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集団的自我

2015/04/05 15:48
 最近、つくづく思うことがあります。

 世界のいがみ合うことのニュースがあり、宗教や主義として原因があり、それが正しい、いや違うと戦火をまみえテロとなってにぎわうように思えるのです。

 世界という点から見たならば、人々のやすらぎを、死者の安寧を願い祈るものならば、世界の宗教も、もともと一つのものではないかと見えるのです。

 仏教からいえば、今残されている仏教の宗派を興した祖師たちも仏教である限りは、お釈迦樣が悟った法、あるいは語り得ないものから、それぞれが選ばれて語られて特色とされたものです。
 それは過去の時代からいうと、信者からいえば利点といえた時代だったような、遠慮しがちに、そんな気がするのです。

 宗教は世界の一人一人の苦しみを見つめますが、国や地域、民族、国、主義、正義、あるいは宗教自身も、集団的自我をもっと見つめなければならない時代にはいっているのではないでしょうか。

 そして集団内の一人一人の生を見つめ、相対する思念を解きほごしての幸せを求めることが必要なのではないでしょうか。
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35年ぐらい経ったかな

2015/04/05 13:51
 振り返って見れば、住職になって35年ぐらいたつのではないか……

 副住職が3年半の雲水修行から帰ってきて、ようやく陽岳寺慣れたと思っていたら、今や、副住職の自覚のエンジンが、より回転した様子に、嬉しくもあり、あぶなっかしくもあり、たのもしくなってきた感もするのです。
 
 昨夜も、浅草のどこかに行き、座禅会用の座布を40ヶぐらいか持って出かけ、夜10時過ぎても帰ってこないのです。
 会場は、喫茶店だったり、神社だったり、会社だったり、請われればどこでも……というのか、どうも地域起こしのようなことまで。

 あるいは、本堂に若い人を中心に、ボランティア60人から70人集めて、5月増上寺の仏教フェステイバル「向源」のイベント説明会をするというし。

 私には考えられないのですが、お茶会、ヨガ、親子との対話集会、パソコンやテレビゲームではなく仏教をテーマにしたカードゲーム制作などなど。

 宗派や宗教を越えてのつながりというか、そういう時代に入っているということなのでしょうし、それに気がついたのでしょう。 

 宗派的に言えば、副住職は「転じられた自己が、転じるようになって」、最近は陽岳寺という枠の中のことより、外に出て活き活きとしていることが多いのです。あるいは、「随処に主となる」とも言えるかも知れない。

  実際には、随所に主となりは、副となり使い走りになり徒労となり友となり聞き役となり話してになりで、感情から言えば、意気が上がったり下がったり、自分を叱ったり、人の寂しさや苦しみに同化したりです。

 でも考えてみれば、自分を活かせる」時間を持てたことは、子供もいてお年寄りもいて、困った人もその困った人に自分の時間やお金を与えることができる人もいて、差別に喘いでいる人や様々な場所に、様々な基盤がある都会に自分を活かせられているともいえます。

 そんな彼を見ながら、何故か私は、ますます忙しくなって、もうメチャクチャ、一つの身体で、一つの頭で、幾通りの役回りとなっているのです。

 私が、住職となってしばらくだったと思います。親しいお婆さんから法事を依頼されたときです。
 そのお婆さんの放った言葉は、今でも私の心に突き刺さっています。

 「和尚さん、お経はサワリだけにしてくださいね!」と、「何分ぐらいですか?」と、「短ければ短いほどがよい」と。

 確かに、今の読経では、伝わらないし、心に響かない。
 せめて大勢で大きな声で、あるいは音楽のようにかなでるものなら印象が違うかも知れない。

 そんな何坪もない末寺の私に、答えてくれるところなどあるわけがない。

 そう知って、何とかしなければと35年がたち、どうにか、日本語ですべての法要ができるようになってきました。やすらぎや喜びを感じられ、シクシクと涙を流し、人に人生の受用と活きる力を法要で伝えられるようになったということです。場所も道具も、その時その場で、施主に合った法要をです……

 ただ言葉というのはお経と違って、語り手の心というのか、見方というのか、思いというのか、考え方というのか、意志が反映されます。これは言語の持つ特色だから仕方がないのですが、怖さもあります。

なが~い一日

2015/04/05 10:57
 「ちいさな、ちいさな王様」という童話があります。

アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァが絵を、奈須田淳さんと木本栄さんが共訳し、平成8年10月15日に講談社から出版されたものです。主人公は、平凡なサラリーマンをしている「僕」で、物語は王様との不思議な経験談です。
 小さな、小さな王様は、自分の誕生を語ります。

 「おれはだなあ、ある朝、ふいにベッドで目覚めたのだ。それから仕事をしに王子の執務室にいったのさ。実に、単純なことじゃないか。おなかのなかにいるだと?ばかばかしい!人生というのは、ある日起き上がって、それですべてがはじまるのだ」と。

 「王様の人生は、それからどんどん身体が小さくなって、小さくなればなるほど知識も忘れて、やがて、老いが訪れるようになると、仕事もしなくてすむようになります。
 食事も誰かがくれて、頭の中には忘れれば忘れるほどに、真っ白な自由な空間ができ、そこに遊びや空想で埋め尽くされるようになります。
 現実を、何をして遊ぼうかと、何しろどんどん小さくなってゆくわけですから、禁則はなく、ビックリしても、驚いたり、怖がったり、笑ったり、大声を出したり、空の星々に名前をつけたり、雲と遊んだり、何をしてもかまわない大きな世界をもつことができる。

