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仏教は、印度から中国に、そして日本に伝わったものです。様々な宗旨がありますが、禅宗は、心を問い続けた仏教宗派ともいえます。

仏法は、お釈迦さまが悟った法というものです。その法は本来一つなのですが、見方によってそれぞれに分派して、今も新興の教えとして誕生しています。

さて仏法の法という漢字は、氵に去るですが、氵は水が偏になるときの形です。では去るという漢字の古い意味は、大とムの字に分かれます。

大は人の象形を表し、ムは口の祈りの言葉ですので、祈って人についた汚れを取りさることでした。走り去る、取り去る、葬り去ると去る意味が、水の流れとなるには、氵遍の漢字の多くがこの流れと関係します。法は水の流れる様子そのもの、あるがままということです。

この漢字の文化は、一字の意味であり、ABCやひらがななどの文化とは違います。法は、水が様々に蛇行しながら流れる様子でした。

よどみなく上から下へ流れる。そこに理由があるのですが、岩があれば岩を周りながら、ゆるやかな地形にはゆっくりと、大きな水の流れはゆったりと、急な地形の場所では速い流れに、滝には滝の様子があり、滝壺には滝壺の水の流れ様子です。

水という姿の決まった形はない。霧になったり雲になったり雨となったり、決まりはありません。水が大地をおおえば水害となり、コップに入ってのどを潤し、身体の多くは水によって、人は活かされています。その水の様子が、そのまま、仏法です。

植物も動物も鉱物も、地球も宇宙も、私という人間一人一人も、仏法の如くです。

さすがに漢字を生んだ中国です。孔子は「知者は水を親しむ、知者は動く、知者は楽しむ。」と論語に書いていました。智者とは、法を知るものということなのでしょう。

さて水は、「大河の一滴」と言われたように、この一滴に自己を見ることも仏法そのものです。氵は水ですので、一滴という自己に譬えてみても、大河を構成する一滴の水となり、大河はその一滴を含んでいますので、その一滴が大河全体を担っているといえるでしょう。

急流の川瀬の一滴も、水は急流で岩を周りながら流れに沿って流れますが、一滴の自ら眺めれば、水は流れて岩は流れずですが、岩は流れて水は流れずという一瞬・一歩の今の自分の姿が自覚できるでしょうか。

全体の中の一滴の全体を、宇宙や世界・平等、平和と書き換えてみることもたのしいことです。さらに、流れのなかの一瞬では、流れを人生や生涯、永遠、祖先としてみることもできます。

流れに随って流れながら、流れていない自己を発見するというのか、今の一歩があって全体がある、氵の去るは水なのか自己なのか、矛盾しながら矛盾しない今の一歩を見つけることも仏法の生き方です。

普段の生活の中の流れるもの、多くは時間と自己との関係なのですが、流れていない自己は一瞬の自己ですので、次の一瞬には、その自己は居なくて、新しい自己となっています。

つまり流れとは変化であり、変化しない自分とは、一瞬の絶対的なものであると発見することです。

氵と去るは、水という自己と、去るという行為に、一瞬から見たらどの一瞬も絶対的な時ですから、去るも来るもないはずです。

曲がりくねった道も、急な坂となって登る道も、一歩から見れば、ただの一歩の人生です。人生は、その都度その都度一歩は終わりを含むことから、その一歩に成りきることは生きる達人となる譬えです。

アイデンティティーとは、自己と自我の同一性と言われ、自己の確立などともいいます。私は私であるということです。

流れに随って水は流れるのですが、アイデンティティーでは、水は自らの行為が流れとなるのでしょうか。

人は一生懸命に何かを蓄え、何かを覚え、何かを作り上げていくのですが、それは何かをため込んで、何かを忘れ、何かを捨てる連鎖であるような気もします。

私は私と、自我を積み上げて、その自我も積み上げるために下敷きにして生きれば、生きた後に何が残っているのでしょうか。

私は私というけれど、何かを壊し、何かを作り上げて、私が通過した後に、残された私の残骸は、それでも私のものなのでしょうか。この連鎖が私たちのわき起こる思いともいえます。

アイデンティティーを確立した、自己を確立した、個性を確立させたというけれど、他者との関係性の中に生きる私とは、話す、選ぶ、取る、結ぶ、作る、生きる、思う、考える、愛する、嫌う行為は、すべて、させられてすることも、また真実であるからです。私が在って世界があることも、世界があって私が在ることも、どっちもどっちですが、私が在るから地球があるのでしょうか。

仏教は、地球があって私があるように、私は、私でないことによって、私であるというのです。同時に地球自身の根拠も、地球も地球でないことによって地球であるといいます。

地球の根拠は、地球に生きる、住まう、在る動植物、鉱物資源空気や水の一瞬にあると言えるのです。当然に、地球に生きる、住まう、在る動植物、鉱物資源空気や水の根拠は、それ自身にはなく、地球にあります。

互いに寄りかかりながら、宛にして、居場所にしていることを、自己否定を含んでいるともいいます。これは、神や仏、菩薩も、神や仏や菩薩でないことにとって、神や仏、菩薩であるといいます。しかも、この関係は同時関係です。

私が歩いていたとしたら、私が歩かされていた。私が生きていと思っていたら、さまざまなものによって生かされていた。私が選んだ人は、私が選ばされた人だった。

私が選んだ人によって、出会った人と結婚して働くということは、物語を創って生きています。物語は、創ると同時に創らされていることです。
2019.10.01 Tue l l コメント (0) トラックバック (0) l top