慈悲するうちは

2015/06/15 08:04
江戸時代ですが、我々の大先輩の至道無難禅師の言葉に、「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟くすとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり。」という言葉があります。

この、言葉の論理こそ、お釈迦樣の悟りとして、ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念をもつことを現すものです。

この慈悲という言葉を様々に言い換えてみましょう。

「仕事して、仕事するうちは、仕事に心あり。仕事熟くすとき、仕事を知らず。仕事して仕事知らぬとき、真の仕事というなり」と、もっともその仕事が人をだますことや悪にたずさわって人を不幸にするものは「地獄」ということになりますので、要注意です。

日本国を例に取れば、「国するうちは国に心あり、国熟すとき国を知らず、国して国知らぬとき理想の国というなり」と。

「信仰して信仰するうちは、信仰に心あり。信仰熟くすとき、信仰を知らず。信仰して信仰知らぬとき、仏というなり」と。神さまや阿弥陀様や観音様に自己のすべてをおまかせできたとき、仏国土や神さまの心の中に包まれていることも知らない世界となります。

「勉強して勉強するうちは、勉強に心あり。勉強熟くすとき、勉強を知らず。勉強してして勉強知らぬとき、……」、これは何というのでしょうか、充実、生き甲斐、その時その年代の人生そのものでしょうか?

「人を愛して愛するうちは愛に心あり、愛熟すとき愛を知らず、愛して愛しらぬとき……」これは、人の痛みや悲しみが自分の痛みや悲しみとなって、きっとお釈迦樣やキリストのような存在となっていることに較べることができます。そのとき、決してウソ偽りや暴力差別などという言葉が無縁な世界や人生を生きるということなのでしょう。

いくつかの例をもって、「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟くすとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」という至道無難禅師の言葉お言い換えを致しましたが、数多くあると思うのです。

「悩んで悩むうちは、悩みに心あり。悩み熟くすとき、悩みを知らず。悩みして悩み知らぬとき、悩みはなくなっている」とも考えられるのです。

「坐禅して、坐禅するうちは、坐禅に心あり。坐禅熟くすとき、坐禅を知らず。坐禅して坐禅知らぬとき、仏というなり」ですが、本人はもう仏も自己もない状態といえます。

自分を見て自分を観察しているうちは、自分に心ありです。自分が熟すとき、自分はいない状態ですが、仏といいます。

すべてに成りきれる自分という意味で、人の痛みや苦しみになり、釈尊仏陀の「衆生病むが故に我もまた病む」という心です。空になり、山になり、海になり、名も無い雑草や木々になり、自己の最も自然な状態といえます。

坐禅はなにもただ静かに坐っていることではありません。行為もまた禅というように、人のすべての行為もまた禅なのですが、慈悲しなければ、仕事しなければ、国しなければ、信仰しなければ、勉強しなければ、人を愛さなければ、悩まなければ、坐禅しなければ、扉は訪れもしないし、開かないのです。
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