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11月26日(日)午後2時より、ご祈祷法要
          午後3時より、六代目三遊亭円楽 落語
          陽岳寺 護寺会主催ですので、ご参加下さい。
ご祈祷は、“無事や平常であること”をテーマと考えます。
何があっても無事を祈ることです。
無事の基本は、変わり続けることの中に、何事にも変化しない自身の心の姿の自覚です。
人の一生は、みずから朽ち、消滅して、かたちなき限りなきものとなることへの旅路ですというなら、生まれる前から、生まれても、そして旅立った後も、変わらない自分とはなにかと考えることです。

そのために、このご祈祷最初のお努めは、先ずは、何事も受け入れられる心構えとして、無心となることが強いられます。
これは、ひとえにじぶん自身に偽りのないようにと、素直さをいつまでも持てるようにとの意味です。
これを懺悔と言います。
懺悔について、斎藤緑雨は、『眼前口頭』の中で、「懺悔の味わいは、人生の味わいである。」と記しています。

しかし、その懺悔も、人生において、苦渋や自責、許されることのない罪、知らずに傷を付けていた事実の認識、叱責や出生において、苦悩や後悔がなければ懺悔も成り立たないことでもあります。

原罪を持たぬ我々は、生活の中の、忙しさの中に、過ぎ去ることで、忘却という世界の中に生きているかのようです。

さて、祈祷とは、人の祈りを昇華させるものであると思うのですが、祈りがなければ、祈祷は成り立たないものです。
その祈りの中身が、悩みや感謝とするなら、ヘルマン・ヘッセが、『放浪』のなかで、しるす言葉が光ります。

「祈りは歌のように神聖で、救いとなる。祈りは信頼であり、確認である。ほんとうに祈るものは、願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さい子どもが歌うように、悩みと感謝を口ずさむのである」と。

また、祈りを昇華させるためには、祈る人と、その祈りを可能な現実なものにする超越する人格がなければなりません。

超越する人格は、神や仏、亡き人や、聖者と考えられるものです。

そしてその二つの間を取り持つ役割を担うものは、神官や僧侶です。

なぜなら、祈りについての、その祈りの内容を、また、祈りのあとの現実を、具体的に示すことも必要なことだからです。
もっとも何を祈るか見当もつかなく、ただ目前の欲望のみに囚われて、心を虚しくすることもあります。
欲望を祈りに取り違えることは、現実をゆがめます。

カフカは、『カフカとの対話』の中で、“祈りを行為”に、“人を揺籃”に、そして、“やがて贈る側に転身を希う” と書いていました。

「祈りと芸術は、熱情的な意志の行為です。普通に見られる意志の可能性の領域を踏み越え、高めようとするものです。芸術も祈りも、それはともに暗闇に向かって差し出された手であり、その手は何ほどかの恩寵を掴み取り、やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。

祈りとは、消滅と生成に間に渡された光の弧の変容の手に我が身を投ずることであり、その途方もない光を、自己の存在のあるかなきかの、はかない揺籃(ようらん)に定着させるために、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることなのです。」
(これらの文章の引用は、筑摩書房の筑摩哲学の森、別巻定義集からです。)

 “光の弧”とは、プラスとマイナスの電極の間の、稲妻です。

それは、消滅と誕生の間の揺籃する命でもあるのでしょう。

芸術家にまかせることは置いておき、人が祈る行為により、揺籃する心から転身する。全てはこのことが尊いのでしょう。

このことの中に、感謝が芽生え、知らず贈る側に居る自分を知ることがあるのでしょうか。

祈る行為は、その中に、転身を希うことが含まれていることになります。
じぶん自身の計らいの中の、気づきは、人を変えるものです。この変えられた自分を希うことを、このご祈祷の本意と、考えました。

