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慈悲するうちは
禅宗の教えとは、お釈迦樣の悟った心のことです。

その内容は、ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念をもって表現するものです。

私たちの普段お生活は、姿形を気にし、居場所やより所である思想にこだわり、わき起こる思いによって時間を過ごしているといってもよいでしょう。

この無相にして無住、無念という悟りを、お釈迦樣は二千五百年前に、菩提樹の下で、悟ってより以降、生涯にわたってこの一心を伝え、今に語り続けてまいりました。

また無心とも、空とも、からっぽともいう、私たちの心の本来授かっている無境ともまた無性ともいえるものです。

しかも、この無性や無境という本来性を持っているからこそ、私たちは自由に変わることが出来るともいえます。

この心は相対するすべての世界を映す心です。無心となるが故にです。

私たちは自我の世界に於いて、私は私はと自我を認めて、自分の外に世界があり法則がありと錯覚している生活。

仏教から見れば、それはすべて迷いです。

静かに、相対的な世界に心が動かされている自我の姿を観察してみれば、自我とは現象に過ぎず、本来、自我というカタマリはもともと無かったと悟れることができます。

ただ現象として心が騒いでいるだけで、無相にして無住、無念であることに気がつくば、すべての存在が、そっくりそのまま本来の自己である悟りとして、証することができるはずです。

言い換えると、無心にして悟りの生活であるにもかかわらず、自我の迷いや、とらわれとして活きるのが衆生であり、自我という迷いの生活が、そのまま、そっくり悟りの生活であると悟ったのが仏であるといえるでしょう。

無相にして無住、無念であるからこそ、一瞬一瞬、相を持ち、住をもち、念を持つことが出来るとも聞こえてこないでしょうか。これも現実の有り様です。

仏が本当に仏になったときは、無相にして無住、無念の鏡のような心の映すことから、心に写すすべてに同化します。本来の心とは、自分が無い状態ですので、自分は仏であると知ることもないのです。

人が活きる一瞬一瞬の自己を、一段階一段階悟って、自分のものとして、釈尊仏陀は、自らをより所としてと、宣言しました。この法をより所としてとも、宣言しました。この過程を修業と言います。

妙心寺派和尚に連なって有名な至道無難禅師の言葉に、「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟くすとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり。」という言葉があります。

この、「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟くすとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり。」という言葉こそ、お釈迦樣の悟りとして、ひとつの相にこだわらない無相。

一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念をもつことを現すものです。

心は、対面する出来事やものに応じて、縁に随ってという形を現ずるものです。

その形として現れたものを、現れたままにすることで、とらわれの中でとらわれない行為を実践とするという意味になります。

お釈迦様は、この一心を悟りました。

「若し人が、あらゆる世界を含んだ三界という、無相、無住、無念という仏を知らんと欲せなば、まさに、三界の一切は、おのれ自身の心が造ると、観ずべし」と、説きます。

三界には今混迷を深めている三界もあり、その混迷を超えた三界もあり、この二つが絡みあって、自分自身の問題とすることで、真実の現実の姿を写してくれます。

自分自身の問題の一つが、「家族するうちは、家族に心あり。家族熟くすとき、家族を知らず。家族して家族知らぬとき、実在の家族というなり。」とも言い換えることが出来ます。

日本国を例に取れば「国するうちは国に心あり、国熟すとき国を知らず、国して国知らぬとき仏国土というなり」と。

仏とは対象とするものではなく、現実の有り様ということになります。

さらに、「三界という世界の中で、三界するうちは、三界に心あり。三界熟くすとき、三界を知らず。三界して三界知らぬとき、仏というなり。」と、仏教のとく法という世界に暮らすことになります。

もう一度言います。三界とは、迷いの三界、思いの三界、思いでの三界、希望や願いの三界は、未来の三界は、あるがままの現実という三界であり、家庭や学校、会社、地域や、国としての三界……そして悟りの三界も含まれます。

その三界の世界とは、人が、過去・現在・未来にわたるすべての出来事や在りよう、また、世界の真実は、たった一人の私が思い描いて、ものに応じて形を現ずるにすぎないと訳すことができます。

そのゆえに、過去・現在・未来のすべての真実を知りたいと思うならば、自分自身の心を探れという強い言葉です。

「三界はただこの一心に含まれ、この含まれた心のほかには、法というものは一切ない」と断言されています。そして、見極めてみれば、「心、仏、及び衆生の、この三つはすべて一心であり、もともと分かれていない」と。

この三界は迷った目で見れば迷ったままの世界に写り、悟って気づいたものから見れば輝かしく光明に包まれた世界ともなります。

そして人はこの三界を出ることも出来ず、三界を知ることも出来ない。仕事して仕事知らぬ世界を、心して心知らぬ世界、三界の世界など思い描いた世界だと心に浮かべてみても、それも三界の世界でのことであることを知れば、無限にして極小、過去現在未来という時を超えた世界こそ、お釈迦樣の無心な心が悟った世界です。

