ドジョウ

2011/09/25 07:24
 平成23年8月29日、菅直人首相の後継を決める民主党の代表選で、述べた野田佳彦氏が、詩人相田みつをさんの作品を述べられました。(相田みつを作品集「おかげさん」ダイヤモンド社)
どじょうがさ
金魚のまねすることねん
だよなあ
    - みつを -
 「ドジョウはドジョウのままで、いいんだ」と、泥の中にひそむドジョウの泥くささに強烈なアピールとして心ひかれた人が多かったのではないでしょうか。
 ダイアモンド社には、この作品集に対して問い合わせが殺到したと聞いております。

もっとも、ドジョウには、シマドジョウとフクドジョウがいて、おとなしいドジョウと金魚に食いつくドジョウから、噛みつき方がささやかれるほどでした。ペット業界や、どぜう屋さん、安来節までもが一時的にブームとなったそうです。

 この作品は、政界という足の引っ張り合いに見える、泥くささの世界に生きる野田氏を、そのまま清新なイメージに転換させる響きがあります。
 マスコミの解説では、「他人と比較しなくてよいのだ」と、その背景には、何か独善という、独り善がりな思いがただよっているような気もいたします?
 この詩に登場する、ドジョウと金魚は、金魚は優れたもの、ドジョウは土の中に生きることしか能のないモノにたとえられそうですが、本当にそうでしょうか?
 
 「ドジョウがさァー」と、ドジョウは自分のことをドジョウとは言いませんし、自分を指すこともしませんが、指すのは人間のなせることです。
 しかし、このドジョウは、金魚をめざしたことは確かです。金魚がうらやましかったのか、ドジョウのままでは居られない心があったということでしょうか。擬人化して、もがき苦しむのも、金魚に根拠を持てば、気持ちは理解できます。

 人も同じように、夢を持ちながら達成する人もいるし、いつの間にか忘れてしまう人もいます。お金持ちにあこがれ、何かのきっかけでそのようになる人もあるでしょうし、思い続けながら、なれない人もいます。人生を達観した言葉にも見えます。

 でも、子どもに、最初から「ドジョウは金魚のまねすることねんだよなあ」、「ドジョウはドジョウのままでいいんだ」とは言えないことです。もしかして、金魚のまねをして、金魚に成ったドジョウもあるかもしれませんから。

 この作品は、思いを抱いた「ドジョウがさ、金魚のまねすることねんだよなあ」と、元のドジョウに成ったとき、今までのドジョウと違う、高らかにドジョウを謳歌するドジョウの誕生と見えるのです。
 今の自己を否定したことから、肯定にたどり着いたプロセスが見えます。きっとその時のドジョウは、フナやアユ、ハヤやウナギにナマズも、それぞれが輝いて見えたのではないでしょうか。

 妙心寺のホームページに、宗旨(しゅうし)について記してありました。
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 お釈迦様は、「生老病死」の命題に悩み、出家した後、初めは苦行を修しました。
 やがて、この6年(または7年)間の苦行では道は開けないとして、12月1日から一週間、深い禅定に入られました。
 そして、12月8日に、暁の空に光る明星を見て「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」などの言葉を発せられ、悟りを開かれたとされています。
 自分と他が一つ、「自他不二(じたふに)」という境地からこの世を見たとき、今、この地球や宇宙は皆自分の家であり、その中の生きとし生けるものは皆自分の家族である、という大いなる慈悲心が開けるのです。

 それまでは苦行に耐え、自分を磨こう、善いことをしよう、生老病死の苦しみを超克しようという自己本位の行いがありました。
 しかし、自他不二を体得し、その大いなる眼(まなこ)で眺めると、この世のすべてのものは「あるがまま」なのだと「気付いた」のです。それがお釈迦様の悟りです。
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 ドジョウという自己が、現実において金魚のドジョウか、ドジョウの金魚か不明ですが、成りたいと、金魚という対立する関係において自己を否定したとき、ドジョウのままで良いのだと気付かされます。
 真理が見えた、現実の世界構造が見えたからこそ、否定から肯定へと向かう道となります。別の言葉で言えば、スミレはスミレのままでよいし、ぺんぺん草はぺんぺん草を生きる道があることが見えてきます。
 そこには、世界にただひとつの独立した、ぺんぺん草、ドジョウ、スミレと、そして自も他もと。この構造こそ、相対的な世界を生きるすべとなるはずです。
 「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」とは、スミレはスミレのまま、ドジョウはドジョウのまま、自他無二とは、世界が一つと成ることで、逆にそれぞれが独立した存在であることを表現した言葉のはずです。
 それを人生に喩えてみれば、老いてまだ坂を登るが如くあるから、老いが豊かであるのではないでしょうか。老いて、若さに立てば老いは姿を変えるものですと……だから、ドジョウはドジョウのままでいいんだと……

 ドジョウやスミレ、ぺんぺん草やタンポポとして、空間的に独自のモノとして存在しています。それは、他と区別されて、各々が差別によって数々と存在するということです。これが世界の有り様なのだと、この現実の世界を一とすれば、不一と、一つに非ずと、多の方向を示します。

 春になれば梅や桜の花が開き、秋になれば黄色く色づき、冬には枯れてと、人もそのように生きているはずなのです。人も植物も生きとし生けるもの百花繚乱として、それがそのまま一となります。

 家族も、学校も仕事場も、国も、一にして多、不一にして、異に非ずの関係こそが、現実の有り様となっているはずです。学校のクラスが一つに成るためには、生徒である多の個別は、それぞれが独立とした存在であり、そして、障(さわ)りや妨(さまた)げのないモノとしてあって、はじめて一つであるといえます。

 この同時という視点こそが、「ドジョウはドジョウのままに」生き、スミレはスミレのまま花を咲かすことが、世界は慈悲に満ちあふれている表現となるはずです。
 大乗仏教は、よく「自位に住す」「法位に住す」といいます。それぞれの真理、如実の真理に拠り所を持って生きると。そこに、ドジョウは、真の自己となります。これを、あるがままに生きる、住す、または、あるがままを拠り所とするといいます。

 一は多に、多は一に(まるで三銃士の言葉のようです)、これこそが、「自他不二」ということです。体得しても、しなくても、無心となって働き、生きる行為や姿こそ、自他不二と思っています。

注:鈴木大拙・西田幾多郎・中山延二氏の考え方を参考にしております。



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