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あるの、ないの、それとも……
 谷川俊太郎の詩に、『黄色い鳥のいる風景~ポール・クレーの絵による「絵本」のために』があります。

とりがいるから そらがある
そらがあるから ふうせんがある
ふうせんがあるから こどもがはしってる
こどもがはしってるから わらいがある
わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある
みずがながれていて きのうときょうがある
きいろいとりがいるから すべてのいろとかたちとうごき
せかいがある

 この詩を読むとき、「鳥がいるから、空がある」と、実は、「つがっている」と詩を書いている詩人こそ、ものがたりを想像する、それは、つなげていることに気がつくでしょう。しかも自由にです。
 でも「鳥がいるから空がある」とは、普通書かないのではないかと思うのです。「そらがあるから、とりがいる」と……。
 鳥の進化の歴史からは、空があったから、何ものかが鳥となったはずです。谷川俊太郎という詩人は、そんなことお構いなく、結びつけてゆくことを遊んでいると、思いませんか。しかもまったく自由にです……。
 人は世界とつながりながら、自分自身を存在するモノとして意味づけているともいえます。意味づけなければ、人は生きていけないとも考えることができます。世界で起きている出来事を見ているとつくづく思うのです。独裁者がいるから自由が欲しいのであり、自由ばかりだったら、もしかしたら、強烈に導いてくれる指導者が欲しいかもしれません。
 だからこそ、「すべてのいろとかたちとうごき せかいがある」と、谷川俊太郎の詩はここから先は、読者のイメージに任せています。
 現実のつながった世界は、心ともいえるものです。現実には、憎しみやねたみがあり、保身や欲望があり、自我を強大にした結果、戦争があり、多くの善良な人の死もあることは歴史の事実です。
 さらに、つながった世界を見れば、死後もあるのだと思いたいし、死後のその後も、ずっとつながってゆくことに気づかないでしょうか。極楽も天国も地獄もです。
 でもこれは、自由に在るでつながったことで、かえって、人を不自由にもたらすこともあるわけです。仏陀釈尊は、もしかして、そんなことを考えたかどうか、解らないけれど、存在と所有という問題に道筋を描いてくれたと思っています。

 そのつながりを考えてみると、心の世界では、選択であり束縛あり、意味と無意味、価値と無価値、もっといえば、善いことと悪いこと、幸福と不幸、死と生、順逆の関係の中に、よくいう自由とは、何と自分に対して責任を問うことかと思うのです。
 意味づけは、評価という形で表現することもできます。その評価に一つでも傷がつけば、その傷を多数の人は問題にします。自分でその傷を消そうとすれば、その世界からアウトしなければ、傷は消えないこともあります。しかも、評価の履歴はその世界に入会したときから記録となり、まるで、その人物を意味づけています。評価の履歴こそがつながっている人であると意味づけるからです。
 インターネットのヤフーやAmazonドットコムにしても、その評価が自分の価値を意味づけてくれることに気づきます。
 考えてみれば、怖いことでもあります。意味づけられた私は、私であって私でないからです。なぜなら変わり続けることを本質とするならば、一瞬の今を生きる私は、過去の私や未来の私ではないはずだからです。
 そんな価値を保つことを考えてみれば、つながっていることが不幸になることもあります。それは、人の価値こそが、インターネットの世界に生きる財産だとしたら。例えば、今流行のフェースブック、何億という人間がフェースブックの中でつながることを意味あることと、自分の価値を築こうとしているからです。その価値に縛られることになります。人生は相対的なつながっている世界に生きるゆえに、得たり失ったり、保守や革新、富や貧富、その結果が歩みであるかのようです。

 そのつながった歩みの悲喜こもごもを、般若心経では、縁起はないのだと否定しています。本来縁起はないとです。悲喜こもごも有ると思っていることは、本来無いのだと、これは仏陀釈尊と、深く般若波羅密を行じた観世音菩薩の言葉でもあるのです。
 さて、仏教はもう一つの見方を提案しています。
 「とりがいなかったら そらがない」、「そらがなかったら ふうせんがない」です。
 でもです。在ると無いに共通する心のはたらきは、無いと在ると心に画いたモノであるならば、これも意識による意味づけです。在るということ、無いということを意識において持ち続けることこそ、無明あるいは無知と仏教はいいます。確かに初期仏教では、無いことを求め続けて涅槃にたどりつくことを考えた人々もいました。でもそれでは、自由さも無くなってしまいます。自由とははたらきだからです。怒ったり、笑ったり、喜んだり悲しんだりという自由さ、しかも、その怒りや笑い、喜びや悲しみとらわれない自由さこそ、禅の目指す道であり、般若心経の教えなのだと思っています。

 「わらいがあるから かなしみがある いのりがある ひざまずくじめんがある」と。
 実は、谷川俊太郎は、何も無い、真っ白なキャンバスに、言葉で鳥を描き、空を画き、風船を画いていることに気づきました。
 そう、最初は真っ白な、何も無いモノに在る、あるいは、居ると書き付けていることです。何も無いトコロに、空という、無というところから、在ると居るが浮かび上がり、紡がせているモノは、存在でしょうか。存在だとしたら対照的な事物なはずです。
 自由につなげている世界は、もともと何ものも束縛されない世界であり、対象として捉えることができないモノのようです。あえていうなら真っ白なキャンバスと。

 しかもその真っ白なキャンバスには、たくさんのモノが書いてあるけれども、谷川俊太郎が創作したこの詩を読むことによって、浮かび上がってくるような、初めから私の心は「わらいがあるから かなしみがある いのりがある」と、真っ白なキャンバスには描いてあるような気がするのです。しかも、在ると居るで、つながっているものは、もっと考えてみると、空間だけではなく、時間もつなつながっているし、歴史も含めて記憶や行為まで、すべてつながっていることに気づきくのです。だからこそ、すべては自由につながっている。空であり無であることが前提となっているのではないでしょうか。だから、どうせ描くなら、与えられた善いことをたくさんたくさん描きたいものです。真っ白なキャンバスのはたらきとしてです。

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