四劫(しごう)

2008/01/28 13:48

劫というのは、途方もない時間の長さと仏教はいう。その劫を四つ合わせて、四劫といいます。

劫というのは、計り知れない時間のことです。それこそ天女が羽衣で何億回の何億倍石をこすって減る時間のことです。私たちには24時間、一年365日と時間を使用していますが、それこそ、3560日を一日としてみたって、劫はもっと長い時間です。

これは世界の成立から滅亡までの間を、四つに区切ったものです。出典は、仁王般若経です。

世界の成立の成劫。世界が安住する住劫。世界が壊滅する壊劫。世界が空虚な状態となる空劫という意味になります。

しかし、世界の世を時間として、界を空間とすると、この表現は、今、ここ。

今・こことは、私ということになれば、この四劫は、私の表現となるのかもしれない。その一つ一つの劫は、私たちが想像している時間と違って、とても長い時間を持っているということなのでしょう。比較しなければですけれど。

とある人が、私に、亡くなった親しい人に接したとき、不思議に思えたのだが、「これから、この人は、地面の下に住むことになるので、そのためのお経を読んでください」と言われたことがあった。

私たちとは生きる世界とは別の地面の下です。まてよ、そういうこの人も、いずれ地面の下に住むのだろうかとそのとき思った。

劫という時間を恐ろしく長い時間とすると、私たちの命も、恐ろしく長い時間となります。気がついたら、こんな年齢になってしまっていたという浦島太郎のようにです。

多分、そのとき、成劫から住劫へ、住号から壊劫へ、壊劫から空劫への移行すら気がつかないままかもしれません。それは、今・ここしかないからでもあるのでしょうか。

どだい世界の成立から滅亡という発想は、それ以外にも、そのまた先の成劫へと繋がってゆくようにも思えます。仏教は、その四劫をとなえながらも、四劫にとらわれない生き方を目指すものです。

地面の下という言葉が、この四劫という言葉に結びつきます。永遠に地面の下に住むのでしょうか。空劫という空間や時間があるのでしょうか。せめて肉体を自然に帰すといえないでしょうか。

もっとも、日本では、旅に疲れた人間を葬ったあと、自然石を置くという発想が、霊魂を閉じこめるという、怨念やたたりを恐れるあまりのことという歴史はあります。神社ややしろもその系譜から発生したことでもあるのでしょう。

それとも何か消せない罪があったのでしょうか。お経は、その世界に届き逝くためのおまじないでしょうか?

死者が聞くお経はあるのでしょうか。いやいや死者は生きているのでしょうか?お経を聞くのは誰でしょうか?

あなたや私、彼や彼女が聞かなくて、誰が聞くのでしょうか?

それでは意味がないではないかと、そうではなく、意味を意味づけるのは私たちです。生きる意味は私たちにあり、成劫、住劫、壊劫、空劫という四つの時間における人生から、生きる意味を問われていると言うこと、生き続けると言うことに、私たちの意味があるとすれば、この世界のすべてに価値が生じてこないだろうか。

生き続けるために、彼に向かってお経を読む。それが生き続けるということなのでしょう。彼も私もです。その先は私たちの関知しないこととして。




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