親 家族という場所

2016/09/23 11:04
親のことなど普段は考えたりしないものの、突如として考えなければならないことに遭遇するときもあります。

独立、結婚、親の突然の死と。

親は、子供の胸の内は、よく分からないものと、はっきりと言います。

それは自分のことも知りようがないと思っているからです。

自分のことを分かって欲しいと思う子供にとっては、親は「お前のためを思って、考えているから」と、親の欲求は親が死ぬまで子供という存在です。

ただ家庭では、何となくそれが分かっている場所なのでしょう。

お前のことは誰よりも分かっている。なぜならお前は、俺の子供だからだと。
その親も、本当は自分のことなどわからないのです。

ところが、子供が痛いと怪我をすれば、悲しめば、親は自分を忘れて子供の痛み、悲しみになれる存在です。

ところが親はそんな存在であることをわかっていない。

そのことに気づけば親の中で、親という居場所なくなるのに……

親のカラを飛び出して、子供含んで自分の存在はあるという、子供の行為すべてが実は親自身の姿であるのに、それを理想としたりすることで、また親の所有欲が出てきます。

親にとって、子供は無二、二つと無い存在です。

ただそれだけ。なぜなら親の根拠だからです。しかもその根拠はないところに親は居るのです。

ただ家庭では、何となくそれが分かっている場所なのでしょう。

お前のことは誰よりも分かっている。なぜならお前は、俺の子供だからだと。
その親も、本当は自分のことなどわからないのです。

ところが、子供が痛いと怪我をすれば、悲しめば、親は自分を忘れて子供の痛み、悲しみになれる存在です。

ところが親はそんな存在であることをわかっていない。

そのことに気づけば親の中で、親という居場所なくなるのに。

親のカラを飛び出して、子供含んで自分の存在はあるという、子供の行為すべてが実は親自身の姿であるのに、それを理想としたりすることで、また親の所有欲が出てきます。

親にとって、子供は無二、二つと無い存在です。

ただそれだけ。なぜなら親の根拠だからです。しかもその根拠はないところに親は居るのです。

父 家族という場所

2016/09/23 10:49
仕事が好きだった。生活の土台でもあるのでしょうが、それ以上に仕事が好きだった。

仕事の中味に誇りを持っていたことがうかがえます。

当然、子ども達にとっては、仕事を抜いた父に接していたことになるから、「お父さんは、どんな人だった」と聞くと「頑固!」といった。

「こうなることだったら、もっと話をしていればよかった」という。

「父親と面と向かって話すことも照れる」とも。

そう、頑固って家庭の中の父親の居場所のような気がします。

家庭って、本当はみな違う意見を持っているのに、その違いをそれぞれが容認している場所でもあるようです。

その特色は、違いが分かっていてもその違いを攻撃したり非難したりしない場所として、有ってないような、無いようでいて有る、矛盾した場所のような気もするのです。

だから家族のコミュニケーションも、無いようであって、有るようでない。

家族それぞれ別々の方向に向かう起点なのか、これも矛盾している場所。

落ち着くと言えば落ち着くし、ひょっとして渾沌とした場所なのでしょう。

子供が親に叱られて、出て行けと言われ、出て行ったけれど、戻るに戻れないにもかかわらず、戻ってくる。

親は怒っているにもかかわらず怒る自分を見つめ、受け入れる自分を受け入れる。

そんな場所の中の父親も、もともとは子供だったし。

世代が代われば爺さんや婆さんとなって運がよければ死んでいく場所でもあります。

ふれあい給食会

2016/09/15 13:26
学校の先生から、「地元のお年寄りを呼んで、小学三年生の子供たちと、ふれあい給食会」をしたいと言われたことがありました。

もう18年も前のことでした。

その年によってお呼びするお年寄りの人数が違います。学年主任の先生もそのつど違います。

今では、ふれあい給食に関しては、お年寄りの募集に関しては、向井さんに頼むと、申し送りになっています。

ですが、なかなか言われたように集まらない時が来るのではないかと、集めながら少しずつ、近い将来、訪れる予感がします。

その予感とは、現在、70歳後半から、80歳代、90歳代のお年寄りで元気な方々が、社会参加するパワーが減ってきた予感と同時に現実です。

本来は、その下の世代のお年寄りが、引き継いでくれればよいのですが、70歳後半前のお年寄りを望んでも、声がないのです。

さて、ふれいあい給食を手がけたきっかけは、「お年寄りをお招きするのに、学校の先生方の時間を煩わしてはいけない」ということでした。

お年寄りたちが子供だった頃の懐かしいことを、給食を食べながら、子供たちに話す。それが地域の昔と、ふれ合うということでした。

これは、子供たちの二世代・三世代という家庭が減少して、地域の昔と接する機会が減っていったからでしたし、教育が、世代間の交流事業とし同時にて、社会科や道徳の教育とならなければの危機に気付いたからでしょう。

今、お年寄りの語る言葉は、かろうじて戦前戦後の生きた時代の様子でしたが、お年寄りの世代交代が続けば、やがては、バブルなどの時代になるかも知れません。

将来、子供たちが聞かされる言葉が、バブルや経済成長の時代内容だったらなどと考えてしまった。

山中暦日なし

2016/09/15 13:01
「山中暦日なし」とは、お寺には国の祝日も、休日もないという意味です。

つい先日、トビの親方と話していて、こんな言葉、言い伝えを聞いた。

トビの親方が、名前を継ぐ将来の頭(かしら)に対して、言い伝えられていることです。

「いいか、お前がカシラになったなら、一泊の旅行は許す、決してそれ以上の、旅行や遊山に行ってはならない」と。

カシラがいかに、地域に結びついていたことっを気付く言葉です。

しかも、カシラの口から飛び出ることに、今も生きているのだと、彼を、地域の人間ととしても大切にしたい。

そういえば、我が身も、「もう何十年と私も住職になってから、一泊以外の外出はしたことがないなあ」と思い出した。

それでいて、くやしいとか、いやだとか、うんざりだとか、思ったこともない。

職業という一時の居場所ではなく、住職が、法になって生きることという勤めでもあるからだし。

仏教にとっては初歩の、自分の心を見つめ、わき起こるいっときの現象としての思いを、見つめることができるからだ。

鼻で飯を食う

2016/09/05 12:34
お年寄りが言った言葉が気になって、調べてみたのですが……わからない。

「鼻で飯を食うとお金持ちになれる」という俗諺があるそうだ。

まさか話しの真偽を確かめたくて、食べ物を、飲み物を、本当に鼻の孔の中を通して、食べるではなく、吸い込むなど、してはいけません。

これは、鼻をつまんで、食事を食べると、食感がなくなり、食の感覚が鈍るのでしょうか。

美味なもを追いかけず、素の者を食べることでお金持ちになれるという故事なのでしょう。
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