錐翁慧勤3

2009/09/07 13:35

陽岳寺の歴代住職は下記のとおりとなっている。
江巖祖吸 開山(宝永2(1705)年閏4月8日没 [日暮里の南泉寺より、拝請])
文室祖郁 創建(正徳3(1713)年10月19日没、三浦三崎の見桃寺和尚にて、妙心寺はの僧籍を持っていなかったが、忠勝が信仰していた。)
錐翁慧勤 二世(貞享4(1687)年2月20日没)
大室祖昌 中興三世(元禄16(1703)年11月15日没)
華山要印 四世(享保9(1724)年11月2日没)
方充祖丈 五世(元文2(1737)年6月7日没)
乾梁祖廉 六世(宝暦2(1752)年2月18日没)
屠龍宗牙 七世(安永(1772)元年5月13日没)
照道惠靜 八世(寛政4(1792)年9月15日没)
雪傳文可 九世(文化9(1812)年11月23日没)
莔田惠蒭 十世(明治23(1890)年10月22日没)
圓瑞宗玖 十一世(明治4(1871)年4月4日没)
雪川惟整 十二世(明治20(1887)年3月8日没)
臥龍庵戒州恵錠禅者(明治44(1912)年11月26日没、代務)
清川惠廉 中興十三世(昭和29(1954)年2月7日没)
元峰鍈一 十四世(昭和58(1983)年10月16日没)
雅山宗直 十五世(昭和61(1986)年8月13日没)
聰川眞幸 十六世
素山真人 十七世の予定
さて、開山和尚の過去に連なる法脈というものがある。その脈をさかのぼってゆけばブッダ釈尊にたどりつき、更にさかのぼることができる。
これを逓代伝法(ていだいでんぽう)という。陽岳寺を陽岳寺にならしめる証しであり、この歴史によって、陽岳寺は存在する。
因みに、江巌祖吸をさかのぼってみれば、隠嶺梵阿―西江宗蘂―大愚宗築―智門光祚―状元祖光―快川紹喜―仁岫宗寿―独秀乾才―悟渓宗頓―雪江宗深―義天玄承―日峰宗舜―無因宗因―授翁宗弼―関山慧玄―宗峰妙超―南浦紹明で、この先は中国になる。
虚堂智愚―運庵普巌―松原崇岳―蜜庵咸傑―応庵曇華―虎丘紹隆―円悟克勤―五祖法演―白雲守端―楊岐方會―石霜楚円―汾陽善昭―首山省念―風穴延沼―南院慧顒―興化存奨―臨済義玄―黄檗希運―百丈懐海―馬祖道一―南嶽懐譲―慧能大鑑―弘忍大満―道信大医―僧璨鑑智―慧可大祖―菩提達磨で、この先はインドになる。
般若多羅尊者―不如蜜多尊者―婆舎斯多尊者―師子尊者―鶴勒那尊者―摩挐羅尊者―婆修盤頭尊者―闇夜多尊者―鳩摩羅多尊者―伽耶舎多尊者―羅睺羅多尊者―迦那提婆尊者―竜樹尊者―迦毘摩羅尊者―馬鳴尊者―富那夜奢尊者―脇尊者―伏駄蜜多尊者―仏陀難提尊者―婆須蜜尊者―弥遮迦尊者―提多迦尊者―優波毬多尊者―商那和修尊者―阿難尊者―摩訶迦葉尊者―釈迦牟尼仏となります。、この先は過去六仏となります。
迦葉仏―拘那含牟尼仏―拘留孫仏―毘舎浮仏―尸棄仏―毘波尸仏
岐阜の崇福寺(織田信長のお霊屋があり、快川国師の住山した寺)さん出版の『快山国師の生涯』にこんな記事があった。
妙心寺派の独秀門派系図では、岐阜南泉寺の歴代は、独秀乾才(汾陽寺・崇福寺)―仁岫宗寿(天文15年頃~天文20年6月で崇福寺の住持でもある)―快山紹喜(天文20年6月~天文24年2月で、崇福寺・恵林寺[甲斐]の住持でもある)―状元祖光(天承年頃~慶長10年11月3日寂で、文禄3年に大愚を得度とある)―智門光祚(慶長10年~寛永1年隠居)―大愚宗築(寛永1年~?で、元和2年9月6日妙心寺に転位、寛文9年7月16日大安寺で寂)―西江宗蘂(江戸陽岳寺開創とある。
