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色即是空、空即是色
 色即是空、空即是色。

 陽岳寺の法事の最初のお経は、般若心経からです。その般若心経の言葉の中でも、「色即是空、空即是色」は、特に有名な句だと思います。

 色(しき)は物質的なものでしたが、私たちがその物質的なものを認識するわけですから、眼耳鼻舌身とそれぞれの認識器官に附随するものすべてといってもよいでしょう。
 しかし、般若心経はそれだけではなく、色・受・想・行・識も含めてと考えます。
 色は、物質的なものも含めます。受は苦・楽に、捨てるの感受。想は、知覚することとその知覚の表現。行は、思いや行為、意識もこれに加わるでしょうか。識は、意識活動です。ちなみに般若心経は、それだけではなく、世間の有り様という法も含めて空と言っているのです。一切空と!
 空(くう)は、現象としての色・受・想・行・識は有るが、実体的な存在として色受想行識はないと説きます。

 禅宗の語録、無門関の第8則に、こんな話があります。色即是空の内容です。
 「車を形作っている部品をすべて解体してみると、車はどこにあるか」と。

 「よく味噌の味噌臭さは上味噌にあらず」などと言いますが、大豆や麹に、水や混ぜかた、ねかせかたなど、様々な工夫があって上味噌になるのですが、その部品一つ一つとってみれば、味噌とは言いません。
 また各料理の、野菜の種類、魚の種類、肉の種類、乳製品など調味料の種類に、調理の仕方、合わせ方により、シチュー、水炊きや鍋などの、名前がありますが、同じように部材を一つ一つ分解してみれば、シチューや鍋料理とは一体何だと問いを発しても、何バカ言ってんじゃないよとなります。

 禅の語録は、最早、車とは言えなくなった部品を前にして、さあ自己とはと、問いを発しているのです。
 こうした問いに、古人は、「無(空)の中に有(色)が蔵(かく)されている」と言います。もっとも、その蔵されている有(色)は、また無であり、「やはり有(色)が蔵されている」となります。
 またシチュー自身も、世界の料理の一つの有(色)となって、あるわけです。人も同じです。世界のすべてのものは、こうして成り立っていると。

 でも、大乗仏教としては、「それからどうした?」と、問いを持ちます。それは空の世界に安住するなということと同じであり、空の世界のはたらきを問うからで。

 確かに現象としてモノは、裏とか表とか、いやいや上だとか下とか主張していないし、言わせているのは、億劫だ面倒だと、美味いとかまずいとか、嫌悪してこれ変よ!と、言わせるものは私たち人間の意識です。
 言葉と言ってもいいかもしれない。その言葉に動かされるのは、人の宿命みたいなもの。しかし、言わせるものに気づくこと、これこそ空のはたらきでもあります。それを問い続けることが禅かも知れません。だけれども、問い続けたあと、その結果として行為につながらなければ禅とはなりません。

 般若心経は、観世音菩薩が、釈尊の弟子智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)に語った内容です。しかし、釈尊からの禅の法は、頭陀行(ずだぎょう)第一の摩訶迦葉に伝わったことから、智慧の働きとしての頭陀の行為こそが人を輝かせていると考えることができるのです。智慧は、般若心経では、物事をありのままに把握する真実なる眼であり、無明を開ける眼です。

 平成23年2月11日午後8時、NHKの無縁社会ドキュメント報道にて、新潟在住の48歳の独身男性が、仕事がなくなり、気がついてみたら、独りとなり、さらに孤独の辛さを、今の状況を語っていました。
 そして続いた映像の奥の張り紙に目にとまり、とっさにメモをとりました。「人生は、つらく。人生は、苦しく。人生は、豊かで。人生は、愛おしい。」
 人生は、辛く苦しい。そう気づいたとき、またそこを通り越したとき、人生は豊かで、なんと愛おしいものであるかと思ったからです。
 ドキュメンタリ―は、生きるためのつながりを提案していましたが、他者に対する行為やはたらきのなかに生きることこそ頭陀行だと摩訶迦葉はそこに生きている。観音もそこに生きている。釈尊も。おそらくキリストもそこに活き活きと生きている。空即是色の中にです。
 
 白隠禅師の『毒語心経』に、「是非憎愛すべてをなげうてば、汝に許す生身の観自在たることを」(是非憎愛総拈抛、許汝生身観自在)とあります。
 是非憎愛とは、取捨選択の一々であり、車の部品とも、シチューの具材といえるものです。我執というすべてをなげうてば色即是空と、とらわれを無くすことができれば、「汝に許すす観自在なることを」空即是色と、証明してくれています。

 観自在菩薩という存在は、仏像や絵画という存在でもなく、人間の心の中に具わっている活き活きと働いているそのもの自身だと。
 人生は辛く、苦海に沈んだ私は、実は、観音の辛く苦しい姿でもあると観ることができるのです。それは、私の心を救う故に、その辛さのままに、苦海に沈んだままに、実は、私自身が観音の姿だったと、怒っている観音、牙をむいている観音、へつらっている観音、悲しんでいる観音、慈しみの観音、無心な観音と、自己こそが観音と、自己の外に有るのではなく、無心なるはたらきの観音そのものです。とらわれから、何ものにも束縛されない自由になるため、とらわれの発見こそが自由への転換のカギなのです。

 このことは、私たちが見る夢の世界に似ています。夢から覚めて、アレは夢だったのかと、夢から覚めてみれば、その夢は夢の世界とわかるのですが、夢から覚めなければ、ずっと夢の世界に生きるしかありません。夢から覚めるから「アレは夢だったのだ」と、違う世界がみえたのです。もし現実の世界でも同じことが言えるとしたら、例えば、依存症の世界、バーチャルの世界、欲望の世界、閉じこもりの世界、すべては相対的な世界であり、無明の世界といえるものです。
 どれが現実の世界なのか、生という物語を創造して生きる世界は様々です。
 夢の中に似て、物語を作り続けて、そこに生きる自分自身を創り上げて、一喜一憂していると導いてみたのですが……。

 陽岳寺の法事で、般若心経のつぎに読むお経は、観世音菩薩の姿をかたる観音経です。
 観世音菩薩は、願いのなかに生きる菩薩といわれております。地獄・餓鬼・畜生を象徴として、むさぼり、怒り、無知という貪瞋痴に進んで生きる菩薩です。
 陽岳寺の本尊、十一面観世音菩薩も、十一のお顔を持っています。その前にたたずみ、今は自分はどんな顔をしているか、あの時どんな顔をしていたのか、それぞれ振り返らせる姿でもあるのです。

 観世音菩薩は、出会う相手に応じて様々な顔を持つと言えます。出会う苦悩や辛さ、慶びに応じて、恐れなく進めと無畏(むい)を施します。まさに下町の意気地を地に行き、それは、勇みという智慧に情けをかかげるとも言ってよいでしょうか。
 生きるとは、生きている自己を発見することであり、それは、他者とのつながりに中に生きる自己を発見することだからです。

 親が子に接するとき、子を持ったことによって、親となります。自分の親を成立せしめる条件とは、親自身にはなく子にあると、そこのところが親の空です。親自身が、最初から親と思っていたら、この関係は成り立ちません。当たり前のことですが、親の根拠は子にあることによって、空即是色と、親となることができるのです。この関係を悟ったとき、親も観音に、子も観音になるのだと思っています。

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