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まっつぐ!
深川二丁目北町会の元町会長のNさんという方がいました。左官屋さんの親方で、野丁場や丁場での口癖は、いつも「まっつぐ!」でした。

江戸で産まれたわけではないけれど、茨城生まれだったのですが、江戸っ子職人でした。

江戸の町はこうして出来上がっていったのですし、地方の都市も、年代を100年、1000年と振り返って見れば、どこの街も同じです。

の口癖であるまっつぐは、道案内でも、どこどこに行くのに、真っ直ぐ行くと二つ目の角を右に曲がって、河があるから、その河を渡って、二つ目の角を右に曲がって真っ直ぐに行くと、黒い屏の家があるだろう、その向こう隣が、誰誰さんの家だとか、言います。

彼は、その真っ直ぐを、「まっつぐ!」と言って、「まっつぐ!」以外に真っ直ぐという言葉はありませんでした。

その角を右に「まっつぐ!」、くにゃくにゃした道を「まっつぐ!」、次の角を左に「まっつぐ!」、とすべて「まっつぐ!」でした。「まっつぐ!」しかない、江戸っ子というのか、まるで生き様が「まっつぐ!」、人と人との関係も「まっつぐ!」でした。

なぜか曲がるという言葉が嫌いだったのでしょうか。

白川静字通によれば、曲は悪を意味するそうです。

彼は、左官屋さんでしたが、コテで動物を描いたり、形を浮かび上がらせるのが得意でした。

ついでに、鳥や植物、風景もすべてコテ一本で仕上げることができました。

直線も曲線も、斜めも点も、すべて「まっつぐ!」にコテを走らせることができるのが、職人の気概だと感じていたのでしょう。

野丁場、丁場であろうが、私の知り合った頃は、一人親方をしていたのですが、器用で、気さくで、ちょっと短気で、言葉や動作は、ぞんざいでしたが、きびきびしていました。

「まっつぐ!」、という言葉が、強く印象を持ちました。

さて、禅の修行道場では、お師匠さんに、問題を持ち続けて、わかったら答えを持っておいでといわれます。

わかったら次の問題に・・・と、問題を解答することが修行道場でのすべての生活です。

「四十九曲がりの細道を真っ直ぐに通らにゃ一分立たぬとあるが、どう通る?」という問いがあります。

古い言葉に、「くにゃくにゃ曲がった細い道を、真っ直ぐに通れなかったら、面目が立たぬ」とあるが、さあお前さんならどう通るか?」、という問いです。

今の時代は、「一分が立たぬ」の理解が難しくなっています。

1、一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。「一分がすたる」

2、に分けたものの一つ。転じて、ごくわずかな部分。「衆生の中に―の仏性無き者ありという」〈今昔・四・二八〉

3、自分ひとり。一身。「三人もろともにしたる事をも、己れが―の手柄立てを言ひまはり」〈仮・可笑記・一>

4、同じものとしてみること。同様。 一分が立つ。:身の面目が保たれる。

一分立つ。「リーダーとしての―分が立たない」 一分を捌(さば)く:独力で自分の身の振り方を処理する。

「皆賢く、その一分捌きき兼ねつるは独りもなし」〈浮・永代蔵・二〉

一分を捨つ:一身の面目を失う。「女の一分捨てたる事の悔しや」〈浮・禁短気・四〉

江戸時代には、「面目ねえ!」とか、武士の面目とか普通に使われていたのだろうと創造させます。

禅の本来の面目など、鎌倉時代前の言葉でした。 さて、真っ直ぐに通らなかったら、修行僧としての面目が立たないということなのですが、「何でくにゃくにゃ曲がった道を真っ直ぐ通ることが、修行者の面目なのかが分からないのです。

それにくにゃくにゃした道を、真っ直ぐに通れるわけがない。では曲か? しかも「おかしいよ?」と意義を唱えることもできません。

師匠は絶対服従ですから、聞くこともできません。

根本さんの「まっつぐ!」には、若かった頃の、「真っ直ぐに通る」の記憶がよみがえり、「この人は、日常のすべてがまっつぐ!で、通している人なのだ」と見たのものでした。

最後は病気で亡くなったのですが、へこたれることもなく、最後の最後まで、一瞬一瞬を生き切り、一瞬しかなかった、「まっつぐ!」な人でした。

一生を、「まっつぐ!」なものとして悟って生きたともいえ、こういう人もいたのだと思ったのです。

正直の正と、真っ直ぐの真との、違いを思うのです。

人の誕生から死までの道は、目に見える道もありますが、目に見えない道こそ多いものですが、人も動物も魚や鳥や昆虫も、自然も、世界も、一瞬しか持ち時間がないくせに、道のりを考えて、最後はこうありたいと、創造して生きています。

そんな創造したものに、まっつぐは、木っ端微塵にくだく力を持っています。

何も道だけではなく、過去も未来も、世界もくだく力は、「そうか、道などなかったんだ」と、「人生なんて無かったんだ、ただ今を生きるのみだったんだ」と。

「まっつぐに!」と教えてくれます。

この人の「痛い」、「その時の痛さがたまらない」、腹に一物を持つといいますが、この人は一物を持った瞬間という、「まっつぐ!」下には、もう次の「まっつぐ」に走っていました。

道だけではなく、感情も思いも、仕事も、人と接するときにも、つねにただ「まっつぐ!」にいきていたのです。

話が好きな人でした。笑うことも、同情することも、怒ることも、ほめることも、痛いことも、くじけても、喜んでいるときも、「まっつぐ!」でした。

これが深川の意気地であり、八幡宮への心意気だと考えていますが、今は、何も深川だけではなく下町、いや日本人の心ねです。

繰り返しますが、本来、人は誰でも、真っ直ぐな人であり、自心の正直さをもっているし、もともと清廉潔白なはずです。

その清廉潔白さにさまざまな、すべての感情を起こしては、あるいは思案も、まるで次々と上がる花火のように消えていく清廉潔白な姿を持っているはずです。

ただ、気づくことだと、考えています。

そして、今・ここを生きていることに徹すれば、わたしの「まっつぐ!」が、そこに完成していることに気づくでしょう。

今・ここしか生きていない事実を悟ることです。

今年、3年ぶりの富岡八幡宮例大祭が、8月11日、12日とにぎやかに、13日は早朝より8キロの道のりを、53基の神輿連合渡御が繰りひろげられます。

足元はいつも、まっつぐ!の53基の神輿の勢揃いです。