そこから、お釈迦樣が語った言葉は、「三界の衆生は我が有なり、我が存在なり、我が子なり」と、言及されたのです。

お釈迦樣という悟ったものからすれば、すでに、自分がないのですから、他者を含めてというところに自分が見えてきます。

だから言います。「衆生病むが故に我もまた病む」と、他者を傷つけたり痛めたり、嘘を語れば、自分を傷つけ痛め、自分を分離することになります。

人を殺せば自分を殺すことになります。

もともと自分が無かっただけに、このことに気づくことを修業や祈りとすれば、気づくことで、私が生まれる以前より救われていたことも表現するものです。


間に合わなかった
人々の死を迎える環境が大きく変化して病院などで死を迎えることが多くなりました。

以前は、自宅や家族に看取られ、心安らかに往生することができた時代があった。

二世代三世代家族同居という家庭は、都会ではほとんどなくなって、夫婦2人が子供育てその子ども達が独立すると家を出て行き、老夫婦2人となって最後を迎える。

 家が、家族が世代を継いで住むという意味はなくなり、一世代にとっての家であり、その使命が終われば、売買の対象となるか、あるいは取り壊し、売却となり、誰か他の世代が住む家となることが多い。

とくに行政の集合住宅やマンションなどだ。  世代をつないでいた家にとっては、つなぐ過程に死の臨床が知らず具わっていたともいえるのではないか?

今、かすかに残されているのは、病院や施設での家族の看取りである。施設や病院で危篤となり、病院から家族に近況の知らせが届いても、見取れた家族は、以外と少ない。

 「間に合わなかった」という言葉を幾度となく聞いて、「年齢を重ねて、動けなくなった高齢者への見舞いは、病院から帰るたびに、「一期一会、いつもこれが最後かもしれないという時間を過ごしているのでしょうね」と、言えるだけです。

しかも、死者となった子供や親族にとって、「見取れなかった」その意味を考えることさえない遺族もいるのです。

自分に死がいくらかでも見えるような、そんな年代になったなら、死を学ぶ意味で、この人生相談の意味は大きいと思うのですが……

 平成26年5月21日の毎日新聞の朝刊に掲載された、人生相談です。

《 夫はカメラなど自分の楽しみを見つけ、パソコンに向かってばかり。旅行に付き合う気持ちはないようです。両親をみとりました。愛情を注いだ娘や孫たちは、今、忙しそう。好きだった読書も目が疲れます。
寂しくてつまらなくて、どうしようもありませんと、70代・女性の相談でした。

 この相談に、作家の白川道(とおる)氏が語っていました。
『老いてからの寂しさやつまらなさ。貴女(あなた)の抱える悩みは、貴女に特有のものではなく、貴女と同世代の大多数の方たちが抱える悩みでもあるでしょう。

特に昭和の時代で育った人たちに多いのではないでしょうか。

 あの時代は、誰もが生きることに必死で、そうした自分を慰めてくれる家族形態というものがありました。

しかし豊かになるにつれて、個人の主張や幸せが優先されるようになり、核家族化現象が加速されてしまった。

今、老いた人たちが味わう寂しさは、いわば必然の結果と言えるのかもしれません。

ご多分に洩(も)れず小生もそのクチなのですが、幸いにも、小説を書くという仕事をしているせいで、その寂しさは小説を書き、その小説のなかの登場人物と会話することによって、解消していると言えます。
 この歳(とし)になって分かったことがあります。

それは、人間というのは老境に入って、やがて死を迎えるのではなく、その前に無境という心境があるのではないか、ということです。

虚無という無ではなく、欲得や執着から解放される心境のことです。

すると、それまで思い悩んでいたことがうそのように消えて、周囲を静かな目で見られるようになり、他人を許せるばかりではなく、自分も許せるようになる。

そしてそのご褒美に、過ぎ去りし日々の楽しかった出来事の数々の記憶がもう一度蘇(よみがえ)るようになるのですね。

大丈夫ですよ。寂しさやつまらなさなどは、いっときのこと。貴女にもいずれ無境のときが訪れますから』と。


哀しみ、孤独、寂しさ、つまらなさ、無感動、ひとりぼっち、不安、疎外感。 原因は、つながりや関係、絆に、結びつきです。

仏教はその結びつきを、関係そのものを心といいました。そんな心を、心のままに解放することで、自分というとらわれをなくすこともできる存在であることを、釈尊ブッダは伝えたかったのです。

結びつきによって、今の私の寂しさやつまらなさという原因があるなら、逆にいえば、自分はそれだけ、寂しさやつまらなさで、自分以外と結びついている結果のはずです。

壁は自分自身の中にあります。

欲望や執着とは、その繋(つながり)が咲かせる泡のようなものです。

華厳五教章という仏教書に、「心に寂しさやつまらなさが生じたとき、必ず、心が無性であることで、寂しさや空しさが生ずるのです。欲得や執着は、本来無性という海の表面の波のようなものです」と。

自性即ち無性なることを悟れば、すでに戯論を離れていると。

無性に怒りがこみ上げてきたり、無性に可笑しかったり、無性に苦しかったりと、無性に楽しかったりと、心は、無性ゆえに作用されるものだからです。

その怒りや苦しさ、楽しみや可笑しさを、持ち続けないで、一時一時受け流していくことこそ、老いたものの人生経験という宝物です。

それは、悲しみは悲しみのまま、楽しさは楽しさのまま、一刻一刻生きることこそ、欲得や執着を否定するのではなく、欲得や執着こそ、どんな時にも、人は自己以外と繋がっている絆の確信であり、生きる力そのものだったのです。

感謝とは、その繋がりの表現であり、自分に振り向けた廻向だったのです。「有り難う」と。