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総合誌「歌壇」2月号、第31回歌壇賞に選ばれた、小山 美由紀さんの歌です。

「からっぽの郵便受けに溜まりいる 空気に静かな名前がほしい」

朝起きて、郵便ポストに新聞を取りに行く、そのたびに、新聞紙は見えるけれども、郵便箱の中の空気は見えない。

当たり前のことで、空気がモヤモヤして黒く透き通るようなものだったら、新聞紙が見えない。

その透き通るような空気に何か名前が欲しいという。いじらしいほどの繊細な精神でないと、この歌は詠めないのだろうと感心する。

見えない空によって、新聞紙が今日も届けられているという見えない自分の安心感も感じられる歌です。

メガネをどこかに置いたはずだと探すことも、ただメガネを記憶という意識の中で見ながら、探すというのか、その探す姿は、家族から見たら可笑しさをもたらしまう。

長く探していれば、「もしかして認知症が始まったのか」と不安を与えることもある。

透明な空気があるから、「メガネどこに行ったかな?」と探すこともできるのですが、探す私と忘れた私の喜劇のような独り芝居です。

見つけようとして見ているのだが、見えない。

メガネが見つかってみれば、「こんな所にあった」と、ただメガネを耳に掛けるだけです。

よくあることとは思わないけれど、まあ、あっても不思議ではない。

見るは探すということでもあると発見する。

では放射線はどうでしょうか?

2011年3月11日午後2時46分に起きた東日本大震災に伴う津波によってもたらされた、福島原発の爆発による放射線。

やはり見えないことで安心して暮らすことができます。現実はというと、0.07マイクロシーベルト前後という値が、今でも、カウンターの数字に姿を見せます。

当然、被災地の荒れた大地や市街地の復興はできても、被災者の9年間の今の景色に見えるのですが、心の中に抱えた時間と重さは、見えません。

これも見えないものによって成り立っていると考えることができるのです。

ちなみに、台所の流しの中の網カゴの中の調理カスも、一緒くたにゴミとするのですが、ゴミって何なのだろうと、カスって何なのだろうと見ると、カスやゴミではなくて、捨てるもの、用がなくなったものとして焼却炉で燃やしてもらうものなのですが、こんなことを思うと、何か言おうとしているみたいに見えてきます。

警察の犯人捜しの指紋は肉眼では見えないが、粉を掛ければ見える。

新型コロナウィルスも電子顕微鏡や検査では見える。

見えないけれど、見えると同時に、見えるけれど見えないものもあります。

見えるものと、見えないもの、もっとも見えるのに見ないということも、逆に見えないものが見えると、仏教はこうしたものにも、心という、私という、自己とは何かと学びます。

眠るということを考えれば、就寝で、「見ない」ということで、瞼を閉じることで眠ることができるのですが、見ないという意志があっても、知らずに夢を見ていることもある。

夢も何も見ていなければ、寝ていたことさえわからないので、夜眠って起きたら朝だったと、時間は見えない。

記憶がなければ時間は見えないことがわかります。記憶によって成り立っている時間だけれども、一瞬は見えるのだろうか?

一瞬を生きることがなければ生活は成り立たないのですがね!

朝起きて顔を洗うことは、習慣であることは間違いないし、一人暮らしになれば、「面倒くさい」のでとか、「まあいいか」、「今朝はやめた」とか、省略することもあるでしょう。

その省略するという意志は、どこから来るのだろうかとも考えはしないだろう。

聞かれれば、「そう思ったから」とも、考えないだろう。

自分を見ない証拠ですが、悪いとか良いという判断にすれば、また別のものが見えてきます。

私たちの普段の生活の中では、眼を開いていれば、「見ている」ものばかりだと気がついた。

ただ見ないものばかりでもあるとも気がついた。しかもボーッとしていれば見ていない。

見つめることは、夫婦であっても、子どもと対面しても、一人暮らしになっても、「見るって何なのだろう?」と、不思議な疑問をもってしまうのです。

こんなことを考えると、見るには、見ないがセットで成り立っていると同時に、見るとは、目的のものを見るためには、それ以外のものをあえて見ないということもいえると気づくのです。

禅宗の碧巌録の94則は、楞厳経というお経の中かの、「見る、見ない」を、テーマとする内容です。

お経は、漢文ですので格調が高く、私たちの普段使っている平易な言葉ではありませんから、読みづらいのですが、易しくすれば片寄って難しい。

そこを何とか、平易にすれば言葉が多すぎてまどろっこしいのです。

見るを、「見」として、見ないを、「不見」としています。中国語なので平仮名は、もともと見えないのです。

見ることを重点に学ぶのではなく、見ないを重点にしてことが書かれています。

お釈迦さまが阿難に、「吾れ見ざる時、何ぞ吾が不見のところを見ざる」と語る内容です。

不見のところとは、本来無一物、無心、空、仏、本来の面目等々数々の言葉があります。

ある僧がお釈迦樣に問いを発しました。「見:我れあるが故に山河大地ありという、しかもその人死するも(不見)も、なお山河あるあるは、何故だ?」と問を発しました。

その時、「その人死すれば、その人の山河大地なし。他人の見る山河大地のみ」と、答えられたということです。

人が亡くなって、別れを経験するとき、そこには「故人との死後の出会い」が待っている。

親しかった者との死別。それは永遠の別れではなく、むしろ、けして消え去ることのない本当の出会いの始まりともいえるのではないかと。

人は、見るものと、見ないもの、見るものは自分の中の心の幕に相として、出会いに悩む人々に、「なぜ私の見ないところを、見ないのだ」と問いかけていると、そんな出会いがあってもいのでは無いかとよいのではないかと思うのです。

親しい人が亡くなって、すでに故人となってしまった人との出会いとは、もう見るとか見ないということを離れて、その見る見ないということも離れて、手を合わせる、目をつぶり見ないという。

その主観の光明の中に、出会うと、気づいたことがありました。

手を合わせる、そしてその手に集中する。

尊しとする。

あるいは目をつぶって見ない。


そこに無心な自己を発見できれば、そこに出会いがあります。
2020.03.25 Wed l こころ l コメント (0) トラックバック (0) l top