崇福寺の『快山国師の生涯』より状元祖光を抜粋してみる。
《『祠戸村史』(岐阜県関市祠戸町)では、美濃国武儀郡祠戸村の武藤氏出身としている。若くして近くにある南泉寺の快川に入門したのであろう。快川の南泉寺住山は天文15年~24年である。その後は、快川の二度にわたる恵林寺住山に従ってその膝下にあり、元亀4年(1573)秋に、この祖光首座に大して快川は「状元}と道号を付与した。
その後、法嗣として認められた時期は定かではないが、すぐ下の法弟・一鶚宗純(いちがくそうじゅん)が快川の自賛頂相をもらったのが天正6年なので、おそらくは天正5~6年頃にひとりだちを認められたと思われる。天正7年と推定される3月13日付けの大慈寺あての南化書状には、「状元翁は去歳上国せり」とあり、状元が天正6年に甲州から美濃に至ったことを推定させる。
南泉寺は快川の後席を守敦(しゅとん)首座が守っており、この人に快川は天正8年に「鶴院」との道号を与えてその苦労をねぎらっている。鶴院はこの頃、山県市大桑の円福院に引退したので、代わってこの状元が恵林寺から南泉寺へ入寺したものと思われる。快川は火定の時には、状元は南泉寺に居たことになる。天正16年4月2日の快川7回忌は、南化、淳巌、普天、天叔と共に、状元も和韻している。
文禄3年には、美濃国武儀郡の乾徳寺にいた状元のもとへ十一歳の大愚宗築が入門したという。『大愚和尚行実』に、大愚は武儀郡佐野荘の武藤家に生まれたとある。
『美山町史』によれば、大愚は山県市佐野の高瀬文右衛門の子で、状元の甥に当たるという。
慶長2年酉8月彼岸日には、状元が月湖恵鏡信女の予修語を残しており、これに「南泉野釈状元叟」と署名している。
慶長7年小春吉辰に智門が南泉寺の状元和尚の頂相に賛を求めたので、状元の法兄南化玄興が賛を書いている。この頃状元は病床にあって筆が執れなかったかもしれない。
状元が示寂したのを聞いた法兄の淳巌と南化が悼偈を上呈した。淳巌の悼偈に、南化と一宙とが和韻したことが『禅林雑記』に見える。ただ南化は前年の慶長9年に亡くなっているので、状元示寂は慶長10年でなく慶長7年か。蔭涼が南泉寺へ弔慰に参じた時、智門座元が礼謝に越されて、その時即刻に作偈したとある。(蔭涼和尚語録)
なお、慶長20年10月5日に、大愚は状元の法嗣智門にから大愚という道号を付与され、元和7年7月3日には印可状を与えられている》
陽岳寺の法系からいけば、快川から状元へ、智門から大愚下に連なる法系であるが、日暮里南泉寺を経由して大愚派下ということになっている。しかしながら、錐翁慧勤は、師匠はあきらかに愚堂であり、それに、示寂した日が、貞享四年(1687)2月10日であることだ。
江巖祖吸 開山(宝永2(1705)年閏4月8日と 文室祖郁 創建(正徳3(1713)年10月19日の二人の没年より過去に、錐翁慧勤は亡くなっている。何故だろう。また遠く離れた、岐阜の南泉寺の歴史に、陽岳寺が登場することも不思議な話なのだ。
本山の大愚法系に、陽岳寺の創建文室和尚と錐翁慧勤二世は入っていない。



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