FC2ブログ

 私の父が亡くなって、母の静かさが気になりました。母の思いのなかに、父と遠ざかっていくという、この尋という深さがあることを考えたものでした。お寺の住職をしていれば、お檀家さんが、「今日は、祥月命日で!」、「今日は月命日で!」と目にします。

 「あれから何年もたった、10年たった、20年たった」と墓参に来られる。しかも記憶は、過去の記憶でありながらも、今の記憶です。幼かった頃も、10代、20代、30代…………と今の記憶です。鮮明に思い出すものも、忘れてしまったものも、今の記憶であることから、深さや長さとしての記憶として感じる。もっとも、遺影やスナップ、遺品などが近くにあれば、すぐ近くにいると思うこともできる。

人間の心とは、他者との関係性の中に生きる意識の誕生ですので、その関係を完全に断ってみれば、心は生じないことになります。人と人、人とものなどの間にこそ、心は生じると言っても過言ではありません。

 古語に、「十尋(ひろ)の水底は見えても、一尋の人の胸の中は分からない」ということわざがあります。

 手を左右に開くことを、尋(ひろ)といい、これが一尋の長さという。さらに尋は左右の手を重ねる形でもあることから、手を重ねるは、温める、親愛を現し、あるいは接するなどの意味もあるのでしょう。下記の1~8が当てはまる距離になります。

1、神仏の所在を尋(たず)ねる。

2、さぐる、ききただす、ものを問う。

3、考える、すじみちを考える。

4、かさねる、つぐ、いたる。

5、あたためる、いやす、包む。

6、ひろ、ながい、ふかい、浅い、たかい、ひくい。

7、つねの、なみの。

8、ついで、まもなく。

 この8つを、故人との距離として見ることもできます。私と故人と間としてですが、その私とは、その都度の年代の私としてです。

 人の心ほど解らないことはありません。それは対象をもって心があるために、案外、自分のことは、あるいは、すぐ近くにいる人の心も解らないものです。

 心が無心で寛大なときは、すべてを受け入れられるくせに、一旦、こわばると、何一つ受け入れることができない一尋の人でもあります。

 後になって、反省しても、どうしてあんなに怒っていたのか、感情が高ぶっていたのか、思い込みの激しさに何も見えなかったと、よくあることであり、これが人間の現実であり、すべての人の共通の姿ではないでしょうか。

尋は距離を表しますが、その距離を測ることを等身大の尋の本質として、1から8までの意味を持たせたような気がいたします。

 そして人間は、時間を含めて距離をもち、その距離の関係を問い、その問いは問い自身に意味があり、その意味の中に答えをもって一喜一憂しているともいえます。思い描けば千尋となり、究めれば極尋と。 

 人は、喜びを尋(たず)ね、自分自身を咲かそうと尋ね、心を尋ね、安らぎを尋ねる。一尋の中に心が在り、千尋の中に心が在る。その関係そのものを私の心と見出してから、もう何年と経っています。

 その関係の中身は、気に入らないのは、自分が気に入らないのであり、自分の心を振り返ることができないからです。人を憎むことも、実は人が憎いのではなく、自分の心が憎いことになります。その憎い心を持ち続けて生きているなら、憎さの被害者は、他人ではなく自分自身です。

 お釈迦樣という悟ったものからすれば、すでに、自分がないのですから、他者を含めてというところに自分が見えてきます。すると、他者を傷つけたり痛めたり、嘘を語れば、自分を傷つけ痛め、自分を分離することになります。人を殺せば自分を殺すことになります。もともと自分が無かっただけに、このことに気づくことを修業や祈りとすれば、気づくことで、私が生まれる以前より、それが私だったと表現するものです。

 人の心は関係そのもの、憎さを持ち続けて暮らしていけば、自分自身の人生自体が憎さに満ちてしまうものです。

 禅は、その道を、昇らずして昇ると言います。ここに否定という意味が隠されています。「空の故に縁起」とも、「無心」とも言い換えることができるのですが、昇るという連続した行為の今は、足もとの一歩であり、「千里の道も一歩から」、「曲がりくねった道も、まっすぐの一歩」こそ、昇らずして昇る姿であり、すべての人も、距離という長さではなく、一歩を踏み出す匠(たくみ)な人生を歩んでいると考えています。

 あの頃の親としての一歩、よそおう一歩、子どもの頃一歩、もっともそれは今の私ではないのですけれど、過去は今の一歩に寄り添うが如く在ることも事実です。

 私たちは関係、尋そのものを通して学びます。そのことによって自分の人生の意味を深めることができるのでしょう。

 法句経の言葉に、「錆は鉄から出てきたものであるが、だんだんその鉄を腐らせてしまう」があります。

 錆は鉄をくさらせますが、心はくさらせたモノにただ気づくだけで、心を取り戻せることができます。

 尋ねるは問うことであり、心の中の距離や時間をたずねることでもあり、考え、至るを含んでいる心とでもいえばよいのでしょうか。

 仏典リグヴェータには、「一つの真理に対して、賢者たちはいろいろに表現している」と書かれています。事実は事実ですが、人間はその事実に対してさまざまな見方・いろいろな表現をしています。これも事実です。

 誰もが、きっと身の丈の尋をもって、尋ねているものです。でもその身の丈の尋は、字通の1から8までを。そして答えをいくつも持っていたのだと思います。
2019.02.01 Fri l つぶやき l コメント (0) l top