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若かりしとき、修行の道場で、よく言われた言葉です。

意識は対象によってめまぐるしく活動して、思いもしないことが言葉で出たり、つい人を傷つけたり悲しませたり、だますことになったりと、嘘ついてしまうこともあるのです。

人間がため込んだ知識は、あくまでも知識であってそれが正しい内容なのかはわからないものです。

しかも、知識は忘れてしまったり、古ぼけてしまったり、変わらないものは何かと探し回っての旅は続きます。それも生きるということなのだろうなあと、切りがない。

新聞やニュースの情報も、伝え方によっては明日は違うと、心得るべきでしょう。それとも、今日は今日と、割り切っての知識か?

言うものとは、言わずと知れた知識でしょう。知識を誇るものですが、知識をいくら知っていても、そのことが人間として高みにあるとはいえない事実です。

人間がため込んだ知識は、つい喋りたくなります。速く使わないと時代が変わってしまうし、また忘れてしまうものです。

では変わらないものは何か?変わるものは何か?

昆虫や植物・動物を観察しながら、語っていることを見れば、日々に生きゆく姿、日々に死にゆく姿です。

しかも、体内ではそれぞれに活発な営みがおこなわれている。

人が亡くなって、何で髭が伸びるのか、爪が伸びるのか、色が変わるのか、骨となってしまうのかと、知るものは言わず。

では、語らせるのは、誰ですか?
2017.10.30 Mon l つぶやき l top
ここ最近のことです。地域ではお年寄りの訃報に接することが多く、家族だけで、近親者だけで野辺の送りをすることが多くなりました。

しかも、送るそのときの人数の少なさに寂しく思うことがあります。

仕方がないのですが!

「そういえば、しばらく、姿を見ていなかった」と、思い出しては、多分、しばらく見ていなかった時間とは、自身の身体を心配する時間だった思っています。

訃報が入って気がつく場合と、訃報以前に、気がつくこともあるのですが、顔を見せては挨拶をしていたお年寄りの姿を見ないと気づくこともあるのです。

それが数年続くと、突然の訃報になって便りになることが多いのです。

忘れられるというのではないのですが、地域も身体同様に新陳代謝を繰り返していますので、いつもの風景とは、すべてを含んでいます。

つい最近も3人のお年寄りの訃報が届きました。

それぞれ、老いは自身の経験していなことばかり、身体の良し悪しで、心の良し悪しとなって、自宅に暮らし、病院に暮らし、施設に暮らし、どうだったのでしょうか?

世の中に、人口比率に、お年寄りがものすごいパーセントを占めているのに、結局最後は、家族だけで、近親者だけで送るだけなのかと、です。

1人、息子や娘が親を送る。あるいは近親者がいなくて葬儀社が仕事として送る。

そのぶん、お年寄りがお年寄りの智恵を磨く経験が不足しているような気もするのだ。社会も社会の智慧を磨く経験が不足しだしています。もっとも体験なくして経験の智恵などありませんが?

送られるお年よりは、老いが進んで、あるいは老いと同時に身体の異変で、身体が思うように動かなくなってと、身の回りは急に1人を意識するのではないかと思えます。

「問いは答処に在り、答えは問端に在り」という語があります。

人が年を取れば、人生とは問うことばかりです。ただ老いの問いほど、その問いの内容の奥には、「私」という問題が含まれてあるような気がするのです。

現実には、自分自身のことも究め尽くすことなどできはしないのに、それで、他を問えるのかと、辛辣な問いの連続です。

問題は、その他なのですが、身体の痛みや、脳を含めた身体の内部、子供たちのこと、病院の治療、金銭や年金、社会構造を含めて絡みあいながら生きている自分のことです。

答えのでない問いに、自身を問うことで、答えは自己の内に在るというのですが、「老いては身に従え」という、ことわざもあります。

身と心が一致することなど、問わなければ、一致に至ることもできないし、逆に問えば問うほど、わからないこともあります。

問い即答え、答え即問いの迷路は、老いの豊かさにもなるのですが、老いの辛さも含んでいるいるのではないでしょうか。

だから言うのです。「老いのページは、何枚めくっても、老いばかり」と。

でも、精神的には本来、心に老いなど在るはずはなく、一瞬一瞬の初めてのことばかり、くり返しもないし、自分自身への出会いは新鮮な出会いなのです。

老いも、死も、記録や記憶、歴史や宇宙までも含めて記憶です。ただそこに在るだけで記憶の因果です。

人が生きれば生きるほど、記録はふえるばかりですが、膨大な記録なゆえに、老いれば、欠落し忘れることが多いのですが、忘れることを恐れるより、思考して、考えて、出逢って、読んで見て、思考の回路を研ぎ澄ますことで、老いのページが豊かになることを知るのも、老いの楽しみです。