そして、過ぎゆく年の、来る年の、そして今日ただ今の無事や、平常であることを願い、祈りとしたいのです。

無事とは、禅語の『無事これ貴人なり』と、また、平常とは、これまた禅語の『平常心これ道』の、無事や平常の意味から引用いたしました。

平常とは、平等常住の略意で、涅槃・菩提・迷いのない世界・悟りの世界・名利を越えた世界・無心であるのですが、ここから一切の働き、一切の行為があらわれます。

この行為や働きは、一切の善悪・順逆を離れているのです。

善悪・順逆は我々心の分別です。

このこと故に、私たちが世界に住んでいる限り、無事でないことは、まぬがれないことです。

平常に生きることは、とても困難なことでもあります。 無事や平常は、逆に、この世間の事の中に住むからこそ、この日常ゆえに、対するものとして考えられます。

日常を否定するのではなく、日常の生活のなかで、平常が現れなくてはならないのです。

カフカは、「やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。」と言うのですが、転身することです。

積極的に世間に事や日常にかかわることのなかに、転身することです。

徹底して、日常と平常は同じ道であるかと説くか、異なった道であると説くか、臨済が云う「歩々これ道場」は、行為は同じでも、無心か我が身では、雲泥の差が生じます。

蓮如上人が、「婆さんや、糸をつむぎつむぎ念仏するのも結構じゃが、念仏しいしい糸をつむぎなされや」と、さとしたと言いますが、同じ行為でも、念仏するという無心の働き、それは、臨済が云う、「随所に主となる」行為です。

身びいきの我が身に気づくことは、それは、じぶん自身の否定的転生です。

絶対なるものとは、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることで現れます。

転身への祈り、それは、徹底できぬ自身への、素直さえの回帰という意味でもあります。
2017.11.06 Mon l ゆめ l top
碧巌録の第三則は、馬祖大師は唐の貞元4年2月4日にお亡くなりになられたのですが、この問答はその前日、2月3日のことであります。

役位の僧から、馬祖大師にご様態をうかがったときの話です。どんな病気だったのか記されていませんが、翌日に亡くなったことから、思わしくない状態だったのでしょうか?

役位は「いかがですか?」と、動揺し、心配して語りかけたのでしょうか。

馬祖大師は、それに対して「日面仏、月面仏」と答えたというのです。

禅宗では古来からの読み方は「にちめんぶつ、がちめんぶつ」とお読みするのですが、どうしてなのかはわかりません。

日面仏は、寿命一千八百歳の仏様で、月面仏の寿命は丸一日の仏様というのです。

もっとも日面仏は、何やら漢字から太陽を連想させると、何十億年何百億年となって、人の一生とはかけ離れています。

が、その太陽と同時に、一瞬を活きているとすれば、太陽と共にでしょうか、寿命は?

余命は、今だったら、医師より予告を告げられるのですが、今も、確かなことなどわからないのです、推測だけです。

しかも、自分の死については、経験したことがないので誰もわからない。見取った人のみが、寿命を計算できる。

「日面仏、月面仏」に説明をするのは、いらないかもしれません。

理屈から言えば、時は、今から今です。今しかないとも、今という無限に生きていれば、そんな長短はないわけです。そこに引っかかっては、長短にしばられる。

またこうも言えます。時は今から今ですので、一瞬という今に死に、今に生き返る。現実には、そこまで徹して生きることは難しいでしょうが、寿命を長短で計ったり、意味の大小で決めることはできないはずです。

「日面仏、月面仏」は、「今日かも知れない、明日かも知れない」と。「日々是れ好日」もよいでしょうし、「日々新た」でもよいのです。

毎日毎日、一瞬一瞬経験をしたこともない日が、一瞬が誕生しているわけですからね。

命は、捨てるのでもない、執るのでもない、細かいもなく荒っぽいもない。馬祖大師は、調子がよいときも、悪いときも、それはそれで生きている活動の真っ只中です。

「病の時は病になりきるがよろしく。死ぬる時は死ぬるばかりです」と、ただ今を生きるだけです。

馬祖大師は、この日面仏月面仏の境地を手に入れるのに、二十年の辛苦をしたという。

こうした心境とは、新たな不安におおわれるけれども不安ではない。恐くもない。

その実例の歌が、「捨て果てて身はなきものと思えども、雪の降る夜は寒くこそあれ」と。寒いけれども寒くないのだ。実地にわからないとわからない。

「我がものと思えば軽し傘の雪」、この傘につもる雪の重みに腕はきしむけれども、自己自身の身と思えば重くはない。

こんな体験に気づいてみると、馬祖大師の不安もまた、今の自己を現すものであり、その自己に良しとなるのでしょう。

だから、「日面仏、月面仏」と響いてきます。

馬祖大師の臨終に対し、「知るものは泣き、知らないものは泣かない」という。

普段から思うことは、昆虫も魚も獣達も、その環境によって合わせて生きているのに、人間だけがどうして、ひとり生きようとするのか。

生命力とは、何なのだろうか?

ただ冷暖自知するのみで、すごい人だと。
2017.11.05 Sun l l top