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福は外、鬼は内
 白隠禅師の著した「白隠禅師坐禅和讃の冒頭に、「衆生本来、仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷りなく、衆生のほかに仏なし。」と説きます。
 私もそうでしたが、自分のどこが、何が仏なのだろうかとの問いが、含まれています。 自分の境遇や持っているものを比較したり、その比較したものに振り回されてばかり、欲しい、うらやましいと。その欲しいとか、うらやましいの中身は、多くは金銭にかかわるものであるし、また、病気であったり、身体的なもの、生まれによるものもあるかもしれません。

 2月3日は節分ですが、「福は内、鬼は外」と、まるで、節分のような自分自身の心の葛藤が見えるようになってきました。
 小さい頃もそうでしたが、大人になっても、節分は「福は内、鬼は外」です。でもよく考えてみると、それを言わせているのは、自分の中の鬼ではないかと考えたこともありました。
 もっとも、「福は内、鬼は外」と見えるようになっても、相変わらず自分の心の中には、「福は内、鬼は外」と染みついたモノの見方が住んでいるようです。
 だからこそですが、例年の5月の陽岳寺のお施餓鬼でも、「仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ります。このことが施餓鬼会をおこなう理由となるのでしょう。」と言い続けています。

 考えてみると、本当は福も鬼も心の中に一体として生きていることを思うのです。だから、いわせているモノは誰なのだとうと問うことに意味があると思っています。
 何故なら、「福は内、鬼は外」と言わせ続けることで、人間の心の内に善と悪、綺麗なものと汚いもの、量の多いもの、質の高いもの、高価なもの、綺麗なものなどの選択を知らぬうちに染みこませている気がいたします。えり好みする習性を植え付け指すのではないかとです。
 しかし、禅宗の世界に入って、そんな心の葛藤を見ることができるようになって、「福は内、鬼は外」であるものの、ただ、内と外にわずらわされていると、考えることができるようになり、幾分かは、楽になり、物事が見えてきたような気がいたします。でも錯覚かもしれませんが……

 初期仏教のスッタニパータ、初期といっても、もっとも釈尊の生の声を反映したものですが、そのスッタニパータに、『慈しみの経』があります。

 一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 いかなる生きもの生類であっても、怯(おび)えているものでも、強剛なものであっても、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目にみえるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸せであれ。
 何人も他人を欺(あざ)いてはならない。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人を苦痛を与えることを望んではならない。
 あたかも、母が己(おのれ)が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。
 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。

 この『慈しみの経』こそ、どこにいても祈りの言葉となるもです。それこそ、仏壇でも、怒りや寂しさに覆われたときでも、自分の心を癒やしてくれ、そして自分の心を見つめさせるものです。
 仏教の目指すものは、私もまだできないけれど、「福は外、鬼は内」ではないかと思います。そして、「誰もが幸せであるように」と、祈ることができるようになれることが、今、日本も世界も必要としていることでないかと思ったいます。

 さて、釈尊仏陀は、誕生したとき、七歩、歩いて天を指さし、地を指し、「天上天下唯我独尊」と伝えられています。
 人間一人一人、世界にあって個人の絶対の自由さを宣言するものです。しかし、自分の自由さなんて何もない。いつも他人の言うことばかり気になって、一つも自分らしさなどないぞと、思っていないでしょうか。このことは、自分のどこが何が絶対の個人の自由さなのかの問いにつながります。

 鎌倉時代、栄西禅師の著した興禅護国論の序に、
「大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
 日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や。」

 人間の心は、だれでも、この自由さを秘めています。だから、正反対の心もあるのだと思っています。そして執着からくる不自由から脱するため、人はこの絶対の自由を手にいれようと、もがくのですが、この作業をやめたときこそ、実は、得ることができるのだと禅は主張しています。

 2月3日の節分という節目、分け目は、そんな人間の心に、「福は外、鬼は内」こそが、天上天下唯我独尊と、切り替えるヒントを与えてくれるものでもあります。

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