棺の中に眠る

2010/10/05 11:24
多くの亡くなられた方々の棺の中に眠る姿を見て、花に覆われた棺のふたが閉ざされることに立ち会っては、生は何処にあったのか、死は何処にあるのかと、不思議な疑問を持ちます。
そんな疑問に,「棺の中に眠っている死者を指し、すぐそこに在るではないか」と、確かに死であることに違いないけれど、でもそこにあるのは、父だった死者の
姿であり、母だった死者の姿であり、親しいものだった死者の姿であり、友人だった死者の姿が、冷たくなって在るように思えてなりません。

人が亡くなって改めて問われるのは、人の生きた意味ではないかとも思うのです。
そして思いはふくらみます。この人の残したものは何だろうかと。
この人と親しかった人には何が残されているだろうかと。

そして残されたものを発見したとき、それには、どんな意味があるのだろうかと?
ここに、この人の生が、今在る。

故人が好きだった、集めた、欲しかった、大事にしていたものは、すべて故人のものとはならない現実。
私のものとは、何なんだろうか。そこから導くと、幻想の上に人は生きているような気もする。
もっとも因果の理念は、所有することは所有されることであり、それは縛ることは縛られることです。
このことから、人がものから縛られることだけは、自由になることは間違いない。

私以外のものがそれらのものの価値を再発見しなければ、意味を持たないではないか。すると自分からは離れていることだ。
生は、一時的な保管場所を意味するだろうし、名前や名誉が残ったとしても、それは他人事の吹く風によってこれも、自分からは離れている。

しかし意味だけは独り歩んでいる。
「生前に積んだ業だけが歩んでゆく」という言葉が、あったかどうか不明だが、それが冷たくなったものから切り離されたものか。
その切り離されたものも、相関関係という世界があってこそ成り立つことを考えれば、人は生きても死んでもその世界から出ることはできない。

朝起きて、顔を洗って歯を磨き、食事を三度とり、仕事をし、家族や友人と話し、今しなければならないことをする。
これが業の正体としたら……。

どうしたら?

所有という概念を超えるもの、それは意識の中から抜け出ることだ。
持って持たない……。
持って持たない、そこに心の豊かさが在る。

棺の中に眠る親しいものだった死者の姿は、ただ与えられた人生をひたすら走り続けたあなただったと。
「持って持たなかった」あなたでしたと。



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