抗して、先生に反抗して、友達と問題をおこし、中学になってタバコを吸って、悪友との関係などが語られていました。小学校、中学校と成績は低評価で、何度も先生に世話になり、母親も呼び出されていました。そんななか、母だけが子どもを最後まで信じて、先生が語っていたことをその青年は知らされたのでした。
 その母は今はいないのですが、病気で亡くなったことが書かれていました。
 その青年は小さな会社の社長になって、母をなくした思いと、母への感謝の思いが、道徳授業でした。
 文面に感情移入しやすく、5年生といっしょに物語の中に引き込まれ、目頭をふきながら読んでいる子ども達もいて、心情の感想から母親の思い出を語っていました。
 きっと子ども達は、支えられていた思いを、母に伝えらない35歳にして語る言葉の重みを、今の自分に移入していたと感じられました。
 ノートには、「お母さんへの感謝」と書かれて、とても恥ずかしそうな思いは、どこから出てくるのでしょうか。現実のお母さんへの理解はすべて見ることはできませんが、少しでも見えたら、感謝を、今伝えることがいかに大切か、そんな授業だったのです。

 道徳は答えがありません。評価にもなりません。
 「特別の教科 道徳」は、自己を見つめることと、現実を性格に見つめる力を養います。
 支えてくれるものを見つめるとは、日常性に隠れて見えないものを、見つめるかのように、子ども達は支えられる思いに、答えることを学びます。その支えられていたものは、自分が支えていたものだったこともです。

 そして、最後の学年、6年生で、福沢諭吉の「ひびのおしえ」が登場します。
「人を殺すべからず。けものをむごくとりあつかい、むしけらを無益に殺すべからず。盗みすべからず。いつわるべからず。うそをついて人のじゃまをすべからず」と。1年生で出てきた内容を、もう一度、確かめながら、卒業していくのです。
 小学校では157時間に及ぶ道徳を考える時間があります。もちろん中学校にも高校にも道徳の時間は自分を見つめ豊かに生きることを目標に、道は未来に続くのです。
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許しのつぶやき

2014/06/22 10:29
汝を許すとか、敵を許すとか言葉があります。

若し許すという心の言葉があったとしたら、仏教では、自分に向かって発する言葉になるのでしょう。

壁は、私の心にあるのですから。

しかも、もともと心には、そんなざわめきはあるはずがなく、対象とかかわって自分が創り上げたものです。

憎む、護るも、責めるも、対象にかかわって自分が創り上げたものです。

この現実にどう、対象とかかわって生きるか、他者をいたわり生きるか、それを考えましょう。

悪の連鎖

2014/06/22 09:48
西洋的な考え方の根柢には、悪を理解されるものより悪を排除しようとするという考え方のようです。

このことは、逆に悪を理解しようとすれば、かえって悪に新たな力を付与し指示することに繋がると考えられたようです。

仏教も善と悪とを区別はするのですが、その悪を絶対的に悪とは結論付けはしません。

マーラ(魔=悪)は、自己と別の人物ではなく、自分自身の仮の姿であって、自己を誘惑し裏切ろうとする自身の内面的な傾向性ということが、仏教の理解や考え方です。

仏典が描くマーラは永遠の存在でもなければ、生まれる前から、死んだ後もずっと悪であるわけでもないのです。

ブッダの主要な弟子の一人、モッガラーナ(目蓮)はマーラに誘惑されて次のように言って退けた、という話が残っています。
「おまえ(マーラ)が成功するはずはない。私はおまえのすべてのトリックを知っている。なぜならば、私自身が、かつてはるかな昔にマーラであったからだ。
そのせいで私は地獄で8万年の間つらい思いをしなければならなかった。だからおまえも仕事を変えたほうがよい」と。

仏典には、殺人鬼が聖者としてよみがえる話がありますが、本来的な悪などあるはずはなく、壁は内にあることを先ずは認めて、目的にあった方法を探すことが勧められています。

その手段として、悪と闘うに悪を以って手段とすれば、自分自身を更に悪へとしてしまいます。

ダンマパダには、「怨みによって怨みが止むことはない。怨みの相対するものによって怨みは止む。これは永遠の法である」と。

その怨みの反対とは、何だろうかと考えてみれば、智慧と慈悲に行き着きます。

結局、一人一人が、智慧を得て、慈悲を目覚めさせなければならないのでしょう。

世界のいさかいの連鎖が止まるようにです。

決して、宗教がいさかいの連鎖を、勃発させ、助長してはならないと考えています。
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