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シクラメンのかおり

 一昨年以前に買った小さなシクラメンの花鉢2鉢、それは、枯れてしまったと思ったシクラメンが、どうしたことか二回りか三回り大きくなって昨年は咲いたのでした。
 買ったり、いただいたりしたシクラメンは、もうずっと、枯れてしまうことばかりでした。それが、どうしたことか、みな大きく育っている。路地で育てているせいか、寒さにもめげずに、葉は緑が濃く、花は次々に咲いて頑張っている姿に嬉しくなります。
 それこそ、真綿色したシクラメンに、うす紅色のシクラメン、薄紫のシクラメン、深紅のシクラメンたちです。
 しかしながら、この咲き誇る姿は、鉢を一回り大きくし、肥料を鉢の底に撒いたせいなのか、シクラメンは詳しく話してくれませんのでわからないことです。伝え聞くところによると、新種のシクラメンに、薫りがある品種があるとか。いまだ出会ったことはありませんが、わたしには新しく改良した薫りのないシクラメンの種類で充分です。

 飼い犬の寧々子が平成21年12月10日に突然と亡くなりました。それは突然と姿を消したような、その姿を消したことを、生活の中で思い知らされることが日々に多いことを驚かされます。そして、さらに連想することは、以前飼っていたペットたちのこともあらためて思い出し、姿が浮かんでくるのです。
 それはまるで、生活に彩りを与えてくれたペットたちが、時(とき)となって次々に我れを追い越していくイメージです。そう想像してみたとき、わたしが幼かった頃、小学生の頃、中学生の頃、高校の頃、……の頃と、今に至るさまざまなできごとは、今のわたしというものを通過していった時となっています。

