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錐翁慧勤1

平成21年7月28日の午前10時、本山の塔頭・慧照院と禅文化の西村さんが陽岳寺に訪ねてきた。
内容は、陽岳寺の錐翁は、愚堂東寔の三首座の中に名前が連ねられているという。
愚堂派下の三首座は、錐翁慧勤(東京・陽岳寺)、至道無難(東京・東北寺)、梅天無明(伊勢南勢・慈眼寺、箕面・正法寺、大津・慈福寺)と知らされた。
愚堂派下の十五哲には、一絲文守(滋賀・永源寺、亀岡・法常寺)、旭窓景曄(京都・聖沢院)、崇山禅清(伊勢・片山寺、東京・正燈寺)、雷峰如黙(山科・華山寺)等々11名の僧侶の名が記されていた。名前が記された寺院は、みな大きなお寺であり、陽岳寺がもっとも貧しい寺だ。そんな人がどうして陽岳寺の二世に名を連ねているのか?不思議だ。

伊藤古鑑老師の著述『日本禅の正燈』に、陽岳寺の錐翁慧勤のことが書かれている。
《錐翁慧勤は元和四年(1618)愚堂四十二歳のときに来参した。愚堂の血気盛んなときの説得を受けたこととて、この錐翁はすこぶる峻厳で、その名は天下に聞こえ、四方の学徒も慕い来たったということである。江戸の陽岳寺に住し、晩年には至道無難が江戸至道庵に住して教化を開いたので、ますますその教化を競うて、蘭菊その美をなしたともいわれている。
 錐翁の会下には、応現という一人の女性が居た。つねに錐翁の左右を離れず随侍していたので、人みな怪しんで、その女人を遠ざけようとした。またある時、血気盛んな雲衲が直接に、その女人に向かって強硬に談判していうには、
「汝があるため、わが道場も日増しに評判が悪い。よろしく反省して、わが老漢の汚名を出すべからず」といさめた。
すると、その女人は、その雲衲をにらみつけて、その道場から立ち去って行ったので、雲衲は、その跡を追うて見ると、その女人は、ある大河のほとりにたどりつき、髪を乱して、鬼女の姿をあらわし、そのまま水中のに身を投げて死んだというのである。
そして、その後、錐翁の法筵(ほうえん)には、必ず竜女となってあらわれ、錐翁のかたわらに侍坐したと、東嶺の『達磨多羅禅経通考疏』第四に伝えているが、これは、あまりにも不思議な伝説であって、これをそのまま信ずることはできないにしても、とにかく、錐翁は、よく女人の入室を許し、女人と対坐して説法したことは事実である。

女人の入室を許し、女人一人と対坐することは、よほどの大善知識でも、つつしんだものである。それは、世間のつまらぬ噂の種を蒔くからである。
然るに、この錐翁のみは平気で女人の入室を許し、対坐して説法したので、世間の人からは、ひそかに錐翁を誹謗するものもあり、また、これを師の愚堂に訴えたともいわれ、愚堂も「これをつつしめ」と注意し、錐翁はこれに対して、ただ「他日謝すべき日もあらん」というて、さらに反省の色を見せなかったともいわれている。

この錐翁の法嗣(ほっす)には仏頂河南(ぶっちょうかなん)がある。始めは常州根本寺に住し、同寺五十一世として、その再興に力を謁した人である。のちに那須の山奥に小庵結んで、そこに退隠したのである。また、この仏頂の弟子に有名なる俳聖・松尾芭蕉が出て、つねに師資の礼をとって、禅を修得したといわれている。》
江戸深川(清澄町・臨川寺)の小庵に住す仏頂に、芭蕉が通ったという。

愚堂東寔(ぐどうとうしょく)のことを少しでも記す本は、私のところでは一冊のみ。大円宝鏡国師語録と年譜で、木村俊彦師の著述だ。
そこに錐翁という名のことが記されていた。
「寸鉄、鋳成す、炉鞴(ろばい。鞴はフイゴのこと。)の処。工夫は豈、鑿頭(さくとう。鑿はノミ。)の方に在るや。然も鉗鎚(かんつい)[の力をいまだ費や]さずといえども、千万人ちゅう独り橐(ふくろ)を脱す。」とあった。


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