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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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終の棲家(ついのすみか)
 特養が第三者評価を導入して、何年になるのだろうか。私が幹事をする特養の施設では、その数年前に第三者と称して、オンブズパーソン制度を導入しました。そのオンブズパーソンの代表者が私でした。何も知らない私が、オンブズパーソンの何をできるか、それこそ、名前ぐらい知っているものの、皆目知らないまま、7年ぐらいが経過しているのではないかと思います。
 「そういえば最近活動していない!」と言われて、「午前中に終わるだろうから」と、勝手に想像して出かけたのが、平成22年7月26日でした。
 外は暑く、特別養護老人ホームの中は、寒いくらいに冷房が効いていました。
 その面談も思いもよらず時間がかかり、さらに、食事の時間がきて、9人のお年寄りの話を聞くことができました。
 質問の内容は下記にしぼったものでした。
 《元気ですか? 具合はいかがですか? 具合の悪いところはありますか? 痛いところはありますか? 寒いですか? 暑いですか? よく眠れますか? お食事は美味しく頂けますか? お食事の量は充分ですか? 楽しいことはありますか? 寂しかったり、悲しかったりすることはありますか?何か、して欲しいことはありますか? 何か、困っていることはありますか? 職員に言いたいことはありますか? 施設に何か望むことはありますか?》
 人生の最後を目指してたどり着いた入所者は、高齢であり、すべてが介護3,4.5のお年寄りたちです。人生の紆余曲折から、たどり着いた終の棲家ともいえます。五十床の施設ですので、すべてにわたって、思うように生きたい、好きなものを食べたい、気ままに暮らしたいと、私たちが思う自由さはないはずです。
 しかし、驚いたことに、食事について、全員が満足を表していたのです。正直驚きました。食事に対する執着があまりないのではないかと、それとも遠慮しているのか、推しはかることなど必要なく、そのまま受け取ることにしました。
 さらに楽しいや、感謝している、嬉しい、助かるという言葉を多く聞いたことから、少しこのことを考えてみました。
 施設は、場所的制約もあり、多くのお年寄りは、持ち込みの身のまわり品は少ない。それに、グループホームのように仏壇など置くスペースはまったくありません。圧倒的に少ない個人の持ち物です。幼かったころの写真は、ご両親や兄弟姉妹が写っているはずです。そんな記録も、大事にしまってあるはずのものもありません。あるのは身のまわりの生活の必需品ばかりでした。
 そういえば、以前に、面談したとき、箪笥があり、鍵をかけていたお年寄りがいました。モノを所有すれば、必然的に、取られたり触られたりしないかと、心配事が発生する姿を見たものでした。
 逆に、思い出の数々の品を自分のみの周りに置いておけば、それらは、自分を成り立たせる条件でもありますが、今の境遇により生きるために捨てれば、今の自分が見えてきて、人はどんなところでも力強く生きていけるし、感謝という幸せを創り出すことができるとも思ってみました。何ものにも縛られないためにです。
 イギリスの諺に、”幸福と思う人は、幸福だ”があります。人生の到りえた場所に、自分が不幸だと思ったら、苦痛の中に生きることとなり、自分を責めたり、文句ばかり、責任を他人に転嫁して、それこそ、嬉しいや感謝している、美味しいなどの言葉など聞くことはできないと思うのです。
 冷静に今の自分を受け入れた、大きな覚めた知恵ではないかとも思いました。生きるためにです。
 結果として、人生の終の棲家の施設が、理想の環境になっているからではないかと考えてみました。しかし、本当の終の棲家とは、施設ではなく、現身であり変化し続ける肉体であるはずです。
 この頃、禅の言葉がふと浮かぶことがあります。
 無一物中(むいちもつちゅう)、無尽蔵(むじんぞう)、花あり月あり楼台(ろうたい)あり
 施設のお年寄りとお話しして、この禅語が浮かんだのです。
 この花や月、楼台(見晴らし台)を、感謝や畏敬、喜びや満ちたりた心に変えてみると、いっそう理解することが優しいのではないかと思います。
 まして自分が年をとってみれば、人生置いてゆくものばかりであると、意識も含めて何もかもが、過去のものとなった今、懐かしさより生きている充実を実感として、今日を生きることができるのではないかと思うのです。
 イスラムの詩人は「人間という存在は、旅籠(はたご)のようなものだ。喜び、絶望、悲しみとつぎつぎに新しい客が不意に訪問してくる。それが意にそぐわないものであれ尊重せよ」と。
 仏教的に解釈すれば、人生思い通りに行かない苦の、訪れたものに対して平静にして受け入れよ。受け入れた心に波風がたたなければ、それこそ、そこに解決に到る道が開けるということでしょう。
 老いてますます盛んとは、気がついてみると、心の無一物性に気付くことで、無一物だからこそ、花あり月あり楼台ありと。
 人生の処世訓としては、花あり月あり楼台ありの、花と月、楼台にとらわれのない心こそ必要なことです。目に耳に思いに自由な状態であるからこそ、目に見えるもの、耳で聞くことができるもの、肌で感じることができるもの、匂いや味の感覚、そして心にわき起こる思いに、生きている実感や充実を受け取ることができるのでありましょう。
 存在する人間の、心が空っぽでなければ、喜び、絶望、悲しみとつぎつぎに新しい客が不意に訪問してくるはずもない。それこそ、鳥のさえずり、風のざわめき、葉のこすれる音もです。
 禅者は説きます。さらに「放下著(ほうげじゃく=捨てろ・まだ持っているのか)」と。 この非情さこそが禅の特色です。捨てよ!
 鳥のさえずりのまま、風のそよぐまま、葉のこすれるままに、自分をまかせよと……。
 心のわき起こるさまざまなことを、おきるにまかせ、捨てよと。そのおきる心の中で、捨てることの難しいものは比較の心です。そこからねたみ、憎しみ、恐れ、おびえ、贔屓(ひいき)、嫉妬などが、思い込みとして増幅してくるからです。
 だから、生活の中のさまざまな思い出となるものを、終の棲家から、捨てよ!、身軽になれ!と。この指針こそ、今の時代に智慧を持って生きるための物差しです。 
 終の棲家は、今生きるの自分の肉体にあるのだと、そして心なのだと教えてくれました。

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