無常

2011/07/21 13:46
 小説家の村上春樹さんが、6月9日にスペインのカタールニャ国際授賞式のスピーチ「非現実的な夢想家として」原稿全文が毎日新聞の夕刊に三日間にわたって掲載されました。
 彼は、東日本で被災された日本人に対して、無常観という言葉を使っていました。
『我々は無常という移ろいゆく、儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。おおきな自然の力の前にでは、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています……」と。
 「しかし、それと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでも、なお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです』と、記していました。
 そういえば、川端康成も、ノーベル賞のスピーチで、ものの哀れ、あるいは、ワビやサビの美意識をうたっていたことを思い出しました。無常観からわき出した言葉でした。

 あの東日本大震災後、原発の暴挙も含めてですが、日本は大きく変わったことを考えます。陽岳寺も、3月、4月、5月、6月、7月と、法事の回向中にこの問題を大きく取り上げました。そして6月の回向に、何が変わらせたのかと仮説を立てました。

《「東日本大震災後、多くの人が、人が生きる意味の問いに直面したのではないかと思います。その結果、今までの普通に暮らしていた日常の普通さを疑い、物質よりも絆、友、家族の意味を再構築しようとしているようです。
 昨年は、無縁社会が話題になっていましたが、震災以降は、何が人を動かすのか、動かされた私に意味を見出そうとしてるようです。
 たとえ原発の事故が収束したとしても、不安は20年30年と日本を覆います。そして津波の映像を繰り返し目撃した者にとって、寄せては引く波に、流され翻弄されたのは、私たちの普通の暮らしだったのです。
 それは、また、自然の驚異と、制御不能となった人間の欲求が作り出した原発の暴挙に翻弄されたものは、”私の中の死”ではなかったか。

 誰だって、あんなにむごい現実を見れば考え方や生き方が変わるものです。
 そして、本当に大切な物は、何だったのかと考えることを悟らせたような気がいたします。そこから、新たな希望や願いが生まれなければならないと、信じています。
 それは、自分の中にわき起こる生きるという希望であり、自分の中の死が、必死になって訴え、働きかけているといえないでしょうか?
 自分の中の死は、普段生きていることに追われて、それこそ、全く見えないことです。でも今回の地震や、原発不安、放射線の自然に与える影響を考えてみれば、自分の死や、家族の死が、一人一人の心の中に叫び続けていると考えることが出来るのです」と。
 そして自分の中の死を、あちら側と言い換え、あちら側はこちら側を根拠として在り、こちら側はあちら側を根拠として、同時に在ると喚起させました。その結果、あちら側のことがこちら側によって、決めなければならないと、それは、自分らしく生きよ!と心がけたのでした。》

 そこに、平成23年7月9日、毎日新聞朝刊で、「さようなら、私はお墓に避難します」という、南相馬市の93歳の老女の悲鳴が届きました。
 大きく破壊された町や村に住んでいる人たちの不安と悲しみは、未だに過ぎ去った傷を抱え込んでいます。惨状と悲惨さの中に暮らさざるをえない現実は、こだわり以前の悪夢のようです。その悪夢から一向に進まない現状では、今を生きることの辛さばかりが積み重なっています。
 無常を生きる日本人は、どう生きたらよいのでしょうか?
 
 村上春樹氏は、「我々は無常という移ろいゆく、儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。おおきな自然の力の前にでは、人は無力です。」と書いていましたが、移ろいゆく世界を、どこで眼にしていたのか、聞いていたのかと、不思議な疑問を持ちます。

 何故なら、自分自身の移ろいこそ、今回の東日本の大きな事件であり、渦中の中の流された私の移ろいこそ、悲惨だったからです。
 東日本復興構想会議から、震災への提言が平成23年6月25日に発表されました。そのタイトルは、まさしく「悲惨の中の希望」がテーマでした。
 これは、日本人おのおのにとって、悲惨の中の、混乱の中の、寂しさの中の、いたたまれない中の、辛さの中の、癒やされない中の、希望のことです。希望は芽であり、きっかけでもあるのでしょう。もちろん大きな希望であれば幸いですが、その希望は、つなぐことによって光がさしてくるといい、つながれていたとの気づきでもあります。

 さて、仏教では、眼は、眼自身を見ることできないと説きます。無常も同じです。無常も無常自身そのものを見ることも、聞くこともできません。
 なぜならば、移り変わるものを見つめる眼は、心は、移り変わらないものとしてあるからです。この関係を考えてみると、移り変わるものは、移り変わらないものを根拠として在り、移り変わらないものは、移り変わるものを根拠として、同時という世界に在るからです。仏教では、その同時を、中道(ちゅうどう)といいます。
 この対立している構造を、言葉を変えていえば、次のようになります。

 生きていながら生かされていることとは、生かされていながら、生きていることと同時です。これは、生きていることを自己肯定とすれば、生かされているは自己否定です。自己肯定しながら自己否定され、自己否定されたことで、自己が肯定されると。
 含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから独立している。離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。無心となっていながら満ち足りている。この関係こそ、色即是空・空即是色という般若心経の要素です。そして、この有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧となるものです。

 なぜなら、これはすべてが、無心(自己否定という)を本質としているからこそですが、これはまた、金剛経の、AはAでないことによってAであるという関係です。
 妻は妻を否定することで、妻となる。妻の根拠は夫に在るといえば、夫を根拠にして、妻という立場はあるといえます。これは、夫も同様な関係にあるといえます。
 だから、妻は妻自身にはなれません。見えません。聞けません。無常と同じことです。

 世の中の意味が、対立しているもので成り立っているならば、無常の根拠は、無常でないものを根拠としてある筈です。それは、移り変わらないものとして、絶対や永遠ともいえるものですが、移り変わらないものとした、私たちの思い込み、独断こそが、無常を際立たせるともいえます。
 実は、本当に不思議なことですが、昨年から、断捨離というブームが、東日本大震災の伏線として、日本にあったのではと、奇妙に思えてなりません。この断捨離こそ、無常なるが故に、執着を離れるという発想でした。

 無常を見つめる常なる自分自身は、無常を含んで生きているという事実に、移り変わることが常とするなら、その常とする自覚から、我執や執着の事実から、解放されることこそ、無常を生きる智慧です。しかも解放された自己は、無常を根拠としながら、無常を離れている。
 東日本大震災こそ、無常なるものとするなら、想定外や独断から出る偏見こそ移り変わらないものとして、また困惑極めるものとして、証明されてもいます。想定外や独断、思い込みは、自己を省みるという否定を忘れたものだからです。
 またこうも考えることができます。無常は無常でないものに触れることで、無常を生きることができると。無常でないものとは、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心とも考えることができ、突き動かされた私の心です。



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