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一夜賢者の詩

過ぎ去れるを追うことなかれ。
いまだ来たらざるを念がうことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在にするところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
それを見きわめ、それを実践すべし。
ただ、今日まさに作すべきことを熱心になせ、
たれか明日、死のあることを知らんや。
まことにかの死の大軍と、遇わずということはあることなし。
かくのごときを一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
 (増谷 文雄 訳詞『阿含経典第五巻』)

40年以上前で、お寺で少し大きな犬を飼っていました。
散歩には、車に乗せて埋め立てた東京湾の護岸から広がる原っぱ歩きました。

空が広く感じ、暖かい日には海風が気持ちよかった。

今の若洲ですが、辰巳や東雲に有明と行ったものでした。
江東区の湾岸地域は、関東大震災の震災瓦礫を埋め立てた豊洲に、昭和11年11月に辰巳と東雲が接続されました。

戦後の復興でこの地域に戦後避難者を救援するために都営団地ができたことを聞かされています。

若洲は昭和44(1969)年12月に埋め立てが終わっていました。

建物はなかったので、見渡せる原っぱが続く埋め立て地でした。
そこには、どこから来たのか木々も成長し雑草も活発に成長して茂るという自然な季節感がありました。

蝶やトンボの種類も多く、鳥たちも昆虫たちも、地中に生きるものたちも、きっと人の手が入りませんから彼らにとって繁殖ができる絶好の環境でした。

でも見ている人にとっては、何か殺風景というのか、だだっ広い風景で、海風は強く、土ぼこりが舞っていました。

確かにそこは、木々に草、海に開けて、循環に創造という自然という営みが、行われてたのです。

東京の湾岸に広がる埋め立て地は、鳥たちだけではなく、捨て猫もいたし、カラスに海鳥、色を染めた鳥たち、昆虫たち、地中に生きるものも、そこに住む者たちにとって、一匹一匹、一羽一羽、今を生きる一夜賢者のような気がするのです。

人間が自然と違う特色づける心を持ったことが、一夜賢者を忘れて、特殊な存在というモノになったと考えてみました。

多分一万年ぐらい経て、人間は地球上に、生物の生態系の頂点に立ち、繁殖し、大自然を変えて暮らす文化を創造したと。

でもその自覚は持っていないのではないか。

さらに別の言葉でいえば、不自然という文化を、気づかずに持ってしまったともいえるのではないか。

そんな人間が地球上に暮らすことで、自然も変わってしまった。

お釈迦さまは、心という様々な現象という思いを持って生きる人々に、一夜賢者という知恵を授けたのですが、諸行無常な心に、諸法無我という自然に、生きるすべという観察する智慧を、一夜賢者の詩は持っています。

人間が人間として、この地球と共に生きる努力をしなければならないことです。

一夜賢者の詩の、未来について、まだ来ないという事実に答えることはできるでしょう。

過去についても、過ぎ去ったという事実は、厳然とした事実から答えも出てきます。

それでは現在はということで、講談社の原始仏典「ぶっだのことばⅢ」から、お釈迦さまの「現在」の説明を聞いてみましょう。

『このように私は聞いた。あるとき、世尊は舎衛城の郊外、祇園精舎に滞在しておられた。

そのとき、世尊は比丘たちに、「比丘たちよ」と告げられた。

比丘たちは「尊師よ」と世尊に答えた。世尊はこのように語られた。

「比丘たちよ、一日賢きものの説明とその解釈とを私は汝たちに説こう。それを聞いて、心せよ。私は語ろう。」

「尊師よ、かしこまりました」と、じつにかの比丘たちは世尊に答えた。

お釈迦さまは、「現在のことがらに、揺らいでいない」ということはどういうことか?

物質的現象を自己なるものと見ない。自己なるものを物資的現象のあるものと見ない。

(物質的現象は諸行無常であり、それは諸法無我であるがゆえに諸行無常という物資的現象があり、諸行無常は即諸法無我、諸法無我は即諸行無常気づけばよいだけのことです。)

自己なるものに物資的現象を見ない。物質的現象に自己なるものがあると見ない。

(これは嫌だ、これは好きだとか。無眼耳鼻舌身意、即眼耳鼻舌身意。)

感受を自己なるものと見ない。自己なるものを感受のあるものと見ない。

自己なるものに感受を見ない。感受に自己なるものがあると見ない。


(感受とは、相対的なものから受ける精神的作用といえばよいでしょう。でも無心な自己からすれば、悲しみや怒りという精神的な現象は一時的なものであり、本質的なものではないはずです。一瞬あるいはその時の感情に支配されないということでしょう。)

表象を自己なるものと見ない。自己なるものを表象のあるものと見ない。

自己なるものに表象を見ない。表象に自己なるものがあると見ない。

(表象とは、観察する私の目に映されたものです。その映像として映されたものは、表象と共に感情や思いがわくのも心の作用です。それは自我にすぎないことです。)

意志を自己なるものと見ない。自己なるものを意志あるものと見ない。

自己なるものに意志を見ない。意志に自己なるものがあると見ない。

認識を自己なるものと見ない。自己なるものを認識のあるものと見ない。

自己なるものに認識を見ない。認識に自己なるものがあると見ない。

(意志と認識についても、無心な自己があるから、意志と認識それに感受という現象や表象が起きるのですが、絶対的なものではありません。
ただ無心な自己に気づくこと、それを揺らいでいないということです。)

比丘たちよ、このように、じつに現在のことがらに、揺らいでいないのである。』
2019.11.01 Fri l l コメント (0) トラックバック (0) l top