「俺は何を考えていたのだ。もっと、違う応えもあるはずだと。いっそのこと答えを出し続けてもよいし、迷宮の迷うの中に自分から踏み込んでもよいのです。答えなんかあるものかという応えを出すのも、老いの特権だからです。

時代の変化に翻弄されながらも、一人自分を保つことは難しいことです。縁に随う、随順しながら縁を換えていくことも応えです。
2017.10.24 Tue l つぶやき l top
東日本大震災が起きたとき、人間の自然災害のこわさにつくった回向があります。

『神々、佛、菩薩たちへの祈りの廻向』でした。下記にしるした内容は、その冒頭の言葉です。

『在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は仏教の説く縁起(関係性)そのもの。

在るものを在らしめる、不可思議な神々よ!

在るものを無さしめる神々よ!

無いものを在らしめる神々よ!

無いものを無さしめる神々よ!

空や山や川や海を、穏やかに安んじたまえ。

町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ』と。

実際には、在るものが有ること、在るものが無いこと、無いものが無いこと、無いものが有ること、この四つの自然の出来事に関しては、今の人間の力や知恵知識ではどうにもならないことです。

この自然の出来事には、平安や無事、穏やかさや安らぎへの祈りこそ、人間の人間たる特徴で、ある意味では人間にとって神とは、依り所をなすものと思うのです。

大きな自然災害に動物が遭遇したとき、逃げ惑う姿、行き場を失って災害の流れに命をさらす方法しかない動物たちを想像すると、同じ姿に見えるのですが、人間とは違います。

古代から現代まで、過去の全世代の人間は、祈りをもって生きてつないで、それが今ではないでしょうか。あの東日本大震災は、こう語っていたことをあらためて気づいたことでした。

それは、人間本来の謙虚さを表現するもので、自然に対する畏敬や感謝の思いにつながります。恐さと峻厳さ、穏やかさ安らぎを同時にたたえて、地球という一つのものは、また太陽系の一つの惑星で、宇宙空間の太陽系という一つに過ぎないのです。

この地球こそ、我々にとっては、かけがえのないものであり、この小さな方舟の些細な瞬きやくしゃみにつぶやきで、私たちは吹っ飛んでしまうのです。これに対して、何の力も持っていません。

お釈迦さまは、わかりやすく、「これがあることで彼れあり、これ無ければ彼れなし、これが生ずれば彼れ生じ、これ滅すれば彼れ滅す」と語ります。

ただ縁起(えんぎ)という関係性によって生起(せいき)するだけ。

縁起は因果のことですが、仏教は縁起と読みます。縁はご縁の縁、起は起きるという意味で、縁によって起こるので、生起したものということです。

しかも、縁という意味は、世界の一切ものが縁という結び方で結ばれることを意味します。そして、その内容は、結ぶことは分離することが含まれて、分離することは結ぶことが含まれているというのです。

これは、仏教の特色である相即の論理で、生は死を含み、死は生を含むというように、色即是空、空即是色と般若心経に書かれています。

その縁起のことを、龍樹菩薩は「空の論理は、縁起の論理と。われは説いて空といい、また縁起という」と、説明しています。底がなく、無基底ともいい、西田幾多郎は「絶対無の自己限定」というのですが、生起の起きることが自己限定といいます。

お釈迦さまは、「世界には、あるがまま以外に何があろうか?」、「いま、ここに、これ以外の何があろう」とも因果という法則を説きました。

だから、東日本大震災でこの意味は浮かんで、「在るものを在らしめる、不可思議な神々よ!在るものを無さしめる神々よ!無いものを在らしめる神々よ!無いものを無さしめる神々よ!空や山や川や海を、穏やかに安んじたまえ。

町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。」と、在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は仏教の説く縁起(関係性)そのものだったと、回向を考えたのです。
2017.10.21 Sat l l top