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心眼

 平成22年1月の22日に亡くなった、老婦人の葬儀が、25日の午前9時から行われました。読経が終わり、棺の中が花で飾られ、喪主である息子さんが挨拶に立たれました。94歳で亡くなられたのでした。その娘さんたちも、その夫も、みな笑顔で接し、穏やかな姿でした。老婦人から引き継いだもののように思えたものです。

 息子さんの嗚咽の中から、しぼり出して語る短い言葉の、一つ一つに、母への気持ちが強く現れ、とても印象的だったことに感銘しました。やはり日本人には、悲しみをこらえながら話す言葉が、かえって深さが表現され、聞く人の心にしみいることをあらためて思います。

そのとき、こんな家族に恵まれて生涯を全うできた老婦人を祝う気持ちにあふれ、この家族をお檀家さんに出会えてよかったと、夫人に感謝しました。

 

そして、出棺し、荼毘に伏されて、初七日法要が済んで精進の落としのとき、今度は次男の方が、献杯の挨拶をされました。

ゆっくりと、母の遺影を見つめながら、母と一緒に暮らした思い出の中から、言葉をかみしめながら話した言葉に引き込まれました。そして、話し方にも強く興味をそそられました。それは遺影の笑顔は、現実にも、たやさずに笑顔だったのですが、その笑顔は、鍛えぬいた母の強さを、一緒に暮らした者として、敬い尊ぶ姿が、間合いにあふれていました。これも、妥協と調和を選択肢とする日本人の心の表現です。

 深川で生まれ、大震災に遭い、大東亜戦争を息抜き、災害に立ち向かい、結婚し、子育てから夫を亡くし20年の預生を生き抜いた老婦人は、スモン病という薬害に患わされたものの、笑顔を絶やさずに、それでいて、しっかりと生き抜いたことをお聞きいたしました。

 葬儀の導師として、老婦人のすべてのことを知るなどということはできないけれども、私の知る事実は、ほんのわずかなことをです。その言葉を聞きながら、私は、象の話しを思い出していました。

 

『涅槃経・獅子吼菩薩品11の6』には、象を仏性にたとえ、目の見えない者を一切の無明の衆生にたとえている。

「たとえば王がいて、一人の大臣に、「汝、一頭の象を引いて、目の見えない多くの者に示しなさい」と告げたとしよう。大臣は王の命令を聞き、召し出された目の見えない多くの者は、象に接するだろう。

すると、この者たちは、象をなでて、牙に触れた者は、象は蘆菔根(大根)のようだといった。耳に触れた者は、象は箕(み=大きなザル)のようなものだといった。頭に触れた者は、象は石のようだと言った。鼻に触れた者は、象は杵(きね)のようだと言った。足に触れた者は、象は木の臼(うす)のようだ言った。背に触れた者は、象は牀(ゆか)のようだと言った。腹に触れた者は、象は甕のようだと言った。尾に触れた者は、象は縄のようだと言った。象の全体について説く者はなかったというが、しかし、これは説かなかったということではない。このように部分部分は象という全体ではないが、これらを、離れて更に象というモノがあるのではない。」

趙州録(265)にこの内容を問答にしたものがあります。

問う、「衆盲の象を模し、各々異端を説く、と。如何なるか是れ真象。」

多くの目の見ない者が、象の体をなでて、めいめい異なった端について語った、といいますが、本物の象とは、どんなものですか」と問うた。

師云く、「仮なし。自(も)と是れ知らざるなり。」

師は、「仮などというものは何もない。みんな真だ。牙は象の牙、耳は象の耳だ。一つ一つが真の法身片々である。それをお前が知らないだけだ」と。



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