 人生経験が豊富という意味も、何かを詰め込むことではなく、ものごとを判断することでもないが、実に、世界がよく見えて、よく聞こえ、思いも無限大という世界に生きることができるからこそ、王様なのだろう」というお話しでした。

王様は、童話の外の読者に言います。
「おまえは、朝が来ると眠りに落ちて、自分がサラリーマンで一日中、仕事、仕事に追われている夢をみている。そして、夜ベッドに入るとおまえはようやく目を覚まし、一晩中、自分の本当の姿に戻れるのだ。よっぽどいいじゃないか、そのほうが」と。

 ちょうど1年前のことです。小保方晴子さんがSTAP細胞を発見したと報道されたのは。残念なことにはこのSTAP細胞報道の顛末に、多くの子ども達は失望したし、信じることの危ういことを心に刻まれたのではないかと思います。

その小保方さんが、中学生の時に、この童話を読んだ感想が記載されていました。
 「王様の存在が夢か現実かはわからないけれど、この本を読む前の私にとっては夢であった。しかし、少なくとも、今の私の心の中で生きている王様は現実だということは紛れもない事実である」と。
 王様の夢をSTAP細胞としてみると、細胞がどんどん夢の中で自己主張をして、やがて小保方さんの外側へと飛び出したような。
 しかし夢と現実は、現実も夢と解釈できることから、マスコミに報じられなくなった小保方さんの夢はまだ終わってないのではないかと思っています。それでないと可哀相です。

 「夢にあらず、現実にあらず、現実にして夢、夢にして現実」と、哲学者西田幾多郎氏は言います。夢と現実はつねにリンクしています。どちらに陥ってもいけないと。

 平成27年3月末のことです。地元の小学校6年生の卒業式に本年も民生児童委員として、また地元の町会長として、また小学校地域懇談会として招かれました。
 6年生の旅立ちは、1年生から6年生の出来事の想い出をクリップして語っているようでした。
 その思いでの数々を聞いていたら、子供たちは一年一年ドキドキハラハラ予測のつかない時間を過ごしていたことを考えていました。

 しかも小学生になれば、1時間目2時間目と、国語や算数・理科・社会・音楽に運動と授業が連続しているし、学校の行事も、運動会や遠足、学芸会と多いし、すべてが時間によって動かされて行きます。連続する時間は一週間、月や学期ごとにかわりながらも時間というものに依存しながら動かされて行きます。

 考えてみれば、今の私たち普通の大人と同じような時間を持っているにもかかわらず、子ども達の一日の長さは、大人のお年寄りの時間よりはるかに長いのです。
 しかも幼年期の記憶は、年をとっても消えない想い出となっています。さらに故郷というエリアに広がって濃く厚い。人生の中の時間の重みというか、高齢になっての時間よりはるかに大きな時間の大きさなのです。この時間の違いは何だろうか?

 懐かしさ、忘れられない思いで、幼友だちに故郷、高齢になっても思い出せばすぐそばに、故郷の景色が広がります。
 幼かった頃の経験は、ひとつひとつ目に焼き付いて、思い出せば言葉ではなく映像が湧くから不思議です。

 初めて見た……初めて出合った……初めて経験した……初めて……1年生も初めてだし2年生も初めてのこと、初めてが続き6年生もはじめて、中学もはじめての経験です。ハラハラドキドキ、友達と時間を忘れて遊んだ記憶、初めての経験は遠くまで町を探検して世界が広がります。ゲームにしても漫画にしても集中した時間は時間を忘れて、叱られるまで、気づくまで、暗くなるまで気がつかないことが多い。

 夢中に勉強し勉強を忘れる、遊んでいて遊びを忘れる、友達とペチャクチャ話していてその話していることも忘れる、冒険して冒険を忘れる、テレビを見ていて見ていることを忘れる。充実している忘れられない故郷の時間を作ったとも言えるのではないか?

 子ども達に、ご両親は、時には大きな声で「何してるの、遅いわねえ。何処に行っていたの、誰と遊んでいたの」と秘密もできてきますが、共有した時間も誕生してきます。

 やがて時間を忘れ、自分を忘れた時は過ぎ去り、その頃、徐々にですが自己の外の時間の概念による生活、思考や理想、相反する概念による自己への縛りによって、時計は先に進み1日は長くなっていきます。

 夢と現実という相反するものが、反するが故に結びつき、同時に結びつくことで、分離するという現象は、夢が現実となり現実が夢となるを持ち続けながら現実を大切にすることで、結ばれたものが分離していると思えるのです。

 現実は夢を根拠にして、夢は現実を根拠にしてある姿に、大きな夢も、小さな夢も、はかない夢も比較できるものではなく、今・ここに変わりはない。
 ちいさい ちいさい王様のお話は、私たちの時間の進み方に対し、時間に依存し、記憶に依存し、一日はますます短く、やがてあっという間の時間となり、夢となっていくことに警鐘を鳴らします。
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