 『シクラメンのかほり』という歌のメインテーマは、「時が二人を追い越して行く……」です。
 この歌は、男女の恋愛の出会いから、恋がふくらみ、別れをシクラメンに託して歌ったものです。出会いのシクラメンの清々しさ、恋真っ最中のうす紅色のシクラメンのまぶしさ、別れのうす紅色のシクラメンの薫りがむなしく揺れる姿を、女性にたとえたものです。
 そんな二人の出会いには、季節が頬を染め過ぎて行きます。そのさなかには、いつの間にか愛という独立した時があるかのように知らず歩き始めます、と。
 別れの予感として、「呼び戻すことができるならば」と、過ぎ去った時に対して、「僕は何を惜しむだろう」と自分に問いかけています。そして別れがあり、「季節が知らん顔して過ぎて行きました」、と。 
 作詞作曲の小椋佳氏によれば、『ものごとが動いたことを計るために人間が時間の観念を生んだにもかかわらず、時間は生み落とされた途端に人間の言うことを聞かなくなった。そのせつなさを歌にしました』と、平成21年11月27日の毎日新聞朝刊に、《新幸福論―生き方再発見より》と記していました。
 恋愛の初めから終わりの刹那刹那を、時が追い越してゆくと。追い越された人は、呼び戻すことのできない時を惜しむゆえに、切なさが残ります。時は知らん顔することで、まるで、独立したもののような振る舞いです。
 ところで、法句経というお経には、「過ぎたるにも、来らんにも、はた、現在(いま)にも、いささかの、我有(わがもの)というものなし。所有(もつこと)なく、取(まつわり)なし」とあります。
 過ぎ去ったものも、また、いまだ来ない未来においても、また、現在に於いても、何も自らの所有といわれるものはない。持っているという観念もなく、時にとらわれることもないとあります。悟った人はです……。
 本来、物や時間から考えると、所有という観念がないのは当たり前のことです。人間から見た場合のみ、この所有に意味があるのですが、逆に言えば、それを知る者は、何ものをも願い求めぬものという意味があるのでしょう。
 そもそも、所有という観念がなかったら、そこに、時間は存在するだろうか。
 所有とは、ある種の約束ごとです。その契約は、誰かが、そしてみんながそのことを認めなくては成り立たないことです。価値あるもの、意味あるものとするのは、人の思いであり、記憶ということでしょうか。記憶というかぎり、行為や物質、運動と自己とのかかわりこそが原点ではないでしょうか。そこに時間が誕生する。その時間を仏教では、刹那滅といい、一瞬ということで表現いたしますが、インドにおいて仏教復興をかかげて1956年12月に亡くなったアンベードカルは、『ブッダとそのダンマ』光文社新書山際素男訳-という本で、「総ての事象は一時的で、儚(はかな)いと確信することが法(ダンマ)である」という章に、一時性ということを記しています。
《この一時性論には三つの面がある。複合物の一時性、個体の一時性、条件付けられたもの自体の性質の一時性である。
 複合物の一時性について、偉大な仏教思想家アサンガ(無着、西暦310~390年頃。大乗仏教の“空観”に基づき、瑜伽、唯識論を弘めた)が見事に説いている。アサンガはいう。
 「一切の事物は諸原因と諸条件の組合せによって造られており、それ自身の独立した本体というものは存在しない。この組合せが崩れた時そのものは消滅する。生命あるものは四つの要素、即ち地、水、火、風の組合せによって成立し、この組合せがそれぞれの組成要素に分解した時解体が生ずる」。これが複合統合体の一時性といわれるところのものである。
 生命ある個体の一時性は、在るものは成るものであるという公式によって立派に説明される。この意味は、ある過去時の存在は生きていたが生きておらず、生きてはいないだろう。ある未来時の存在は生きているであろうが生きてはいなかったし生きてもいない。ある現在時の存在は生きてはいるが、生きてはいなかったし生きもしないだろう、ということである。つまり人間は常に変化し常に生成する。彼は人生の二つの異なった時間において同一ではない。
 第三の一時性の側面は普通人にはいささか理解し難いところがある。総ての生きものはいつか死ぬだろうということは容易に理解できる。だが、人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容易(やさし)くない。
「これはいかにして可能か?」「総てが一時的であるが故に可能なのだ」とブッダはいう。
 これが後に、“空観”と称ばれる理論を生みだしたのである。仏教の“空”はニヒリズムを意味してはいない。それは現象界の一瞬毎に起こる永久の変化を意味しているにすぎない。総てのものが存在しうるのはこの“空”ゆえであることを解するものは極めて少ない。
 それなくして世界には何ものも存在しえないのである。一切のものの可能性が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なのだ。もし物が恒常的変化に従わず、不変で永久的であれば、あるもから他のものへと変化する総ての生命の発展は決定的に停止してしまうだろう。
 もし人が死に変化しても全く同じ状態でありつづけるなら一体どんな結果が生じるだろう。人類の進化は完全に止まっていただろう。もし“空”が単なる虚無あるいは空虚であるとすれば途方もない困難が生じていたであろう。しかし実際はそうではない。“空”は広がりも長さもないが、内容のある点のようなものである。
 一切は一時的であるというのがブッダの教義である。ではこの教義の教訓は何なのか?これはより重要な質問だ。その教訓は簡明だ。「何ものにも執着するな」、である。超然さを養うこと、財産、友、総てから超然とすることを学べ。“一切はかりそめである”からだ、とブッダはいっているのだ。》 
 アウグスチヌスの告白(岩波文庫)の第11巻第21章には、どのようにして時間は測られるのであろうかという章があります。
「私は時間を測ることを知っている。しかしわたしは未来を測るのではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るのでもない。現在はどんな長さにもひろがらないからである。また過去を測るのでもない。過去はもはや存在しないからである。それではわたしは何を測るのであるか。現に過ぎ去っている時間を測るのであって、すでに過ぎ去った時間を測るのではないからである」
 時計の針とは、常に回転しているようであるが、実は、針は今を指し続けている。時計の針が回っているのではなく、文字盤こそが回り続けて、今を指し示しているといえるでしょう。それが時間を測ることの意味であり、文字盤は数字ではなく記憶を指し示してこそ、意味があるのでしょう。記憶されたものは、本来記憶されたままで在り続けることはなく、その記憶の意味を見出そうとする人間により変化してしまうことに問題がある。つまり、変わり続けているわたしというものが、変わり続けていることを認識できないからなのです。
 しかし、現実には、日々、一瞬一瞬、自己も世界も変わり続けていることを知りながらも、時がわたしを追い越してゆきます。また正月が来るように……。やっと薫りあるシクラメンに出会うように……です。

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