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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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時の働き

仏教では、世界といい、宇宙といい、それは、存在と時間です。その存在と時間を、今とこことに置き換えれば、私が表現されます。それを、道元禅師は有時(うじ)といいました。
 その私を、昨日の私、一昨日の私と多くの私を並べてみれば、そこに時間の流れが誕生するでしょう。そしてもっともっと多くの事象を並べてみれば、そこに、並べられた時の働きがあります。この時の働きを、私たちが目にするとき、出会うとき、ときに私たちをとても混乱させるのです。
 先日、飼い犬寧々子が、急性膵炎という聞き慣れない病名にして死亡しました。朝りっぱなウンチをしてあったことを思えば、いつも通りの寧々子だったのです。
 今、どうして……という思いと、いなくなった寧々子の空間が寂しくて……心と住みついた場所にです。
 それは12月5日(土)早朝のことです。朝起きると、寧々子が、あちこちに黄色いゲボをしていました。寧々子は怒られるのではないかと、独りこちらを見あげています。小さいときに、しつけるために、ウンチをトイレでしないときに怒ったことを憶えているのでしょうか。
 昨夜食べたあとのウンチはトイレにしてあったことで、嘔吐を片づけた、外回りの枯れ葉とお墓の掃除に、一時間半ほど時間を掛けて家の中に入り、新聞を見ていると、寧々子が私の膝にのっかり、かすかに震えていました。
 そして食事のとき、それはいつもの通りだったのですが、私の足もとにうつぶせに、寧々子の前足をそろえて、アゴを乗せてじっとしていました。やがて、仰向けになって寝そべっていました。
 食事を終えて、法事の支度をし、ソファーに座ると、またも寧々子は私の膝に乗り、アゴを私の腕に乗せます。かすかに尻尾が震えていました。「寧々ちゃん、猫になったみたいだね」。しばらくすると、私の横に移動し、仰向けになっています。震えもありました。 おかしい、これは、いつもの寧々子ではないと違和感をおぼえ、すぐに病院に電話して、結局五日間の入院で亡くなってしまったのです。
 亡くなる前日、痛み止めの注射に横になっている寧々子を見舞い、獣医師より、「今日は、水を飲み、少し歩けるようになったのです」と聞き、かすかに回復の兆しが見えて、ホッとしていたところだったのです。
 その翌日の午後8時半でした。亡くなったのは……。亡くなる直前キャイーンと小さな声で寧々子は吠えたと聞きました。
 入院して、毎日毎日、予断を許さない状態に、急性膵炎の怖さを知りました。
 動物病院からは翌日、花キューピットでお花が届けられ、家で用意した花に囲まれ、寧々子は、11日に火葬しました。
 それこそ、寧々子の急死はどこにも連絡しませんでした。修行に行っている息子も可愛がっていたのですが、あいにく、8日から一週間、臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)という行(ぎょう)に入っています。この七日間は、一年間の修行の頂点にあたり、それこそ、蒲団にて眠ることのできない、すべての時間を、坐禅に集中している時間だからです。たとえ連絡したところで、帰ってこられないことは解っているのですが。
 妻が台所に立っているとき、包丁の刻む音がします。すると、寧々子は、例えばキャベツなど菜っ葉を切っているとき、妻の足もとで、妻を見上げます。生野菜はとても犬にとってはカロリーも少なく、繊維質は胃腸によく、ヘルシーであることから、切り落としては寧々子に与えます。ニンジンやキュウリも寧々子は大好きでした。
 きっと、妻は、台所で菜っ葉や根菜類を、包丁で切れば、寧々子のことを思い出すと、寂しく悲しい思いを持つでしょう。
 きっと下の息子は、息子で夜遅くなって帰ってくると、真っ先に出迎えてくれる寧々子がいないことに、懐かしく、寂しい思いを持つでしょう。それに朝出かけるとき、必ず吠えていたことに、寧々子が入院していなくなると、また亡くなったことを知って、吠える寧々子がいないことに、どう意識しているのだろうかと考えたりもします。
 私だって、出かけて帰宅すれば、そこには、いつでも寧々子が尻尾を振って待っていました。今は、帰るたびに、尻尾を振り、「お帰り」という言葉がないのに、いない寧々子に「ただ今」と、寂しく思うのです。
 悲しみに対する人との接し方の基本は、対する相手が悲しければ、自分も悲しみが溶けるまで同調させることです。悲しみの正体が解るまでです。
 しかし、その正体は、解っているのです。時の働きです。
 初めて寧々子迎え入れたとき。しばらくして寧々子の様子がおかしくなり、提供主に引き取ってもらったこと。そして数週間後に元気になって再度迎え入れたこと。今度はその寧々子がアレルギーで薬を飲まなければ、皮膚を掻きむしってしまうこと。寧々子の毛の模様が、数年で、白い毛に模様を変えてしまったこと。その白くなった毛を、耳だけパンダのように黒く染めてしまったこと。………………。
 これら並べられた時の働きは、すべて今の言葉で、表現できるモノです。そして、並べられた今とここは、時の流れの、過去から未来へと、昨日から今日へ、そして明日へと、これらは、あきらかなことと思っても、疑問を持たないからといって、時を、知っているということはではないのです。考えることも時なのです。考えないも時です。
 ふだん私たちの周りで起きる現象、それはちっぽけな事や、とても重大なことであっても、時との繋がりをもってと、考えようとはしないものです。
 今、この機会に考えてみると、時は、ただ過ぎ去るもの、来るものであるとは見ていなくとも、過去はただ過ぎ去ったものとしてのみと考えると、時が連なっている事を見失います。
 これは、総ての世界の存在する今とここは、時として連続している時であり、それは過去から今へではなく、時は、今から今へと連続していると理解するとよいでしょう。
 その時は、寂しい時、空虚感の時、寧々子のいないことを実感する時も、時の現れです。
 迷う自分を思い、迷わない人を我と違う別のものに譬えて求めるも、時の姿です。悟るも時、治るも時、気づくも時の現れです。逃れたとしても、時の現れであり、これが時間と存在を持つことの意味であり、これが世界です。
 時はただ過ぎ去るものとしてのみ、決め付けないで、来ないもの、未だ到らないものとも理解しない。
 たとえ理解したとしても、時は、ほかに根拠としてあるというものではありません。過ぎ去ること、来ることと認めて、時を見極めた人はいないのです。このことから、解脱し会得する時はないのだとも思います。
 たとえ、時の在り様を認めたとしても、そのようなことでは、誰が、連続する今ここを、持ちえることが出来るでしょうか。そして、仮に、持ち得たとしても、自覚していないから、変化する日常の姿・出来事を、手探りするようなものです。
 おおよその世間の迷いや束縛は止まるところが無いものです、これも時の表現です。世界に並べた、今、ここ、我に於いて現れたものはすべて時の表現です。
 この時の表現と、働きがなければ、これに漏れて世界の法である真理や、縁起的に存在し現れるということもないのです。
 迷いや束縛在ってこそ、現れるもの、今、ここ、我の時の現成とも言えるのではないでしょうか。それが私たちの今の表現です。
 考えてみれば、我々のこの世界は、動かず、転ばず、進まず、退かずではなくて、今、ここに於いて、去来する姿を含んでの並べられた時の働きとしてあることが見えてくるのです。だからこそ、いま・ここ、そして一日、一日を大切にするしかないのです。
文章が、なかなかできませんでした。それが、たった半日で、この便りが作成できました。、寧々子が書かせてくれたものだと、思っています。寧々子を人に譬えてみたいです。

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