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砂場で学んだこと
 法句経に、《悪しき行為について》との文があります。
 《善いことは、すぐに行い、悪いことについては、心を防ぐべきである。たとえ、悪をなしたりとも、ふたたびこれを、なすことなかれ。悪のなかに、たのしみをもつなかれ、悪しきこと積もりなば、堪えがたき、苦しみとならん。
 もし人、善きことをなさば、これを、また、なすべし。善きことをなすには、たのしみをもつべし。善きこと、幸いなればなり。
 もし人が善い行いをしたならば、ふたたび、ふたたびこの善きことをせねばならぬ。そして善きことに対する楽しみを起こさねばならぬ。なぜなれば、善い行いの積むことはたのしみであるから。
 悪しきことを繰り返し、「その報(むくい)よも、われには来らざるべし」、かく思いて、悪しきことを軽んずるなかれ。水の滴(したたり)、したたりて水瓶(かめ)をみたすがごとく、愚(おろ)かなる人は、ついに悪をみたすなり。
 悪の果実(このみ)、熟するにいたらば、その人ついに、不幸(わざわい)に逢わん。》
 
 さて、禅宗の葛藤(かっとう)集の225問めに、楽天問法(らくてんもんぽう)という問答があります。
 登場人物は天才の誉れの白楽天(白居易)とちょうか和尚です。
 時代は、中国の唐の時代です。白楽天は、その当時お役人をしていて、治める地域を巡回していたのでしょう。ちょうか和尚は、いつものように、境内の木の上で坐禅をしていたようです。
 通りかかった白楽天が、樹上で坐禅している和尚に尋ねます。
 白楽天、「和尚さん、和尚さん、木の上で坐っていては危ないですよ」。
 和尚、「はいっ、私が危ないと。あなた様こそ危ないこと、この上ない」。
 白楽天、「私はこの地方を統べておる長官です。いったい何が危ないというのですか」。 和尚、「煩悩(ぼんのう)の火はたちのぼってからまり、迷妄の情は停まることもない、これが危なくないというのですか」。
 白楽天は、樹上の和尚をただ者ではないと思い、尋ねます。
 白楽天、「仏法の大意とはどんなのですか」。
 和尚、「悪いことをしてはいけない、善いことを一所懸命に行え」。
 白楽天、「そんなことは、三歳の子ですら言えることです」。
 和尚、「三歳の子ですら言えることはできるが、80の老人でも行うことはできないものだ」。
 白楽天は、うやうやしく聞き、礼拝したという。

 禅にとっては、有名な故事です。鳥窠和尚にとっては、煩悩の何たるかを知り、それゆえに、迷妄の情が起こっても、それにとらわれることはないのでしょう。
 まして、悪か善かとの判断にとらわれたとしたら、揺れる心は、その都度に広がるものです。
 葛藤集の原文は、下記の通りです。
 「如何なるか足れ仏法の大意」
 師曰く、「諸悪莫作、衆善奉行」
 白曰く、「三歳の孩児も也(また)恁麼(いんも)に道(い)うを解(よ)くす」
 師曰く、「三歳の孩児も道得すと雖も、八十の老人も行うことを得ず」
 この問答のテーマは、「諸悪莫作、衆善奉行」ですが、法句経に見られるとおりのことです。これは、七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という詩からとったものです。
 諸悪莫作(しょあくまくさ)  もろもろの悪をなさず
 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) もろもろの善を奉行し
 自浄其意(じじょうごい)   自からその心を浄める
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう) これが諸仏の教えである
 「自らその心を浄める」ことこそ、仏教の基本ですが、3歳の子供でも、よく知っているけれども、年を取れば取るほど、その行いは難しいものだと……。
 さて、3才の子供は何によって、人生に必要な知恵を知ったのか。3才といえば幼稚園。
 
 全米で400万部、日本でも70万部を超えるロングセラーとなった本で、ロバート・フルガムの、「人生に必要な知恵は、すべて、幼稚園の砂場で学んだ」があります。河出書房新社(翻訳:池央耿)が2004年3月20日に出版したものです。
 ロバートフルガムは、本の中で、本当に必要なものを幼稚園で学んだのだろうかと自問します。そして、人間として知っていなくてはならないことは下記の中に何らかの形で触れてあるはずだと。

 何でもみんなで分け合うこと。
 ずるをしないこと。
 人をぶたないこと。
 使ったものは必ずもとの所に戻すこと。
 ちらかしたら自分で後片づけをすること。
 人のものに手を出さないこと。
 誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
 食事の前には手を洗うこと。
 トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
 焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
 釣り合いの取れた生活をすること―毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと。
 毎日必ず昼寝をすること。
 表に出るときは車に気をつけ、手をつないで、離れ離れにならないようにすること。
 不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。
 発泡スチロールのカップにまいた小さな種のことを忘れないように。種から芽が出て、根が伸びて、草花が育つ。どうしてそんなことが起きるのか、本当のところは誰も知らない。でも、人間だっておんなじだ。
 金魚も、ハムスターも、二十日鼠も、発泡スチロールのカップにまいた小さな種さえも、いつかは死ぬ。人間の死から逃れることはできない。
 ディックとジェーンを主人公にした子供の本で最初に覚えた言葉を思い出そう。何よりも大切な意味を持つ言葉。「見てごらん」

 愛する心、思いやり、いたわり、清潔さ、抑制、片付け、勤勉に労働、自己管理、エコロジー、政治、平等な社会や健全な生活なことなどなど。現実の世界や日本で起きているあらゆる事件、現象に当てはめてみても、確かに、公園デビューや幼稚園で学んだはずだ。 ロバート・フルガーは知識の進んだ大人向けの言葉に置き換えてみるがよいというが、置き換える必要などない。難しい言葉は必要ないかもしれない。
 でもなぜ、年を取るにしたがい、無くしてしまったのだろうか。
 人は関係の中に生きている。その関係の中に、実は、善と悪があるのだ。善い関係のなかに生きれば善が生まれ、悪い関係の中に生きれば悪となるのだろう。
その善悪を見極めることができなければ、取り巻く関係の中で、人はしばられる。そのしばられた心こそ問題なのだと思う。
考えてみると、自らその心を浄める、「浄められた心」のような気がする。それは無心に通じる。この文章の結びに、「人間はいくつになっても、やはり、おもてに出たら手をつなぎ合って、離ればなれにならないようにするのが一番だ」と結んでいる。離れていてもだ……。


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