一日暮らしの工夫

2016/04/02 16:06
《 一大事と言うは、今日、ただ今の心なり。
ある人の話に、「一日暮らしという工夫」をしたことで、心がのびのびするとともに、これは身を養うに肝要なことと得心したという。

それはどうしてかというと、一日は、千日万日の初めであり、一日一日と、充実した生を努めれば、その一日のおろそかにすることは、千日万日一生をおろそかにすることでもあり、一日を無いものとすることと同じなのだ。

人の命は、明日もあるか解らないものだ。明日に執らわれると、今日の心が明日に執らわれて、心を遠きところに置くこととなる。

今日がつらくても、一日の辛さと思えば、何とかなるし、楽しみだって今日一日と思えば、引きずらずに溺(おぼ)れることもない。

人生は長いからと、親にいたわりの心を向けないことは、愚かなことだ。

一日一日思い尽くせば、退屈せずに充実した人生だ。一日一日努めれば、千日万日努めることができよう。

それを一生と思うから、距離が長くなり遠い道となる。一生は今日一日のこと。その一生が長いと思っても、千日万日後のことは、誰も知らないし、わからない。

しかも、今日を限りの一日と生きれば、死も寄りつかずに、一生にだまされない。

一大事と言うは、今日ただ今の心なり。

それをおろそかにして翌日あることはない。すべての人に、遠きことを思いはかることがあるけれど、それは的面の今を失う心に気づかない。 》

松代城主藩・真田幸村の兄で、真田信之(のぶゆき)の子で、臨済宗の僧侶となった道鏡慧端(どうきょうえたん)禅師をご存知でしょうか?

世に正受(しょうじゅ)老人と、親しく呼びます。

正受老人は、即心記、自性記など記録したものが残されていますが、「一大事というは、今日ただ今の心なり」が有名です。

正受老人の言葉は実践するに分かり易い。

NHKで「真田丸」が放送されていますが、正受庵がロケ地に使われていることをご存知でしょうか。

今を生きる、今を大切に、今でしょうと、今を注目している世相は、過去や未来が危機に瀕しているということでしょうか。

「今日、ただ今の心なり」は、仏教の歴史です。

仏教の思想は、空(無心)と縁起(関係)が二本柱です。

縁起は、結合と分離の法則とも考えられます。「結合することは分離することであり、分離することは結合すること」を考えると、過去現在未来の関係、こちら側とあちら側の関係など相対する関係がよく見えてきます。

今というとき、人は時間が誕生し過去と未来に分離することは理解できます。

ですが、逆に今があることで、過去と未来が結ばれた関係を見ないものです。

現実は今しか人は生きることができません。今ばかりの現実に今は分離できるのでしょうか、今はあるのでしょうか。

無心と念も、相対する関係となれば、結合と分離の関係が見えてきます。念を消そうとすれば、消そうとする自己が分離するものです。

記録されている「即心記」より、下記に抜粋してみました。

《 人は迷っては、この身に使われ、悟ってはこの身をつかう。

教えは大きく誤るものともなり。それを習うことは、なお誤る。ただ直に見、直に聞け。直に見るは見る私なし。直に聞くは聞く私なし。

人は、私という思いや経験から、人(他人)を見るものなり。私に利欲あれば、他人をもその心で見るなり。色ふかきは、色ふかき心で見るなり。

火はものをこがすが、こがすことは知らない。水はものをうるおすが、水はうるおすことを知らない。仏は慈悲して、慈悲を知らない。

人に慈悲しなさいと教わることは、仏の真似をしなさいということなり。慈悲のもとは心の清浄さ、心の清浄さとは無一物なり。

人は家を造って居となす。仏は人の身を宿す。家のうちに亭主つねに居所あり。仏は人の心に住むなり。

仏と言うも、天道と言うも、神と言うも、みな人の心を言うなり。

生死も知らぬところに名をつけて、涅槃と言うも言うばかりなり。

何ごとも修行と思いする人は、身の苦しみは消えはてるなり。

いろいろの教えに迷う法の道、知らずはもとの物となるべし。

天は身なし、念なし、心なし、是非なし。身あれば、八万四千の悪念あり。身のために苦しむこと、確かなり。

思うままに使いなれたる我が身かな、使う我が身も我もなければ。 》

この慧端禅師は、寛永19(1642)年、信州飯山城で誕生しました。13歳のときに、お城に説話に来られた禅僧が、「自己の内に観世音菩薩あり」と説く言葉が忘れられなかったと言います。

その後、慧端禅師は19歳になって藩主松平忠友 (ただとも)の参勤交代に随伴して江戸に出府しました。

その江戸で、麻布の東北庵(とうぼくあん)に住職していた至道無難(しいどうぶなん)禅師に出合ったことが、慧端禅師の出家への道を開くことになりました。

そして、寛文元(1661)年に無難禅師の法を継ぎました。なお、この無難禅師の師は、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師です。

しかも、愚堂禅師には三首座(弟子)がいて、陽岳寺二世錐翁(すいおう)禅師、無難禅師、無明(むみょう)禅師が継承(けいしょう)しています。

無難禅師は法系の上で、錐翁と兄弟関係になります。

そして陽岳寺の創建が寛永14(1637)年ですので、その頃の陽岳寺住職は錐翁禅師のころです。

当時、俳聖芭蕉(ばしょう)が新しい俳句を求めて参禅に通っていた仏頂(ぶっちょう)禅師は、錐翁の法系を継いだ禅師でした。

さて、無難禅師から法を継いだ慧端禅師は、一カ所に住まずに行脚の旅を東北へとワラジを履きます。

行脚して3年が過ぎ無難師は、東北庵に帰って来ます。

そこで無難禅師からから住職に推挙されるのですが、慧端禅師は固辞して諸国の行脚を続け、寛文6 (1666)年生まれ故郷の飯山に帰ります。

藩主松平忠友は喜び、飯山に正受庵を建立しました。

しかし、慧端禅師の修行は、それ以降も続き、無難禅師が江戸小石川の至道庵(しいどうあん)に転居したあとも随侍(ずいじ)して延宝4(1676)年無難禅師が亡くなるまで続きました。

その後、水戸光圀(みつくに)に二度も請われましたが固辞し、信州飯山の正受庵にて死に至るまで、清楚なたたずまいの庵で精進したという。

僧侶として法階も一番下で栄華は求めなかったという。

藩主からは立派な寺院建立と石高の寄進があったものの、「民の利を奪うことは、僧のすることではない」と断ったことが人柄を表現しています。

それ以降、信州飯山の正受庵に住んだことから、正受老人と言われましたが、この「正受」という扁額は、無難禅師の揮毫(きごう)で、臨済宗の正統の教えを継いだ証拠として正受老人に与えられたものです。

なおこの正受老人から、白隠禅師が誕生したことにより、臨済宗には妙心寺派等ほか各派がありますが、白隠系臨済宗として統一したものになりました。
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